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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第9話 氷の公爵 読めない人

 王立学園の古い裏庭。

 そこには、手入れを放棄された灌木が、重力に逆らうことを諦めたように地面へ這い寄っている。

 湿った土と、腐りかけた落葉の匂いが、肺の奥にじわりと重く沈殿していくのを感じる。


 その時、背中の中心――肩甲骨の間に、鋭い針でなぞられるような感覚が走った。

 視線。

 それは物理的な質量を持って、私の制服の布地を透過し、皮膚の表面を微かに粟立たせる。


 振り返る。

 視界の端で、影が揺れたような気がした。

 しかし、網膜に焼き付いたのは、乱反射する木漏れ日と、風に急かされて騒ぐ青い葉の残像だけだった。


「……気のせい、かしら」


 声に出してみるが、その音は湿った空気に吸い込まれ、自分自身の耳にすら、どこか遠い場所から届く他人の声のように響く。

 喉の奥に、飲み込み損ねた小さな硬い塊が残っているような違和感。


 前世。

 戦場の最前線で、ファインダーという四角い硝子越しに世界を切り取っていた頃、私は知っていた。

 レンズのこちら側は安全ではない。

 観測しているつもりで、その実、私は巨大な「運命(シナリオ)」という名のレンズに、常に狙われ続けていたのだ。


 背筋に残るその熱い「ノイズ」を振り払うようにして、私は歩き出す。

 一歩。踵が湿った土を踏み締めるたび、地面から微かな抵抗が返ってくる。

 それは、この世界が確かに実在し、私という異物を排除しようと押し返している証拠のように思えた。


 ――数日後。


 午後の光が、大図書館のステンドグラスを透過し、蜂蜜のような粘度を持って床に滴り落ちている。

 数万冊の紙束が吐き出す、古びた植物と膠の匂い。

 それが、肺胞を一つずつ塗り潰していくような、静かな重みとなって私を包み込む。


 私は、重厚な楢の木の机に、数冊の貴族名鑑を広げた。

 指先が、羊皮紙のざらついた表面に触れる。

 紙の縁は使い込まれて丸みを帯び、そこには幾人もの人間が知識を求めて指を滑らせた「時間」が、摩擦の痕跡として刻まれている。


 ページをめくる。

 乾いた紙が噛み合う「カサリ」という音が、静寂の中で不自然なほど大きく、鼓膜を微かに震わせる。


「……レオン・ノワールクール」


 唇を動かす。

 音にはしない。ただ、肺から押し出された呼気が、名前の形に震えただけだ。

 それでも、その名をなぞった瞬間、胃の底に冷たい石を置かれたような、鈍い圧迫感が生じた。


 王国最年少の公爵。

 北の果て、一年中凍てつく風が大地を削る、ノワールクール領の主。

 十九歳の彼は、原作という名の「予定調和(ガイドブック)」において、最も解像度の低い、空白の領域だった。


 『隠し攻略対象(シークレット)


