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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第2話 誰にも気づかれない優しさ

 深夜の静寂が、公爵邸の回廊に重く沈殿していた。

 肺に吸い込む空気は、日中の華やかさを削ぎ落とされ、古びた石材と冷えた油灯の匂いだけを孕んでいる。

 私は、寝台の毛布を慎重に押し除けた。


 布が擦れるわずかな摩擦音が、耳の奥にこびりつく。

 素足が床に触れる。

 磨き抜かれた大理石は容赦なく体温を奪い、その鋭い拒絶が、足裏から背筋へと這い上がってくる。


 暗い色のショールを羽織る。

 肩にかかるその布地は、今の私にはあまりにも重すぎる鎧のように感じられた。

 鏡は見ない。そこには、仮面を剥ぎ取られた不完全な私が立っているはずだから。


 廊下の曲がり角で、一度足を止める。

 ……心臓の鼓動が、肋骨を内側から叩いている。

 それは一定のリズムを刻んでいるようでいて、時折、何かに躓いたように不規則に跳ねた。


 裏階段の扉に手をかける。

 金属の取っ手は、廊下の湿度を吸ってわずかに指先に吸い付いた。

 回す。機構内部で歯車が噛み合う、乾いた振動が骨を伝って肘まで届く。


 一歩、外へ。

 夜風が、濡れた刃物のように頬を撫でた。

 庭園の土は、昼の雨を抱き込んで重く、靴底を泥のぬかるみが引き戻そうとする。


 使用人宿舎は、闇の底にうずくまる獣のようだった。

 腐りかけた木の扉の隙間から、ヒュー……ヒュー……という軋みが漏れている。

 それは呼吸というより、生命を維持するための機械が上げる悲鳴に近い。


 室内は、埃と、汗と、そして「死」の予感が混じり合った濃密な空気に満ちていた。

 隣の寝台で、親が泥のように深く眠っている。

 その重苦しいいびきが、小さな子供の呼吸音を絶えずかき消そうと襲いかかる。


 私は子供の傍らに、音もなく膝をついた。

 床の板が、私の体重を受けてわずかに呻く。

 子供の肌は、網膜を焼くような赤色に染まっていた。


 額に指を伸ばす。

 触れる直前、指先が微かに震えていることに気づく。

 ……かつての記憶が、戦場の泥濘が、足元から這い上がってくる。


 ファインダー越しに見た、泥を噛んで死んでいく兵士たちの静止画。

 あの時、私の指はシャッターを切ることしか許されなかった。

 けれど、今のこの指は。


 懐から小瓶を取り出す。

 ガラスの冷たさが、掌の熱を急速に吸い取っていく。

 私は小瓶を傾け、数種類の液剤を正確に混ぜ合わせた。


「魔力」という名の、都合の良い奇跡には頼らない。

 これは、物質と物質がぶつかり合い、新たな秩序を生むための物理的な調律だ。

 混合された液体の粘度が、銀色の月光を受けてわずかに増していく。


「……これは、ただの現像よ」

 私は、自分の喉から出た声の「硬さ」に、少しだけ安堵した。

「不鮮明な生を、定着液で固定するだけ。それ以上の意味なんて、どこにもない」


 子供の唇の端から、一滴ずつ、薬液を流し込む。

 喉が、抵抗するように一度だけ大きく跳ねた。

 ……嚥下の音が、静寂の中に石を投げ込んだように響く。


 数分が、数時間にも感じられた。

 子供の胸の上下が、次第に緩やかになっていく。

 熱に浮かされていた瞳が、閉じた瞼の裏で静かに落ち着きを取り戻す。


 手のひらに伝わる温度が、焦熱から、柔らかなぬくもりへと変化した。

 その変化を感じた瞬間、私の胃の奥で、何かがほどける感覚があった。

 けれど、それはすぐに冷たい楔へと変わる。


 私は、明日にはまた「悪役」に戻らなければならない。

 感謝という名の鎖で、この世界に繋ぎ止められてはいけないのだ。

 枕元にメモを残し、私は逃げるようにその場を去った。


 寝室に戻り、月明かりの下で鏡の前に立つ。

 映し出された少女の顔は、あまりにも平坦で、色彩を失っている。

 私は指先で、口角を左右に引っ張った。


 頬の筋肉が、無理やりな指令を受けてピリピリと疼く。

 それは笑いではなく、ただの歪みだ。

「笑っていなければ……壊れてしまうのは、私の方だから」


 独り言が、冷たい鏡の表面で結露した。

 自分の声が、他人の声のように、どこか遠い場所から聞こえてくる。

 このガラス玉のような瞳に、本当の私はもう映っていない。


 窓の外。

 夜の帳が、ゆっくりと東の空から剥がされていく。

 朝日は、私の銀色の髪を、冷たく、そして白く漂白し始めた。


 一歩、歩き出す。

 重力は、昨日よりも少しだけ強くなっている気がした。

 それでも、私は悪役という名の衣装を纏い、この物語を歩き続ける。


 誰も傷つけないために。

 私だけが、この空洞の質量を抱え続ければいい。


 扉を開ける。

 そこには、まばゆいばかりの嘘に満ちた世界が待っていた。

 私は、完璧な笑みを顔に貼り付け、光の中へと足を踏み出した。

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