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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第5話 深夜の匿名善行

 磨き抜かれた大理石の床が、窓から注ぐ春の陽光を暴力的なまでにね返している。

 王立学園の大広間は、数百人の新入生が吐き出す熱気と、何層にも塗り重ねられた香水の匂いで、飽和状態にあった。

 吸い込む空気は重く、肺の奥に微細な金粉が沈殿していくような、言いようのない圧迫感を覚える。


 私は、巨大な円柱が作る影の中に身を潜めていた。

 背中に触れる石柱の冷たさが、ドレス越しに皮膚の熱を奪っていく。

 指先を軽く曲げ、てのひらの中に空間を作る。

 視界を狭め、群衆の動きを「構図」として切り取る――。


 フレームの中央に、その少女がいた。

 蜂蜜色の髪が光を透過し、周囲の極彩色のドレスの中で、そこだけが淡い水彩画のように浮き上がっている。

 琥珀色の瞳は、絶え間なく揺れ動いていた。

 彼女が立つ半径一メートル以内には、誰もいない。


 ステラ・メルヴィユ。

 彼女の周囲にだけ、透明な壁が存在しているかのように、人々の動線が不自然に屈曲している。

 それは、目に見えない「拒絶」の力場だった。


「ご覧なさい。あんな平民上がりが、私たちと同じ空気を吸っているなんて……」

 扇を広げる乾いた音が、広間のあちこちで、まるで小さな破裂音のように響く。

 言葉の鋭角が、ステラの細い肩を物理的に押し下げているのが見えた。

 彼女の指先が、安価な綿織物のスカートを、白くなるほどに握りしめている。


 喉の奥で、苦い液体がせり上がる感覚があった。

 助けに飛び出すのは、簡単だ。

 私のこの「公爵令嬢(ラベル)」という重しを、天秤の反対側に置くだけでいい。

 けれど、私の足は、石柱の一部になったかのように一歩も動かない。


 ここで私が介入すれば、彼女の「悲劇の完成度」が損なわれる。

 やがて現れる「救済者(アルベール)」のために、この孤独という空白を維持しなければならない。

 私は、ただの背景。

 物語の隅に置かれた、意思を持たない彫像。


 ふいに、ステラの視線が彷徨さまよい、私の影とぶつかった。

 彼女の瞳に、一筋の光が――溺れる者が差し出された枝を掴もうとするような、湿り気を帯びた切実さが宿る。

 彼女が、こちらに向かって、一歩。

 靴底が床をこする、微かな摩擦音が聞こえた。


 私は、即座に「笑顔(シャッター)」を固定した。

 口角を引き上げる筋肉の動きには、一切の迷いがない。

 それは、相手を迎え入れるためのものではなく、そこに「誰もいない」ことを証明するための、無機質な境界線。

 ステラが言葉を紡ごうと唇を震わせた瞬間、私は彼女の横を通り過ぎる。


「……ごきげんよう」

 声が、喉の奥の乾燥した粘膜を通り抜ける。

 それは、ただの音の羅列だ。

 湿度も、温度も、質量も持たない、情報の残骸。


 背後で、ステラの動きが停止する気配がした。

 彼女の瞳から光が消え、視線が床へと「落下」していくのが、見なくてもわかった。

 彼女の絶望が、私の背中に冷たい重みとなってのしかかる。

 それでいい。

 これが、この世界の、正しい重力なのだから。


 ***


 学園の生活は、磨りガラス越しの風景のように、私との間に一定の距離を保って過ぎていった。

 廊下ですれ違う人々は、私の「完璧な品格」に触れるのを恐れるように、不自然に道を譲る。

 私は、誰とも視線を混ぜない。

 言葉は、必要最小限の文字数に削ぎ落とし、事務的なリズムで吐き出す。


 アルベール殿下との対話も、それは「儀式」に過ぎなかった。

「セレスティーヌ嬢、今日の魔法史の講義だが……」

「はい、殿下。王家の血統が紡いだ歴史の重みを、再確認いたしましたわ」

 私の返答は、石に刻まれた碑文のように硬く、表情がない。


 殿下の翡翠色の瞳が、私の顔から「人間」を探そうとして、失敗し、わずかに曇る。

 彼の呼吸が、一瞬だけ重くなる。

 失望。忌避。

 彼の中に積み重なるその負の質量こそが、将来、彼をステラの元へと突き動かす推進力になるのだ。


 ***


 入学からひと月が経ち、夜の空気には、湿った土と若い草の匂いが混じるようになった。

