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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第69話 ありがとう、見つけてくれて

 ノワールクール城の夜は、色を持たない。


 頭上には鉛色の雪雲が、逃げ場を塞ぐ天井のように低く垂れ込めている。

 天から零れ落ちる結晶は、重力に従うだけの無機質な破片だ。

 それが、庭園の黒い石畳を、音もなく、執拗に白く塗り潰していく。


 群青色のベルベットが、歩くたびに太腿へしがみつくような抵抗を伝えてくる。

 羽織ったケープの毛皮は、吸い込んだ冷気を芯まで蓄え、肌に触れるたびに鋭い痺れを刻んだ。

 私は、その不快なまでの冷たさを、あえて歓迎するように、一歩ずつ雪を踏みしめていた。


 あの夜――。

 断罪という名の儀式の中で、一人の男が私の嘘を暴いて以来。

 私は、肺を焼くようなこの夜の空気に、自らの輪郭を確かめずにはいられなくなった。


(……足元が、おぼつかないわね)


 思考が、白く濁った呼気となって、闇の中に溶けては消える。

 かつての私なら、石畳に残る雪の厚みから、次に踏み出すべき角度を冷徹に計算していただろう。

 計算(ロジック)の外側に身を置くことなど、許されなかったのだから。


 三十三年の前世。

 私の鼻腔にこびりついていたのは、消毒液の刺激臭と、鉄錆に似た血の匂いだった。

 野戦病院の、黴びた壁。

 絶え間なく響く呻き声。


 そこでの私は、ただの記録装置(カメラ)だった。

 ファインダーという名の檻の中から、切り刻まれた世界を覗き見るだけの存在。

 レンズの先にある苦痛には触れず、流れる涙を光学的な屈折として処理する。


 誰の心にも干渉しない。

 誰の痛みにも、指先一つ触れさせない。

 それが、戦場という地獄で「記録」という責務を全うするための、唯一の術だった。


 そして。

 物資も、熱量も、希望も枯渇した冷たいベッドの上で、私は悟った。

 私の魂は、現像液の中に浸されたまま、一度も光を浴びることなく死んでいくのだと。

『私の撮った記録は残る。けれど、私自身を覚えている眼差しは、どこにもない』


 喉の奥で、乾いた引き攣れが起きた。

 その虚無という名の毒を、私はこの世界にまで持ち込んでしまった。


 悪役令嬢セレスティーヌ・ヴァルモン。

 与えられた役職は、悲劇を完遂させるための、使い捨ての歯車(パーツ)に過ぎない。

 私は、再びレンズを構えた。

 自分自身という被写体を、最も効率的に消費するための構図を設計し始めたのだ。


 愛する家族の誇りを守るため。

 汚れなきステラの道を、一粒の砂利も残さず掃き清めるため。

 アルベール殿下に、私を切り捨てるという「正しい痛み」を与えるため。


 私が一人で、すべての泥を飲み込めばいい。

 表情筋を鉄の枷で固定し、紫水晶の瞳から一切の光彩を消し去る。

 鏡の前で何度も練習した、あの鋼の微笑。

 それは、誰一人として内部に侵入させないための、絶対的な拒絶だった。


 誰の記憶にも残らない、「透明な記録者」として。

 物語の背景へと、美しく、冷ややかに溶けていくために。


 だが。

 その設計図(プラン)は、あまりにも傲慢で、独りよがりな空論だった。

 雪の上に残る私の足跡が、重く、深く沈み込んでいる。

 それが、私がこの世界に与えてしまった傷跡の正体だった。


