第6話 婚約者と老執事の問い
放課後の廊下には、倦怠に近い静寂が溜まっていた。
西日に照らされた埃の粒子が、窓から差し込む光の帯の中で、重力に抗うようにゆっくりと輪舞している。
遠くで運動部の掛け声が聞こえるが、それはまるで厚い膜の向こう側から届く音のように、現実感を欠いていた。
私の前を歩いていたアルベール殿下が、不意に足を止めた。
硬い靴底が石床を叩く音が、静かな回廊に鋭い亀裂を入れる。
私は反射的に歩を緩めたが、止まりきれなかった慣性が、ドレスの重厚な裾をわずかに前へと泳がせた。
「セレスティーヌ嬢。少し話がある」
振り返った彼の翡翠色の瞳が、斜光を受けて透明度を増している。
その瞳の奥には、いつも通りの義務感と、それとは裏腹な、何かに突き動かされているような焦燥が微細なノイズとなって混じっていた。
私は呼吸を整え、横隔膜をわずかに下げてから、口を開いた。
「何でしょう、殿下」
声が喉を通過する際、わずかな摩擦を感じる。
私は意識的に口角を左右均等に引き上げた。
頬の筋肉が、あるべき位置に固定される。
それは感情の表露ではなく、長年の訓練によって骨格に刻み込まれた、完璧な「令嬢」という仮面の装着だった。
「君は、ステラ・メルヴィユという生徒を知っているか」
その名前が発せられた瞬間、胸腔の奥で、心臓が一度だけ強く、不規則な拍動を打った。
指先の感覚が、一瞬だけ遠のく。
けれど、私は瞳の絞りを固定し、視線を彼の眉間のわずか下に据え置いた。
感情をレンズから切り離し、ただの記録装置として彼を認識する。
「男爵家の分家から特例入学された方ですわね。
存じ上げておりますが、わたくしにはさほどの影響も、関心もございません」
平坦な音。
自身の声が、冷たい壁に跳ね返って耳に届く。
嘘ではない。
関心を持ってはいけないのだ、この物語を正しく終焉へ導くためには。
「……そうか」
アルベール殿下は、わずかに肩の力を抜いた。
その動作に伴い、彼の纏う空気から、張り詰めていた圧力が霧散する。
彼は視線を落とし、廊下の隅に溜まった影を見つめた。
「……王族としてのお務め、か」
自嘲気味な呟き。
彼の内側で、次期国王としての冷徹な正義と、一人の少年としての青臭い慈悲が、互いの領土を奪い合っているのが見て取れた。
ゲームの強制力が、彼の思考の回路に割り込み、ヒロインであるステラへの執着を強制上書きしていく。
「実は、彼女が学園内でかなり辛い目に遭っているらしい。
貴族の令嬢たちから嫌がらせを受けている、という話を耳にしたのだ」
「左様でございますか。それは気の毒なことですわね」
私の返答は、乾いた砂のように味気なかった。
彼は私の無関心さに、耐え難い不協和音を感じたのだろう。
翡翠の瞳が不自然なほど強く、私の顔を射抜いた。
「だが、俺一人では彼女の置かれた状況を全て把握しきれない。
君は学園の令嬢たちの中で最も影響力のある存在だ。
もし君が手を差し伸べてくれれば――」
「殿下」
私は彼の言葉を、真綿で首を絞めるような、柔らかな、けれど決定的な断絶を込めた声で遮った。
一歩、踏み出す。
靴の先がドレスの裏地に触れ、シルクの衣擦れが耳障りな音を立てた。
「他の生徒の人間関係に介入することは、わたくしの役目ではございません。
そして、殿下。
もしステラ様が本当にお辛い状況にあるならば、ヴァルモン家の令嬢の力を借りるのではなく、殿下ご自身が直接手を差し伸べるべきではありませんか」
私はそこで言葉を切り、彼の瞳の奥に潜む「何か」を覗き込むように、首を傾げた。
「それこそが、王族としてのお務めではないでしょうか」
アルベール殿下の瞳が、大きく見開かれた。
光を失った網膜の奥で、私の言葉が沈殿していく。
