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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第3話 冷たい仮面を被る理由

 垂直に降り注ぐ陽光が、網膜の端を焼く。

 三月の庭園は、あまりにも饒舌すぎた。

 風に揉まれた薔薇の香りが、肺の奥まで重く粘りつく。


 噴水の水しぶきが、空中で光を屈折させ、無数の不規則な火花を散らしている。

 その煌めき(ノイズ)が視界を埋め尽くし、世界を一枚の厚塗りの油彩画へと変容させていく。

 前世の私なら、この過剰な光の供給に、迷わずレンズを向けていただろう。


「お姉ちゃん!」


 鼓膜を震わせる、湿り気を帯びた高い声。

 意識のピントが、急激に一点へと絞り込まれる。

 銀色の髪を春の光に散らしながら、エドガーが駆けてくる。


 三歳年下の弟。

 まだ輪郭の定まらない、柔らかそうな頬。

 その短い足が芝生を蹴るたびに、土の湿った匂いが私の鼻腔を突いた。


 彼の手には、茎の折れ曲がった白い野花が握られている。

 ちぎれた葉から染み出した緑色の液が、彼の小さな指先を汚していた。

 その「汚れ」の生々しさに、私の胸腔の奥が、不規則に脈打つ。


「お姉ちゃん、これ、あげる! あのね、すごく綺麗だったから——」


 差し出された花弁には、まだ朝露の重みが残っていた。

 レンズを通さずに対峙するエドガーの笑顔は、あまりにも高解像度すぎた。

 私の指先が、無意識に彼の銀糸へと伸びようとする。


 抱きしめたい。その小さな掌の温度を、自分の肌に転写したい。

 けれど、私の内側で、重い鋼鉄の遮断機(シャッター)が火花を散らして降りた。

 指先が、空中で硬直する。


 私は、一歩だけ。

 踵の裏で芝生を押し潰すようにして、後ろに下がった。

 世界との間に、埋めようのない空白を意図的に穿つ。


「……ごきげんよう、エドガー」


 表情筋を一点の狂いもなく固定し、口角だけを吊り上げる。

 目元からは一切の毛細血管の熱を追いやり、ガラス細工のような無機質さを装う。

 それは、親愛を断ち切るために設計された、中立的な拒絶だ。


 エドガーの動きが、糸を切られた人形のように止まった。

 宙を彷徨う彼の小さな手が、所在なげに微かに震える。

 その指先の震えが、私の視神経を鋭利に逆なでした。


「わたくしは今から、淑女としての礼法の時間です」

 自分の喉が、冷えた金属のような音を奏でる。

「泥だらけの手で持っているような野花を、受け取る余白はございませんわ」


 吐き出した言葉が、冷たい礫となって彼に当たる。

 エドガーの紫水晶の瞳から、光彩が急速に失われていく。

「……ごめんなさい」


 その呟きは、風にかき消されそうなほど脆い。

 彼はしょんぼりと肩を落とし、重い足取りで芝生を戻っていく。

 私はその背中を、焦点(ピント)を外したまま見送り続けた。


 角を曲がり、彼の気配が完全に消失した瞬間。

 私はドレスの裾を、指の関節が白く浮き出るほどに握りしめた。

 絹の布地が、悲鳴を上げるように小さく軋む。


「……ごめんね、エドガー」


 誰にも届かない震えが、奥歯の隙間から漏れ出す。

 胸の奥で、無数の針が血管を突き破り、暴れ回っているような錯覚。

 私は、この世界の異物(ノイズ)にならなければならない。


 私が彼らと繋がる糸を太くすればするほど、断罪の日の刃は鋭くなる。

 家族という輪郭を守るためには、私がその外側へとはみ出し、

 徹底的に独りきりの孤島として完成されなければならないのだ。


 その日の午後、居間の重厚な扉が開く音がした。

「セリア……」

 母、イザベラの声。

 それは、古びたチェロが奏でる挽歌のように、低く湿っていた。


 私はソファーの前で、重力に従うように膝を折り、カーテシーを捧げた。

 一切の揺らぎを排除した、機械的な優雅さ。

 母の視線が、私の首筋に張り付くような熱を持って刺さる。


「セリア。……無理しなくていいのよ」

 母の言葉が、私の喉元までせり上がっていた本音を、強引に押し戻す。