 突き放したエドガーの、あの砕け散ったような瞳。

 エレーヌが流した、熱すぎるほどの涙。

 母の、絞り出すような絶望の吐息。


 私は、彼らを守りたかった。

 その一心で、彼らが私に注ごうとした愛という名の光を、すべて遮光カーテンで遮った。

 私が一人で奈落へ落ちれば、彼らは天国に残れると信じて。


「……なんて、救いようのない……」


 言葉が、震える唇から零れ落ちる。

 雪を纏った枯れ木の枝に、指先を添えた。

 鋭い冷たさが皮膚を刺し、その摩擦が、隠し続けてきた痛みを引きずり出す。


 もし。

 あのまま、私が真実を墓場まで持っていったとしたら。

 残された彼らは、永遠に埋まらない「空洞」を抱えて生きていくことになっただろう。

 理由のわからない後悔。

 正体不明の、喉に詰まった小石のような違和感。


 私の求めた『美しい構図』は。

 被写体の息の根を止めて作る、死体写真と同じ欺瞞だった。


 雪が、風に煽られて視界を白く。

 その向こう側から、一定の、重厚なリズムが聞こえてきた。


 ザッ、ザッ。


 雪を踏みしめる音が、背後から近づいてくる。

 その音の間隔。

 着地の際に石畳を捉える、確かな質量。

 心臓が、肋骨を内側から叩くような、鈍い衝撃を送り出してきた。


「……こんな夜更けに、一人で何をしている」


 低く。

 硬質な響きの中に、微かな揺らぎを孕んだ声。

 それは、凍りついた私の耳朶を、優しく、けれど強引に解凍していく。


 ゆっくりと、首を回した。

 視界の端に、夜の闇を凝縮したような漆黒の外套が映る。

 そこに立っていたのは、銀灰色の髪に雪を散らした、一人の青年だった。


 レオン・ノワールクール公爵。

 彼の双眸は、冬の星空を閉じ込めたように深く、そして、恐ろしいほどに私を射抜いている。


「……レオン、様」


 その名を呼んだ瞬間、私の声が、夜の静寂に波紋を作った。

 彼は答える代わりに、わずかに顎を引いた。


「少し、この冷たさを確かめていたくて。……公爵様こそ、執務は……」

「お前がまた、己の限界を見誤って、勝手に消えようとしていないか、確かめに来た」


 不器用な言葉。

 けれどその裏側には、私の「不在」を許さないという、絶対的な重みが宿っていた。


 彼が一歩、距離を詰める。

 彼が纏う冬の森のような、少し青臭く、それでいて芳醇な香りが鼻を掠めた。


 彼は無造作に、自らの外套を脱いだ。

 そして、私の頼りない肩の上へと、それを投下した。


「……っ」


 ずしり、とした重みが肩にのしかかる。

 それは単なる衣類の重さではない。

 彼という人間が放つ体温の重さ。

 今まで私が拒み続けてきた、他者の質量そのものだった。


 外套の裏地から、彼の心臓の鼓動が伝わってくるような錯覚に陥る。

 私は、その圧倒的な実在感に包まれ、思わず視界を閉ざした。


「ありがとうございます……。とても、重くて、温かいです」

「……当たり前だ。お前が羽織っているのは、ノワールクールの責務なのだから」


 彼は視線を斜め下へ逸らし、ぶっきらぼうに呟いた。

 その耳の端が、雪の白さに反して、微かに朱を帯びている。

 完璧な「氷の公爵」の、綻び。

 それを見つけてしまった瞬間の、胸を締め付けるような疼き。


 私は、お腹の底から、形容し難い震えがせり上がってくるのを感じた。

 それは、自嘲ではなく、もっと根源的な……。