彼は、私が協力を拒んだという表面的な事実の重みに耐えかねて、わずかに後ずさった。
私には、彼の指先が震えているのが見えていた。
けれど、私はそれを「見ていない」ことにした。
見ることそのものが、物語の分岐を破壊してしまうから。
「……君は、本当に冷たい人なのだな」
彼は、重い荷物を背負わされた歩兵のような足取りで、背を向けた。
廊下の角を曲がるその瞬間まで、彼の背中には「正義を拒絶された被害者」の質量がまとわりついていた。
足音が完全に聞こえなくなるまで、私は口角を上げたまま、石像のように立ち尽くしていた。
肺の奥に溜まった空気が、熱を帯びて喉を焼く。
ようやく息を吐き出したとき、それは震える吐息となって、夕闇に溶けていった。
***
その夜、王都は重い霧に包まれていた。
石畳は湿り気を帯びて黒く光り、街灯の光を鈍く反射している。
私は使用人の、汚れの目立たない灰色の外套を深く被り、裏通りを歩いていた。
鼻腔を突くのは、饐えたゴミの臭いと、冷たい湿気の混じった、都市の排泄物のような匂いだ。
学園の芳香とは対極にあるその「汚れ」が、今は不思議と心地よかった。
ここでは、ヴァルモン公爵令嬢という重苦しい殻を、脱ぎ捨てていられるから。
目的の酒場は、路地の行き止まりにひっそりと佇んでいた。
重い木製の扉を引くと、錆びた蝶番が耳障りな悲鳴を上げる。
中の空気はアルコールの臭気と安煙草の煙で濁り、呼吸をするたびに肺が重くなる感覚があった。
私は部屋の隅、影が最も濃く落ちている席に腰を下ろした。
「――ステラ・メルヴィユという平民の少女を匿名で護衛する者を雇いたいの。
学園の敷地内外を問わず、彼女の安全を確保できる腕の立つ者を」
向かいに座る男は、顔の半分を包帯で隠し、残された片目でじろりと私を観察した。
私は外套の中から、金貨が詰まった革袋を取り出し、テーブルの上に置いた。
ズシリとした、金属の質量が木目に伝わる。
「これは随分な額ですな。あの嬢ちゃん、何者です?」
「あなたが知る必要はないわ」
私の声は、先ほど廊下で殿下に向けたものより、ずっと鋭く、硬質だった。
感情を殺すのではなく、研ぎ澄ますことで生まれる鋭角的な響き。
「条件は三つ。
一つ、彼女自身に護衛の存在を悟らせないこと。
二つ、護衛を雇った人物の正体を絶対に明かさないこと。
三つ、万が一彼女に危害が加えられそうになった場合、『偶然居合わせた善意の第三者』として介入すること」
男は汚れた指先で金貨を一枚取り出し、その縁を親指でなぞった。
金属同士が擦れる、粘りつくような音。
「……完璧に匿名の護衛、ですか。変わった依頼ですが、まあ、金に不足はない。承りましょう」
男が金貨を懐に収めるのを見届け、私はすぐに席を立った。
滞在時間はわずか数分。
けれど、その数分間で、私の背中にはじっとりとした嫌な汗が張り付いていた。
これでいい。
彼女の安全は、金と暴力によって保証される。
私が直接手を汚し、あるいは直接救う必要はない。
物語の主役は彼女であり、私はその舞台を整えるだけの装置に過ぎないのだから。
酒場を出ると、霧はさらに深まっていた。
外套の表面が細かな水滴で覆われ、ずっしりと重みを増していく。
「……誰にも、気づかれてはいけない」
独り言が、白く濁った空気の中に吸い込まれて消える。
私は、自分の指先が微かに震えていることに気づき、それを外套のポケットの奥深くへと押し込んだ。
そこにあるのは、金貨の抜けた後の、空っぽの革袋の虚無だけだった。
***
深夜。
公爵邸の重い玄関扉を開けると、そこには音のない闇が広がっていた。
私は足音を殺し、廊下を進む。
壁に掛けられた歴代当主の肖像画が、冷たい視線で私を見下ろしているような錯覚に陥る。
