第4話 偽りの笑顔と、弟の涙
埃の粒が、朝の光の中で自転している。
窓から差し込む斜光が、ヴァルモン公爵邸の長い回廊を、鋭利な明暗の断層に切り分けていた。
私は、その光の粒子が肺の奥に沈殿していくのを待つように、静かに呼吸を整える。
不意に、遠くから微かな振動が伝わってきた。
トタ、トタ、と大理石の冷たい床を叩く、一定ではないリズム。
それは廊下の空気を不規則にかき回しながら、私の自室へと確実に近づいてくる。
コン、コン。
控えめなノック。その音の余韻が消えかかるより早く、扉がわずかに開く。
隙間から覗いたのは、朝露に濡れたばかりの森のような、銀色の髪。
弟の、エドガーだった。
「お姉ちゃん……これ」
エドガーの声は、喉の奥で震えていた。
彼が両手で大事そうに掲げているのは、不格好な一塊の木。
それは、昨夜の私が――誰も見ていない深夜、指先の皮を削りながら彫り上げた――一匹の犬だった。
木彫りの表面には、まだ私の指先から移った体温が残っているのかもしれない。
エドガーの指が、彫り跡の凸凹に沿って、愛惜を込めるように這っている。
紫水晶の瞳が、眩しすぎる光を避けるようにして、私を不安げに見上げた。
胃の底が、じわりと冷たくなる。
昨夜、ナイフの刃先が滑って親指に刻んだ、あの鋭い痛みが蘇る。
血はすでに止まっているが、皮膚の奥では、心拍に合わせてドクンドクンという拍動が続いている。
まるで、その小さな傷が「忘れるな」と私に警告しているかのように。
私は、彼から目を逸らした。
代わりに、その木彫りの犬だけを注視する。
犬の左耳の付け根に、削り残したささくれがある。
なぜ、あんな些細なミスを放置してしまったのか。
視界が、そのささくれ一点に固着していく。
エドガーの泣き出しそうな表情も、部屋の豪華な調度品も、すべてが周辺視野の彼方へと融解し、消失した。
世界には今、不格好な木彫りの耳と、私の震える指先だけが存在している。
「あら、エドガー。朝から騒々しいですわね」
唇が勝手に動き、温度を剥ぎ取った音を紡ぎ出す。
自分の声が、自分のものではない別の生き物のように耳に届いた。
まるで、冷たい水の中に沈んだ状態で、水上の音を聞いているかのような、奇妙な剥離感。
「その汚らしい木屑は一体何かしら? 使用人の落としたガラクタを拾って喜ぶなど、みっともない真似はおやめなさい」
エドガーの肩が、びくりと跳ねる。
彼の手の中で、木彫りの犬が僅かに揺れた。
その瞬間、彼と私の間にある空気が、急速に冷却され、硬質化していくのがわかった。
「汚らしくないよ! これ、お姉ちゃんが作ってくれたんでしょう?」
エドガーが叫ぶ。その声が、室内の静寂をガラスのように粉砕する。
私は表情を動かさない。
顔の筋肉を、ミリ単位で制御して、「無関心」という名の仮面を張り付けておく。
「わたくしが、そのような無駄な時間を使うとお思い?」
私は、自分の指先に意識を集中させた。
爪が手のひらに食い込み、半月状の痕を刻む。
その物理的な痛みが、喉の奥までせり上がってきた「別の言葉」を、強引に押し戻してくれる。
「すぐにゴミ箱に捨てるよう、マリーに言いつけておきますわ。ヴァルモン家の次期当主が、そのようなゴミを抱きしめている姿など、反吐が出ますこと」
言い終えた瞬間、エドガーの瞳から光が失われた。
紫水晶が、光を反射しないただの石へと変質する。
大きな涙の粒が、頬の曲線に沿って滑り落ち、床に小さな染みを作った。
「……お姉ちゃんの、嘘つき……!」
背を向け、走り去る小さな足音。
遠ざかるたびに、廊下の向こうへと吸い込まれていくその音の振動を、私は踵を通じて数え続けた。
完全に音が聞こえなくなったとき、部屋には、今までよりもずっと重い静寂が降り積もった。
私は、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