 母は、私のこの笑顔が剥製のような偽物であることに気づいている。


 けれど、私は微笑みをさらに深く固定した。

「お母様、私は何もしていませんわ。無理など、しておりません」

 自分の声が、どこか遠い地底から響いているように感じられた。


「でも……エドガーとも距離を置いているじゃない。本当は、もっと……」

 母の青い瞳が、助けを求めるように揺れる。

 その温かさに触れれば、今すぐこのドレスを引き裂き、泣き叫びたかった。


 けれど、私は背筋を鉄の芯が通ったように硬直させる。

「わたくしはヴァルモン公爵家の長女です。遊びなどに浪費する時間はございません」

 言葉の一つ一つが、母との間に壁を積み上げていく。


 母はそれ以上何も言えず、震える唇を強く噛み締めた。

「……そう。あなたは……本当に、立派な令嬢だわ」

 その称賛を背に、私は音を立てずに居間を去った。


 深夜二時。

 静寂が、公爵邸の回廊を濃紺の色に染め上げている。

 私は寝台を抜け出し、分厚いカーペットに足を沈ませた。


 向かう先は、エドガーの寝室。

 手に持っているのは、昼間の罪悪感を削り出したような木彫りの犬。

 指先には、彫刻刀で傷ついた微かな痛みが残っていた。


 扉の隙間から滑り込み、彼の寝息に耳を澄ませる。

 エドガーの目元には、乾いた涙の痕が、月の光を受けて白く光っていた。

「……ごめんね」


 声に出さず、ただ喉の奥でその言葉を咀嚼する。

 枕元に木彫りを置き、私は自分の影を引き摺るようにして部屋を出た。

 廊下の隅で、メイド長のマリーの視線を感じたが、私は振り返らなかった。


 数日後。

 謁見室には、香香しい沈香の香りと、凍りつくような緊張が満ちていた。

 第一王子、アルベール・ルミエール殿下。


 彼の髪は、研磨された金貨のような輝きを放ち、翡翠色の瞳は真っ直ぐに私を射抜く。

「初めまして、セレスティーヌ・ヴァルモンと申します」

 私は、温度を完璧に排した微笑みを、彼に差し出した。


 殿下は一瞬、私のその死んだ笑顔に、たじろぐように眉を動かした。

「……美しい方だ」

 その言葉は、空虚な壁に当たって無機質に跳ね返る。


「恐れ入ります。ヴァルモン公爵家令嬢として、務めを果たす所存です」

 会話が、鋭い氷片のように噛み合わないまま、虚空に消えていく。

 彼が必要とするのは、私のような冷えた彫像ではない。


 やがて現れるヒロイン——ステラの、柔らかな涙だ。

 アルベール殿下は重い沈黙を破り、小さなビロードの箱を開いた。

「これを、受け取ってほしい」


 大粒のダイヤモンド。

 私は手袋を外し、その冷たい金属の輪を薬指に滑り込ませた。

 指の付け根に伝わる、容赦のない氷冷感。


 この指輪は、装飾品ではない。

 王家との契約を物理的に定着させる、重い枷だ。

 指先に感じるこの鈍痛こそが、私の家族を護る代償なのだ。


「何か、私に望むことはあるだろうか?」

 殿下の翡翠色の瞳に、かすかな熱が宿る。

 その純粋な光に、私の胸の奥が認知的不協和を起こし、軋む。


 けれど、私は瞬時に内側の感傷を圧殺した。

「何もございません、殿下」

 私は一切の感情を剥ぎ取った、水晶体の瞳で彼を見つめ返す。


「……そうか」

 殿下の声から、明らかに期待の温度が剥落した。

 これでいい。彼の中で、「私」という人間が色彩を失っていくほど、物語は正しく進む。


 謁見を終え、窓の外を眺める。

 中庭では、アルベール殿下が転んだ子供の前に膝をついていた。

 その背中には、私が決して持てない、生きた優しさが滲んでいる。


 ああ、あの光が、いつか誰かの救いになる。

 私は静かに、窓のカーテンを引いた。

 光を遮断した室内で、ダイヤモンドの輝きだけが、冷たく私の輪郭を縁取っている。


 誰も私を愛さないように。

 誰も私に触れようとしないように。

 私は、この冷たい仮面の裏側で、ただ独り、世界を現像し続ける。


 指輪の重みが、薬指の骨に食い込んでいる。

 それは、私の孤独な戦いが始まったことを告げる、終わりのない拍動だった。

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