自室へ続く階段を上り、廊下を曲がった、その瞬間だった。
「お嬢様。……お帰りが遅うございましたね」
低く、地を這うような声。
心臓が喉元まで跳ね上がり、呼吸が止まる。
暗がりに佇んでいたのは、老執事アルフレッドだった。
彼が持つ銀の燭台が、微かに揺れる炎を反射し、彼の深い皺に縁取られた顔を不気味に浮かび上がらせている。
私は一瞬の硬直の後、すぐに顔の筋肉を「令嬢」の形に再構成した。
口角を数ミリ。
眉の角度を一定に。
「……アルフレッド。少し、夜風に当たっていただけよ。それ以上の報告が必要かしら?」
声は震えていない。
完璧だ。
はずだった。
「……左様でございますか」
アルフレッドは動かなかった。
彼の瞳は、私の顔を通り抜け、その奥にある「実体」を正確に捉えようとしていた。
炎の揺らめきに合わせて、彼の影が壁の上で巨大な怪物のように膨張し、私を圧迫する。
「差し出がましいことを申します。……お嬢様が深夜にこっそりとお出かけになられるのは、今に始まったことではございません」
「……何のことかしら」
「使用人の子供たちへの薬も。弟様の枕元のおもちゃも。そして今夜の外出も」
冷たい水が、脊髄を伝って流れ落ちるような感覚。
私は、自分が何年もかけて築き上げてきた完璧な城壁に、目に見えない罅が入る音を聞いた。
「お嬢様は、なぜそこまでなさって、誰にも気づかれまいとするのですか。
なぜ――笑っておられるのですか」
その問いは、物理的な質量を持って私の胸を突いた。
肺が圧迫され、必要な酸素が取り込めない。
心臓が、肋骨を内側から叩き壊そうとするかのように激しく打動する。
私は、さらに笑顔を強く作った。
頬の筋肉が悲鳴を上げ、強張る。
悲しい時ほど、絶望した時ほど、私の口角は天を向く。
それはかつて、血の臭いが立ち込める戦場(ゲームの世界)で、正気を保つために身につけた、呪いのような防御機制だった。
「……何を仰っているの、アルフレッド。わたくしはヴァルモン家の令嬢として、当然の振る舞いをしているだけよ」
言葉を吐き出す。
けれど、私の右手の指先が、ドレスの絹地を白くなるほど強く掴んでいるのを、自分では制御できなかった。
指先の骨が透けて見えるほど、血の気が引いている。
合理的な思考が「完璧」を演じようと叫んでいても、私の身体は、一人の老人の眼差しを前に、無様に真実を暴露し始めていた。
アルフレッドの視線が、私の指先に落ちる。
彼はそれ以上、何も追求しなかった。
ただ、悲しみを含んだ静寂が、私たちの間に横たわった。
「……左様でございますか。老いぼれの戯言と、お忘れくださいませ。良い夢を、お嬢様」
彼は静かに一礼し、燭台の光とともに闇の中へと歩み去った。
光が遠のくにつれ、私の視界は再び深い影に塗りつぶされていく。
一人になった瞬間、支えを失った私の身体は、壁に背を預けたまま、ずるずると床へ崩れ落ちた。
床の冷たさが、ドレス越しに肌へ伝わる。
涙は出なかった。
涙腺を動かす方法は、もう何年も前に忘れてしまった。
ただ、胸の奥で、何かが軋んでいた。
誰かに見つかりたいという本能と、決して見つかってはいけないという転生者としての義務が、互いを磨り潰し合っている。
「……笑っていなければ、泣いてしまうからよ」
誰もいない廊下に、掠れた声が落ちた。
それは声というよりは、肺から漏れ出た空気の欠片だった。
私の鉄壁の仮面に、アルフレッドという老執事だけが刻んだ、些細な、けれど致命的な傷跡。
それがやがて、私の運命を決定づける証言となり、張り付いた笑顔の下に隠された「私」を世界に暴く鍵になることなど。
この夜の冷たい床の上で、私はまだ、知る由もなかった。