ドレスの裾を、指の関節が白くなるまで強く握りしめる。
喉が、何かに強く締め付けられている。
肺が酸素を拒絶し、呼吸をすることさえ、巨大な石像を動かすような苦行に感じられた。
まぶたの裏に、別の景色が浮かぶ。
砂塵の舞う、乾いた空。
崩落したコンクリートの塊。
その下から伸びる、灰にまみれた、小さな、小さな手。
あの時、私の指はシャッターボタンの上に置かれていた。
ファインダー越しの世界は、あまりにも静止画として完成されていた。
指先に伝わる、一眼レフの冷たい金属の感触。
カシャリ、という乾いた機械音。
手を伸ばせば、届いたかもしれない。
けれど、私はシャッターを切った。
目の前の「現実」を助けることよりも、それを「記録」することを選んだ。
その瞬間、私は人間であることをやめ、ただのレンズになったのだ。
今世でも、同じだ。
私は、美しいハッピーエンドという一枚の「写真」を完成させるための、装置に過ぎない。
セレスティーヌという悪役令嬢が、物語を醜く汚すことで、真の主人公たちが輝く。
そのためには、愛する者さえも、この手で切り捨てなければならない。
「……これで、いいの」
声にならない吐息が、冷え切った床に吸い込まれて消えた。
数年の月日が、鉛のように重く、けれど砂時計の砂のように無機質に流れた。
私は十五歳になり、王宮の大広間に立っていた。
無数のシャンデリアから降り注ぐ光は、網膜を刺すほどに鋭く、白すぎる。
フロアを埋め尽くす貴族たちの香水の匂いが、重層的に絡み合い、空気の粘度を上げている。
吸い込むたびに、肺が不快な重さを覚えた。
ワルツの旋律が、大理石の壁に跳ね返り、不協和音となって耳の奥を圧迫する。
「美しいよ、セレスティーヌ嬢。今日の君は、誰よりも輝いている」
私の右手を握る、アルベール殿下。
彼の指先は温かい。けれど、その温かさが、今の私には耐え難いほどの拒絶反応を引き起こす。
温もりが皮膚を浸透し、神経を伝って脳に届くまでのわずかなタイムラグが、耐えがたく長い。
殿下の翡翠色の瞳。
そこには、私という人間ではなく、「完璧な公爵令嬢」という虚像が映っている。
彼は、私がこのコルセットの下で、どれほど浅く、苦しい呼吸を繰り返しているかなど、微塵も気づいていない。
「もったいないお言葉ですわ、殿下。ヴァルモン家の娘として、当然の義務を果たしたまでです」
私の口角は、ミリ単位の狂いもなく「微笑」の形を維持している。
それは表情ではなく、訓練によって構築された防御壁だ。
殿下の瞳に、微かな、けれど確かな失望が混ざるのを、私は見逃さなかった。
「……君は、いつもそうだね。まるで、心に高い壁を築いているようだ」
「壁などございません。わたくしは、ただそこに『存在』しているだけでございますわ」
殿下の問いを、私は中身のない言葉で受け流す。
一歩、彼から距離を置いた。
その隙間に、冷たい空気の渦が流れ込む。
周囲の囁き声が、蚊の羽音のように耳にまとわりつく。
「氷の美貌」「隙のない品格」「完璧な、人形のような」。
彼らが口にする賞賛は、私にとっては、自らを幽閉する檻の鉄格子を一本ずつ増やす音に聞こえた。
殿下は、私の背後、あるいは足元の影に潜む「何か」を必死に探ろうとしていた。
けれど、彼がどれほど瞳を凝らそうとも、そこには何も存在しない。
私は、意図的に自分を「不在」にしているのだから。
私はただ、彼が将来、本当の運命の相手――ステラ・メルヴィユを見つけたときに、迷わず私を捨てられるよう、その理由を積み上げているだけだ。
舞踏会が終わり、馬車がヴァルモン邸の門を潜る。
夜の冷気が、窓の隙間から這い入ってきた。
馬車の揺れに合わせて、私の身体は、自分の意志とは無関係に上下する。
