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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第68話 氷の公爵の秘密と、彼女の選んだ人生

 長靴が雪を踏み締める。

 ザッ、ザッ。

 規則的な音が、静まり返った冬の庭園に、微かな脈動を刻んでいた。


 広場での喧騒は、すでに遠い記憶の底に沈んでいる。

 ティムたちの無邪気な笑い声も、今は薄氷の向こう側だ。

 湿った冷気が、私の喉をかすめて、肺の奥を白く染めていく。


 上を見上げれば、雲の切れ間からこぼれた陽光が、雪の表面を刺すように照らしていた。

 それは温もりを伴わない、ただの視覚的な輝きだ。

 だが、隣を歩く男から放たれる熱量は、それとは決定的に異なっていた。


「……いつまで笑っているつもりだ」


 不機嫌そうに、けれど、どこか重心の定まらない声。

 隣を歩くレオンの横顔を盗み見る。

 彼の耳朶は、冬の寒さとは別の理由で、痛々しいほどに赤く染まっていた。


 あの大広間で、私の魂を射抜いたあの絶対零度の瞳が。

 小さな子供の「いつ結婚するの?」という、あまりにも真っ当な毒に。

 一瞬で瓦解し、泳いでいた。


 その光景を思い出すたび、私の胸の奥に、炭酸水のような泡が生まれる。

 仮面を被り、息を止めて生きてきた私にとって、それは馴染みのない浮力だった。

 私は、わざとらしく小首を傾げて、彼の視線を拾い上げる。


「仕方ありませんわ。歴史書を塗り替えるような事件でしたもの」

「……誇張が過ぎる」

「いいえ。あの氷の公爵様が、あそこまで……」


「雪焼けだ」


 彼は私の言葉を、短く、鋭い断ち切り――で遮った。

 だが、その声には、かつての彼が纏っていた「拒絶の壁」は存在しない。

 ただ、露呈してしまった自分を隠そうとする、子供のような拙い摩擦があった。


 私は、彼の影の中に身を滑り込ませる。

 彼は無意識のうちに風上に立ち、私の身体を突き抜ける北風を、その広い背中で受け止めていた。

 厚手のコート越しに伝わってくる、彼という個体の質量。


 かつての私なら、この重圧に耐えられず、透明な背景へと逃げ出していただろう。

 彼に見透かされることは、自分の輪郭を失うことだと信じていた。

 だが、今は違う。


 この指先に感じる冷たさも。

 鼻腔をくすぐる、彼の纏うわずかな白檀の香りも。

 すべてが、私の「生」を、ここへ繋ぎ止めるための重りとなっていた。


「レオン様は、本当に……不器用でいらっしゃいますね」


 私の呟きは、冬の空気に溶ける前に、彼の足を止めた。

 彼がゆっくりと私を振り返る。

 その青い瞳は、もはや私を透過しようとはしていなかった。


 そこにあるのは、触れれば火傷しそうなほどの、生々しい体温を孕んだ眼差し。

 銀灰色の髪が、風に煽られて私の視界を掠める。

 彼は、革の手袋を嵌めた大きな手を、躊躇いがちに伸ばした。


 私の頬にかかっていた髪を、彼がそっと指先で掬い上げる。

 耳朶に触れる、手袋の硬い質感と、その奥にある指の熱。

 ドクン、と。


 私の心臓が、自らの位置を主張するように強く脈打った。

 それは、透明な記録者を辞め、一人の女としてこの地に降り立った、最初の証左だった。


「だが……お前がそうやって、何の計算もなく笑えるようになったのなら」


 彼の声は、地鳴りのように低く、私の骨を震わせた。

「あの小僧たちに礼を言わなければならないな」


 レオンは、微かに口角を上げた。

 それは、彫像が生命を得た瞬間の、危ういほどの美しさ。

 私は、彼の手の温もりに吸い寄せられるように、そっと頬を寄せた。


 ずるいですわ、レオン様。

 そんな不意打ちのような、甘い猛毒。

 私は、彼という圧倒的な質量の隣で、初めて「自分」という存在の重さを、受け入れていた。


 ***


 城の執務室。

 古い羊皮紙の匂いと、暖炉で爆ぜる薪の音が、室内に満ちている。

 私は、自分のための小さな机に座り、一通の手紙を広げた。


 指先に触れる、少しザラついた手触りの便箋。

 そこには、王都のステラ・メルヴィユから送られた、丁寧な文字が並んでいた。