「ふふっ……レオン様は、本当に、隠し事がお下手ですね」

「……お前に言われたくない。お前の嘘に比べれば、マシな方だ」


 彼は眉をひそめ、けれどその大きな手で、私の肩から外套がずり落ちないよう、そっと抑え込んでくれた。

 その手のひらの圧力が、心地よい束縛となって私を縛る。


 私たちは、雪降る世界の中、二人だけの密室にいた。

 王都の、あの薄汚れた政治的喧騒(ノイズ)は、ここまでは届かない。

 聞こえるのは、風が枝を揺らす音と、私たちの重なり合う呼気の音だけだ。


「……考えていたのです。わたくしが、どれほど独りよがりな演出に酔っていたのかを」


 外套の温もりに顔を埋め、私は静かに吐露した。

 もう、ファインダーは存在しない。

 私は、剥き出しの自分を、彼の前にさらけ出そうとしていた。


「……セレスティーヌ」

「わたくしは、自分の心を殺処分することが、最善のハッピーエンドだと信じていました。私が透明になれば、世界は傷つかずに済むのだと」


 私は顔を上げ、彼の青い瞳を真っ直ぐに凝視した。

 その瞳に映る自分は、酷く不格好で、頼りない。


「誰も、傷つけたくなかった。……けれど、その祈りこそが、刃だったのですね」


 言葉にした瞬間。

 レオンの瞳が、鏡が割れるような衝撃を湛えて見開かれた。


「エドガーも、エレーヌも……お母様も。私の自己満足という名の盾の裏で、みんな血を流していた。私が一人で泥を被ることで、彼らに『愛する人を失う』という、最も残酷な傷を負わせていたのです」

「……」

「そして、何より。……わたくしは、わたくし自身の魂を、誰よりも無惨に蹂躙していた」


 私は、そっと自らの胸元に手を添えた。

 そこに残っているのは、凍りついた空洞ではなく。

 ようやく熱を取り戻し、不器用に、けれど激しく打ち鳴らされる、一つの肉の塊だった。


「……けれど、あなただけが、その醜い叫びに気づいてくれた」


 あの日、学園の片隅で、私が完璧な仮面を貼り付け損ねた、その一瞬を。

 彼は、執念深く、そしてどこまでも誠実に記憶し続けてくれたのだ。


 世界が私を「悪役」として消費しようとしても。

 私が自ら「透明な背景」として消え去ろうとしても。

 彼は、私の瞳の奥に潜む、血を吐くような渇望を見逃さなかった。


『お前は、誰も傷つけたくなかったんだろう』


 あの断罪の広間に響いた、彼の低く重い声。

 それは、私の前世と今世を繋ぎ止めていた、鋼の呪縛を。

 粉々に、そして鮮やかに打ち砕いてくれた。


 レオンは、深い沈黙を保っていた。

 彼の瞳の奥で、かつてないほどの質量を持った感情が渦巻いているのが、空気の震えを通して伝わってくる。


 彼は、ゆっくりと右手を持ち上げた。

 分厚い、使い込まれた革の手袋が、私の頬に触れる。

 その摩擦感。

 皮の硬さと、その奥に潜む、彼という人間の熱量。


「……俺は、お前のその、救いようのない不器用が、目障りだっただけだ」


 彼は、私の視線を一本の糸のように繋ぎ止めたまま、静かに告げた。


「かつて、俺も気づけなかった。母の微笑みの裏で、何が死んでいったのかを。……お前のあの、完成されすぎた笑顔を見た時、俺の胸は、言いようのない怒りで満たされた」

「レオン、様……」

「お前がどれほど、自分を無として扱おうと、勝手だ。だが、俺がそれを許さない。……俺が、お前をこの世界に|繋ぎ止める。お前が、お前自身を諦めたとしても。……俺は、絶対にお前を手放さない」