この物理的な翻弄だけが、私がまだ肉体を持っていることを教えてくれる唯一の証拠だった。
屋敷の長い廊下を、自室に向かって歩く。
カツン、カツン。
硬いヒールの音が、闇に溶け込んだ空間を、刃物のように切り裂いていく。
誰の視線もないことを確信した瞬間、私は、仮面の裏側で、大きく息を吐き出した。
その時。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
暗がりから、不意に声が立ち上がった。
心臓が、肋骨の内側を激しく叩く。
呼吸が止まり、反射的に、顔の筋肉が「完璧な微笑み」を再構築しようと蠢く。
振り返ると、銀の燭台を手にしたアルフレッドが立っていた。
蝋燭の炎が、彼の深い皺に、不気味なほど濃い影を落としている。
彼の目は、私のドレスの乱れではなく、私の「目」を、静かに、執拗に射抜いていた。
「……お嬢様。差し出がましいことを申しますが」
「何かしら? アルフレッド。夜も遅いわ、早く休みに行きなさい」
私の声は、我ながら感心するほど事務的で、平坦だった。
けれど、アルフレッドは動かない。
彼の持っている燭台から、一滴の蝋が、床に落ちた。その微かな音が、やけに大きく響く。
「お嬢様は、なぜ笑っておられるのですか」
その一言が、私の思考を凍結させた。
意味を理解するまでに、致命的なほどの沈黙が流れる。
笑っている? ああ、そうだ。私は笑っている。
殿下の前でも、エドガーの前でも、そして今、この老執事の前でも。
私は、自分の唇が、さらに深く、歪な弧を描くのを感じた。
動揺すればするほど、悲しみが深ければ深いほど、この顔は自動的に笑顔を生成するように設計されている。
それが、前世の瓦礫の山で、私が自分に施した呪いだ。
「何を仰っているの? 微笑みを絶やさないのは、王家に嫁ぐ者として当然のたしなみでしょう?」
言葉を吐き出すたびに、喉の奥が砂を噛んだように痛む。
ドレスの裾を掴む指先が、目に見えて震え始めた。
アルフレッドは、その震えを、ただ黙って見つめている。
彼の沈黙が、私の周囲の空気を重力場のように歪ませていく。
アルフレッドは知っているのだ。
私のこの笑顔が、何かを守るための盾ではなく、自分自身の崩壊を繋ぎ止めるための、必死な縫合跡であることを。
「……失礼いたしました。老いぼれの空目でございます。良い夢を、お嬢様」
彼は深く頭を下げ、静かに闇へと溶けていった。
足音が消えた後、私は壁に背を預け、その場にずるずると頽れ落ちた。
震える両手で顔を覆う。
掌に、強張った頬の筋肉の感触が伝わる。
涙は出ない。ただ、胸の奥に、名前の付けられない巨大な空洞が広がり、私自身の存在を内側から食い荒らしていた。
「……笑っていなければ、……自分が、消えてしまいそうだからよ」
誰もいない廊下に、その呟きだけが、未消化の質量として残留した。
数日後。
春の陽光が、王立学園の真新しい制服の繊維を、金色に縁取っている。
鏡の中に立つのは、銀髪の、完璧に冷徹な悪役令嬢。
私という人間の「痕跡」は、どこにも見当たらない。
私は、重い扉を開け、外の世界へと足を踏み出す。
一歩ごとに、靴底が地面を強く踏みしめる。
その感触を、身体の重心を、一つ一つ確認しながら。
今日から、本当の断罪が始まる。
ステラ・メルヴィユとの邂逅。
アルベール殿下の決別。
そして、私の、美しい自滅。
すべては、ファインダーの中に収まった、完璧な構図の通りに進むはずだ。
学園の門を潜る瞬間。
私は、一瞬だけ、背後の景色を振り返りそうになった。
けれど、首の筋肉が、それを断固として拒絶する。
私は、前だけを見据え、冷たい風の中を歩き出した。
誰にも傷ついてほしくないから、私は、世界中のすべてを欺き続ける。
その決意の重さだけが、私の身体をこの世界に繋ぎ止めている、唯一の重力だった。