 インクの香りの奥に、微かな青臭い薬草の匂いが立ち昇る。


 彼女は今、王宮の温室で、私が教えた調合法(レシピ)を手に土と向き合っているという。

 かつての彼女は、誰かの腕の中で守られることでしか、自分の輝きを証明できなかった。

 だが、今の彼女の文字には、自らの足で立つ者の「重心」が宿っている。


『……直接、お会いするつもりはありません』


 手紙の半ば、その一文に、私の視線が止まった。

『私がどれほど謝罪を重ねても、かつての無自覚な甘えが、あなたを追い詰めた事実は消えないからです。

 でも、感謝だけは伝え続けたい。あなたが私を守ってくださったこと』


 手紙を持つ指に、力がこもる。

 ステラは、もう、私の設計した「守られるべきヒロイン」ではない。

 彼女は、自らの手で過去という泥を掘り返し、そこから新しい芽を育てようとしていた。


 そして、手紙は、アルベール殿下についても触れていた。

 かつて私が愛し、そして私を処刑へと導いた、あの黄金の王子。


 彼は今、かつて私が裏工作で支えていた貧民街の医療支援を。

 自分の名前で、自分の足で、泥にまみれながら引き継いでいるという。

 以前の彼が持っていた、どこか浮ついた正義感。


 それが、今や血を流すような責任感へと変容している。

 彼は、自らの過ちという名の十字架を、誰に預けることもなく、一人で背負って歩き出したのだ。


「……これで、よかったのね」


 私は、手紙をゆっくりと折りたたんだ。

 王都の権力闘争の余波は、今も消えてはいない。

 父であるヴァルモン公爵家を狙う刺客や、不穏な噂は、常に私の影を追いかけてくるだろう。


 おとぎ話の「めでたしめでたし」など、この現実のどこにも落ちてはいない。

 これからも、私は傷口を抱えて生きていく。

 過去の記憶が、時折、私の喉を締め上げる夜もあるだろう。


 けれど、私はもう、透明な壁の向こう側へ逃げたりはしない。

 この手で薬を練り、土に触れ、誰かの痛みを自分の痛みとして受け止めていく。

 その摩擦こそが、私が望んだ「本当の人生」なのだから。


 ***


 北の国境。

 一年中、空が鉛色を湛えている、凍土の地。

 吹き荒れる暴力的な風が、崩れかけの修道院の壁を叩き続けていた。


 そこには、一人の女がいた。

 灰色の修道服。

 かつて王都のサロンで羨望の的だった、あの美しい赤毛は。

 今は光を失い、泥と脂にまみれて、一塊の縄のように縛られている。


 マルグリット・セルヴァン。

 彼女は今、感覚を失った指先で、凍った土を掘り返していた。

 爪の間に、黒い土が食い込み、あかぎれた皮膚から血が滲む。


 かつて、彼女の指先が弄んでいたのは、他人の人生という名の駒だった。

 甘い囁きと、計算された涙。

 それだけで、世界を思い通りに記述できると信じていたのだ。


 だが、今の彼女の手にあるのは、石のように硬い土と、逃げ場のない静寂だけ。

 彼女は、泥だらけの手を止め、ゆっくりと顔を上げた。

 視線の先にあるのは、ただ果てしなく続く、灰色の地平線。


 そこには、彼女を愛してくれる者も、彼女を呪ってくれる者さえもいない。

 絶対的な空虚。

 それは、彼女が最も恐れていた「無」という名の、究極の刑罰だった。


「……私は、間違っていた」


 掠れた声が、風に攫われる。

 それは、悔恨ではない。

 ただ、自らの積み上げた「虚構の塔」が、根底から崩れ去ったことを。

 重力に逆らえずに落下した果ての、乾いた音だった。


 マルグリットは、再び視線を落とした。

 ただ黙々と、冷たい土の中に指を沈めていく。

 彼女の人生は、誰の記憶にも残ることのない沈殿物として。


 この凍てついた境界の底で、静かに、そして確実に、色褪せていく。

 それは、彼女が追い求めた「完璧な勝利」の裏側に張り付いていた。

 救いようのない、一筋の結末。


 北風が、また一つ。

 彼女の細い肩を、無情に打ち据えて通り過ぎていった。

 その後に残ったのは、ただ、冬の荒野を支配する非情な沈黙だけだった。

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