 その夜、学園の隅にある使用人棟からは、絶え間ない咳き込みと、震えるような呻き声が漏れていた。

 流行り風邪。

 平民の子供にとって、それは死の別名に等しい。


 午前二時。

 私は、寝巻きの上から墨色のローブを羽織った。

 絹の擦れる音が、静まり返った自室で、驚くほど大きく響く。

 裸足に履いたスリッパが、冷え切った廊下の床を叩く。


 薬草園の温室は、月明かりを吸い込んで、青白く発光していた。

 扉の取っ手が、掌の熱を奪う。

 鍵を開ける音は立てない。

 私は、暗闇の中でも、指先の感覚だけで必要な植物を識別できた。


 前世。

 消毒液の匂いが鼻腔を焼き、絶え間ない砲撃の振動が地面から伝わってくる、あの野戦病院。

 物資が底を突き、医師たちが絶望して手を止める中。

 私は、カメラを置き、現地の毒草から有効成分だけを抽出する作業(プロセス)に没頭していた。


 乳鉢の中で薬草をすりつぶす。

 ゴリ、ゴリ、という鈍い振動が、腕の骨を伝って肩まで届く。

 植物の茎が潰れ、緑色の粘り気のある汁が染み出してくる。

 その香脂の強い匂いが、私の脳の奥深くにある「記録者(カメラマン)」としての冷徹さを呼び覚ます。


 調合に、魔法は使わない。

 ただ、正確な分量と、物理的な時間。

 小瓶に詰めたその液体は、治癒魔法のような輝きは持たないが、確実に、生命の歯車を再び動かす力を持っていた。


 使用人棟の狭い部屋。

 扉の隙間から、澱んだ熱気が漏れ出している。

 床で眠りこける母親の傍らで、小さな男の子が、溺れるように空気を求めて喉を鳴らしていた。

 私は、彼の熱い額に手を添える。

 皮膚は、焼けるような熱を帯び、汗でベタついていた。


 小瓶の薬を、彼の唇の端から流し込む。

 ゴクリ、という嚥下えんげの音が聞こえるまで、私は彼の顎を支え続けた。

 やがて、彼の呼吸のトゲが取れ、穏やかなリズムへと変わっていく。

 その安らかな寝息が、私の胃の底にある重苦しさを、ほんの少しだけ和らげた。


 私は、羽ペンを取り出し、月光を頼りにメモを書きつける。

 貴族の文字ではない。

 一秒を争う現場で、誰が見ても誤解の余地がない、無機質な実用文字。

『朝までに熱は下がる。脱水に注意し、白湯を。安静に』


 メモを小瓶の横に置き、私は立ち上がる。

 誰にも見つからない。

 誰にも感謝されない。

 私の存在というノイズを消し、世界をあるべき「構図」へと戻すだけ。

 それが、私の正義だ。


 ***


 翌日の昼休み。

 私は、学園の裏庭にある、手入れの行き届かない古いベンチに座っていた。

 周囲には、生い茂る木々のざわめきと、遠くで鳴く鳥の声しかない。

 ここだけが、私の顔の筋肉を「解放」できる場所だった。


 ふ、と息を吐き出す。

 完璧に固定されていた表情が崩れ、重力に従って顔のラインが緩んでいく。

 ただの、どこにでもいる、疲れ果てた少女。

 私は、膝の上に置いた自分の手を見つめる。

 昨夜、薬草をすりつぶしたせいで、爪の間にわずかな緑色の染みが残っていた。


「……計画通りよ」

 言葉が、風に乗って消えていく。

 すべては、私の思い描いた通りの構図で動いている。

 はずだった。


 不意に。

 背後の茂みから、冷たい電気が走るような感覚を覚えた。

 誰かが、私を見ている。

 ただの視線ではない。

 私の内側を、その仮面の下にある「何か」を、強引にこじ開けようとするような、鋭利な視線。


 心臓が、跳ね上がる。

 私は反射的に、コンマ一秒で「完璧な笑顔」を顔に貼り付け、振り返った。

「誰……? 」


 だが、そこには誰もいなかった。

 春の柔らかな日差しが、若葉の影を地面に描いているだけ。

 風が通り抜け、葉と葉が擦れ合う音が、嘲笑あざけるように響くだけ。


 けれど、私の肌に残った「視線の感触」は、消えなかった。

 それは、私の知らない物語の外側から届いた、未知の質量(アンノウン)だった。

 私は、自分の指先が、微かに震えていることに気づいた。


 この学園のどこかに、私の計算式を狂わせる、巨大な「特異点(ブラックホール)」が潜んでいる。

 私は、逃げるようにして、裏庭を後にした。

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