 その不穏なラベルが、私の脳裏で点滅する。

 彼という不確定要素が、私が心血を注いで構築している「誰も傷つけないための自己犠牲」という精密な歯車に干渉してくれば。

 アルベール殿下とステラのハッピーエンドは、砂の城のように、音もなく崩落するだろう。


「予測できない被写体は、フレームに入れるべきではないわ」


 独り言が、胸腔内で反響する。

 名鑑を閉じる。

「バフリ」という鈍い音が、私の決意を物理的な振動として机に伝え、指の骨を伝って肘のあたりまで響いた。


 彼には近づかない。

 視線を合わせず、呼吸を合わせず、ただの風景の一部として溶け込む。

 存在しないものとして、この世界の影に潜み続ける。


 そう自分に言い聞かせ、席を立つ。

 膝の関節が、椅子から立ち上がる際の重力に抗って、小さく音を立てた。


 通路へ踏み出す。

 床に敷かれた古い絨毯が、一歩ごとに私の足首を掴むような、粘り気のある沈み込みを見せる。

 前方から、一つの影が、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。


 ――心拍が、微かに、しかし確実にその速度を変える。


 長身。

 軍服の襟元まで整えられた、非の打ち所のない制服の着こなし。

 銀灰色の髪が、窓からの光を反射して、凍りついた金属のような冷たい輝きを放っている。


 そして、その瞳。


 底知れない、冬の湖の奥底を思わせる、昏い青。

 レオン・ノワールクール。


 私は足を止め、反射的に書架の端へと身体を寄せた。

 古い木の背表紙が、制服越しに背中に触れる。

 乾燥した木の硬質さと、冷たさが、現実感を伴って私を現世に繋ぎ止める。


「……」


 私は、完璧なカーテシーの姿勢をとる。

 首筋の角度、指先を重ねる位置、膝を曲げる深さ。

 すべてを「淑女の規範(マニュアル)」通りに遂行する。


 顔には、筋肉を数ミリ単位で調整した、完璧な中立の微笑みを貼り付ける。

 感情を排除した、単なる「装置(インターフェース)」としての貌。


 彼は、そのまま通り過ぎるはずだった。

 周囲の学生たちがそうするように、背景として、あるいは空気の揺らぎとして、私を無視して。


 しかし。


 彼の靴音が、私の真横で止まった。


 絨毯を押し潰す、硬い革底の音。

 それと同時に、彼の身体から立ち上る、微かな冷気の質感が肌に届く。

 雪解け水のような、清潔で、それでいてひりつくような冷ややかさ。


 すっと、彼の視線が動いた。


 私の網膜に、彼の青い瞳が、異常な精細さで映り込む。

 瞳孔が、私の姿を捉えて、わずかに収縮する。

 睫毛の影が、彼の白い頬に落ち、微かな陰影を作っている。


 私の胸の奥で、心臓が「ドクン」と、肋骨を内側から叩くような不自然な衝撃を放った。

 それは単なる鼓動ではなく、私の平穏な世界が外力によって歪められた際の、悲鳴のような振動だった。


 彼の視線は、私を「見て」いた。

 しかし、そこには嫌悪も、憐れみも、ましてや恋情などという甘い不純物も、一切含まれていない。


 ただ、圧倒的なまでの観測。


 私の骨の髄まで、その存在の根源までを暴こうとするような、鋭利な硝子の刃物。

 あの裏庭で背中に感じた、突き刺さるような「重さ」と、全く同じ質のもの。


 『なぜ、そんな目をするの』


 問いは、喉を通過する直前で、何かに――名前のない、喉の奥の収縮によって押し戻される。

 唇は、微笑みの形を保ったまま、石膏のように固まっている。


 呼吸が、止まっていた。

 肺が空気を欲して軋んでいるのに、横隔膜が動くことを拒否している。


 レオンは、言葉を交わすことはなかった。

 ただ、一瞬だけ、眉間を数ミリだけ寄せるような、微かな「違和感」を見せた。


 そして、再び靴音が響く。

 彼は私を通り過ぎ、図書室の奥、光の届かない書架の闇へと消えていった。


 彼の足音が、廊下の角を曲がって聞こえなくなるまで。

 私は、冷たい書棚に背を預けたまま、指先が凍りついたように動かせなかった。


 ようやく肺が動き出す。

 吸い込まれた空気は、鉄の匂いが混じっているように感じられ、喉の奥をヒリつかせる。


「……気のせいよ。たまたま、目が合っただけ」


 自分に言い聞かせる言葉が、震えている。

 指先を見れば、爪の白い部分が、かすかに上下に振動していた。

 自分の意思とは関係なく、身体が、彼という「異物(ノイズ)」に対して、過剰なまでの警戒信号を発し続けている。


 氷の公爵。

 誰にも興味を持たず、誰の心も解かさない男。


「そう。彼は私に興味なんてない。絶対に」


 反芻するたびに、胃の重みが増していく。

 まるで、飲み干した冷たい水が、体温を奪いながら腹の底に溜まっていくような、逃げ場のない不快感。


 ***


 学園の喧騒が、分厚い石壁の向こう側で、遠い潮騒のように響いている。


 私は再び、あの手入れされていない裏庭にいた。

 ここだけは、時間の流れが空気の重さに比例して、ゆっくりと澱んでいるように感じる。


 古い石造りのベンチ。

 その表面を覆う、冷たい苔の感触を掌で確かめる。

 ざらついていて、少しだけ湿っている。


 私は、そこに腰を下ろした。


 顔の筋肉を、ようやく弛緩させる。

 中立という名の、強固なプラスチックのような仮面が、ぱきぱきと音を立てて剥がれ落ちていくような錯覚。


「……ふぅ」


 吐き出した吐息が、白く濁っているように見えた。

 春だというのに、私の身体の芯だけは、まだ冬の領地に置き去りにされている。


「大丈夫。計画は、まだ破綻していない」


 小さく呟く。

 膝の上に置いた手が、無意識にスカートの布地を握りしめていた。

 布地と皮膚の間に生じる摩擦が、指先に熱を呼び起こす。


 あの図書館での接触以来、彼は一度も私に話しかけてはこない。

 学園ですれ違うことがあっても、彼は二度と私を見ることなく、ただの無機質な彫像として、私の横を通り過ぎる。


「彼は氷の公爵。誰にも、何にも興味を持たない」


 その前提を、祈るように繰り返す。


 春の風が、不規則に木々を揺らし、私の頬をなぞっていく。

 その温かさは、かえって私の内側の「冷たさ」を際立たせるだけだった。


 私は、ベンチの背もたれに、自分の全体重を預けた。

 石の硬さが、背骨を一段ずつ押し上げていく。


「疲れたわ……」


 本音が、唇からこぼれ落ちる。

 それは、実体を持たない言葉のはずなのに、足元の影の中にポトリと落ちて、そのまま底なしの深い場所へ沈んでいくような気がした。


 私は、一人でいなければならない。

 誰にも見られず、誰の意識にも残らず、ただ物語の「外側」で、幕が下りるのを待つ。


 それが私の役割であり、償いであり、たった一つの、救いなのだから。


 空を見上げる。

 流れる雲が、特定の形を結ぶことなく、ただ淡々と、物理法則に従って形を崩し続けている。


 しかし。


 私はまだ気づいていなかった。

 この絶対的な孤独という名のシェルターを。


「誰か」が、その鋭い視線の先で、すでに捉え始めていることに。


 私がどれほど中立を装っても。

 どれほど背景として振る舞おうとしても。


 踏み締める土の重み、乱れる呼吸、指先の震え。


 そのすべてを、私以上に精密に記録し、その「真意(ノイズ)」を読み解こうとする者が、すぐそばまで迫っていることを。


 私はまだ、フレームの外側に立ち続けられると、信じていた。


 春の微睡みの中、木漏れ日の斑点に身体を浸しながら。

 私は、次の一歩を踏み出すための「質量」を、かろうじて、この細い身体の中に溜め込んでいた。

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