幕間 老執事の沈黙
真夜中の公爵邸は、眠ることのない巨大な墓石のようだった。
石造りの大廊下を、老執事アルフレッドの革靴が、物音一つ立てずに進んでいく。
手に持った銀の燭台。そこに灯された一本の蝋燭が、彼の深く刻まれた皺を、後悔の念のように照らし出していた。
彼は就寝の途上だった。
だが、その足は無意識のうちに本来の順路を外れ、北棟の最上階……セレスティーヌお嬢様の部屋へと続く重厚な扉の前で止まっていた。
「……」
扉の隙間から、針のように細い光が漏れている。
時刻は丑三つ時をとうに過ぎている。
普段ならば、完璧な公爵令嬢として規則正しい眠りについておられるはずの主。
けれど……あの日から。
原因不明の高熱で数日間生死の境を彷徨い、不意に奇跡的な回復を遂げられた「あの日」から。
セレスティーヌ様の周囲を流れる静寂は、明らかに以前とは違う凍てついた気配に変質していた。
アルフレッドは、かつて彼女の揺り籠を揺らした日のことを思い出していた。
かつてのお嬢様は、どこか常に空虚で、両親の愛情を求めては不器用に挫ける、ひび割れた硝子細工のような少女だった。
それが、目覚めた後の彼女は――。
まるで、自らの人生から一切の彩りを切り捨て、感情すらも封じ込めた亡霊のようになってしまわれた。
アルフレッドは、震える手を扉へと伸ばしかけ、止めた。
今、ノックをして安否を問うこと自体が、彼女の張り詰めた糸を切ってしまう強迫になるような、奇妙な拒絶の圧を感じたのだ。
扉の向こうから漏れ聞こえてくるのは、乳鉢と乳棒が微かに擦れ合う音。
そして、本来ならば令嬢の私室には不似合いな、土の湿り気を感じさせる薬草の香り。
アルフレッドは知っていた。
お嬢様が、夜な夜な庭師の目を盗み、温室の裏で名もなき野草を摘んでいることを。
そして、執務室から持ち出した古い紙片の裏に、医学書にも載っていないような緻密な調合式を血の滲むような真剣さで書き殴っておられることを。
それだけではない。
学園で、彼女がステラ・メルヴィユ嬢を執拗に虐げているという凶報が屋敷に届くたび。
使用人たちの間で、彼女が「冷酷な毒婦」として恐怖の対象になり始めるたび。
アルフレッドは、彼女が自室に戻った瞬間にだけ見せる、あの魂が抜け落ちたような小さな背中を見守ってきた。
鏡の前で、冷笑の角度をまるで機械のように調整し直すお嬢様。
無邪気に駆け寄ってくる弟妹たちを酷薄な言葉で追い払った後、扉の死角で、ご自身の左手を血が出るほどに噛み締めて声殺して泣いていたお嬢様。
アルフレッドは、すべてに気づいていた。
彼女が自らすべての業を被り、この公爵邸を、ひいては王国の均衡を守り抜くために、自らを悪役へと仕立て上げようとしているという、あまりにも無惨な自己犠牲の真相に。
『アルフレッド。わたくしに、余計な関心を持たないで。あなたは、ただわたくしが一人で消えるのを、黙って見ていればいいのよ』
いつかの夜、彼女がひび割れた声で放った言葉。
それは、忠実な執事に対する主からの命令ではない。
自分に関われば彼もろとも破滅の炎に巻き込んでしまうという、不器用で、悲痛な懇願だった。
アルフレッドは、燭台を握りしめた。
その指先は、己の無力さに対する悔恨で小刻みに震えている。
「……お嬢様。あなたは、どれほどの吹雪の吹き荒れる野原で、たった一人で立ち続けておられるのですか」
主が自らを呪縛し、世間の嘲笑に焼かれようとしている。
執事として、それを強引に止めることが正義なのか。
あるいは、彼女が身を削ってまで完遂しようとしている「破滅」を、そのまま見届けてやることだけが、彼に許された忠義なのか。
アルフレッドは、答えを出せなかった。
ただ、彼女の部屋から漏れる細い光が、いつか途切れるその時まで。
彼は、冷たい石の廊下で一晩中、重い沈黙という名の共犯を続けていた。
いつか。
この沈黙を破り、ただ一人の忠臣として彼女の盾となるべき日が来ることを信じて。
老執事は、短くなった蝋燭の炎を、自らの息で慈しむようにして吹き消した。