 それは。

 どんな美しい詩歌よりも傲慢で、どんな誓いよりも凶暴な、愛の証明だった。


 孤高という名の氷の城に閉じこもっていた彼が。

 私という泥沼に、自らの足を踏み入れた。

 私の汚れごと、丸ごと抱きしめると。


 視界が、急激に滲み始めた。


 これは、現像液ではない。

 私の内側から溢れ出した、本物の温度だ。

 私がこの世界に確かに「存在」し、彼という重力に引き寄せられているという、狂おしいほどの確信。


「……ずるいですわ、レオン様。そんな風に……逃げ道を、塞がれてしまえば……」

「逃がすつもりなど、微塵もない」


 レオンは、後頭部を優しく、けれど断固とした力で引き寄せた。

 私の額が、彼の胸のボタンに押し当てられる。


「――っ」


 耳に直接届く、彼の心拍音。

 ドクン、ドクン、と。

 それは、生命の躍動そのものだ。


 私は、彼の背中にそっと腕を回した。

 彼の外套越しに感じる、広い背中の質量。

 私は、私を隔てていた透明なレンズを、今、完全に地面へと叩き落とした。


「……私を見つけてくれて。……暗闇の中で、私の手を離さないでいてくれて……」


 胸に顔を埋めたまま、私は震える声で紡いだ。


「ありがとう。わたくしという人間に、気づいてくれて」


 レオンは、私を抱きしめる腕に、さらに強い力を込めた。

 私の髪に、彼の顎が重なる。


「……これからも、俺がお前を見つけ続ける。お前がどんなに無様に泣こうが、不格好に笑おうが、すべて俺が記録してやる。……お前は、もう、独りで完結する必要はないのだ」


 雪が舞い散る庭園で、彼のその絶対的な質量が、私の魂の空洞を埋めていく。


 私は、ゆっくりと彼の胸から顔を上げた。


 私の顔には、今、どんな表情が浮かんでいるのだろうか。

 筋肉を制御する理性は、もうどこにもない。

 涙でぐしゃぐしゃになり、口角は不器用に引き攣れ。

 かつての「完璧な悪役令嬢」が、最も見せてはならない無様な姿。


 けれど。

 それこそが、一滴の嘘も混じっていない、私の真実だった。


 レオンは、私のその姿を見て、一瞬だけ息を呑んだ。

 そして。

 眩しすぎるものを見るように目を細め、彼自身の口角を、柔らかく、歪に、持ち上げた。


「……ああ。ひどい顔だ」


 彼は、わざと乱暴に、けれど羽に触れるような愛おしさで、私の涙を拭った。


「ふふっ……ええ、存じておりますわ」


 私は、彼の温もりに頬を預け、心から、震える声で笑った。


 誰の記憶にも残らず、誰の心も動かさずに消えるはずだった、私の記録者としての旅は。

 この雪の夜、彼の腕の中で、静かに幕を閉じた。


 これからは、ただの、セレスティーヌとして。

 私を見つけ、私の嘘を暴いてくれた、この不器用な男の隣で。

 私は私の人生を、私自身の重さで、生きていく。


 夜風は、もはや私を凍えさせることはなかった。

 それは、明日へと続く道を清める、祝福の旋律のように響いていた。


 雪が、世界を白く染め上げていく。

 私と彼の、新しい物語。

 その最初の一幕が。

 今、確かな体温と共に、永遠へと刻まれていった。

第69話をもちまして、本作は完結となります。


ここまでセレスティーヌたちの物語を見守ってくださった皆様に、心より御礼申し上げます。


本作は「悪役令嬢」を題材として始まりましたが、私にとっては一貫して、「誰にも理解されないと思い込んでいた人物が、自らの居場所を見つけるまでの軌跡」を描いた物語でした。


セレスティーヌは、自分だけが傷つけばよいと考えていました。

一方のレオンは、そんな彼女を決して見失わないと心に決めていました。


第69話では、その二人がようやく同じ場所に立つことができた瞬間を描いたつもりです。


長い年月の中で幾度もすれ違い、遠回りを重ねてきた二人でしたが、その歩みを最後まで見届けていただけたことを大変嬉しく思っております。


また、更新のたびに感想や応援の言葉をお寄せくださった皆様、ブックマークや評価を通じて支えてくださった皆様のおかげで、本作を最後まで書き上げることができました。


改めまして、深く感謝申し上げます。


セレスティーヌとレオン、そして彼らを取り巻く人々の物語が、皆様の心に少しでも残る作品となっていましたら、作者としてこれ以上の喜びはございません。


それでは、また別の物語でお会いできる日を願っております。


最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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