第67話 領地での穏やかな日々、聖女と呼ばれる私
ノワールクール城の朝は、石の吐息から始まる。
分厚い石造りの壁を透過し、寝室へと滑り込んできた光は、王都のそれとは明らかに質が異なっていた。
不純物を一切取り払った刃のように鋭く、それでいて、触れれば指先が凍てつくような透明な静寂を孕んでいる。
私は、飾り気のない木製のベッドの上で、ゆっくりと肺の形を確かめるように息を吸い込んだ。
鼻腔を抜ける空気は、どこまでも冷たく、清冽だ。
かつて、目覚める瞬間に感じていた、全身の筋肉を鋼のように硬直させるあの防衛本能は、もうどこにもない。
指先を動かし、シーツの粗い麻の感触を確かめる。
鏡を見る前に、まず「微笑み」を顔に貼り付ける必要のない朝。
それは、私の世界から膜が一枚剥がれ落ちたような、無防備なほどの解放感だった。
王立学園の、あの息の詰まるような孤立。
第一王子の婚約者という名の色褪せた枷。
そして何より、「誰の記憶にも残らない透明な記録者」として生きようとした、私自身の傲慢な呪縛。
それらはすべて、あの雪降る夜の庭園……。
あの人の青い瞳に射抜かれた瞬間に、砕け散って消えたのだ。
ベッドから降りた私の足裏を、冷たい石床が容赦なく刺激する。
私はその痛みに似た覚醒を噛み締めながら、部屋の隅にある姿見の前に立った。
そこに映っているのは、もはや感情を殺した虚無の残滓ではない。
寝癖で少し跳ねた銀色の髪。
そして、わずかな体温を宿して潤む紫水晶の瞳。
そこには、ただの十七歳の少女としての、不完全で、生々しい輪郭があった。
私は、暗い茶色のウールで編まれた、厚手のワンピースに袖を通した。
王宮で纏っていた、呼吸さえも制限する豪奢なシルクや、肋骨を締め上げるコルセットは、もう必要ない。
この、肌に触れる羊毛の摩擦と重み。
それは、私がこのノワールクール領という過酷な大地に、足をつけて生きているという確かな証明だ。
灰色のローブを羽織り、革紐をきつく結ぶ。
この動きやすさこそが、今の私の皮膚だった。
部屋を出て、大理石の長い廊下を歩く。
かつて、私の足音は誰にも聞こえぬよう、忍び寄る影のように沈んでいた。
けれど今は、硬い靴底が石を叩く音が、規則正しいリズムを刻んで響く。
城内ですれ違う使用人たちの肩から、かつての強張りが消えていた。
彼らが向けてくる視線は、もはや「得体の知れない悪女」を恐れるものではない。
そこに宿っているのは、春を待つ土壌のような、柔らかな信頼だ。
「おはようございます、セレスティーヌ様」
「昨晩はよくお休みになられましたか、先生」
投げかけられる言葉の端々に、体温が混じっている。
私は、顔の筋肉の動きを計算することなく、ただ自然に、口角を緩めた。
声が、無理なく喉の奥から零れ落ちる。
「ええ、おはようございます。今朝も冷え込みますから、皆様も暖かくしてお仕事なさってくださいね」
それは、相手を突き放すための氷の壁ではない。
触れれば微かに温かい、日常という名の体温だった。
城の正面玄関を抜け、防壁の外へと続く坂道を下りていく。
視界が開けるとともに、城下町の拍動が押し寄せてきた。
冷え切った空気の中に、竈から上がる煙の匂いと、家畜の呼気、そして人々の活気が混ざり合う。
厳しい冬の真っ只中にあっても、この町には絶望の停滞がない。
以前は広場を支配していた、あの苦しげな咳き込む音は、今はもう聞こえなかった。
私が前世の記憶を頼りに、土を掘り返し、草を煎じて作り上げた薬が、彼らの肺を癒やしたのだ。
広場の隅。
配薬所として設けた大きなテントから、一人の少女が飛び出してきた。
茶色の髪を乱暴に揺らし、琥珀色の瞳を輝かせた少女。
「あっ、お師匠様! おはようございます!」
十六歳になる助手のリリーは、私の姿を見つけるなり、弾かれたように駆け寄ってきた。
彼女の足元で、凍った地面がパリリと音を立てて砕ける。
「おはよう、リリー。今朝も早いのね」
「はいっ! お師匠様が不在の間も、薬草の乾燥と仕分けは完璧にやっておきましたよ! いつ戻られてもいいようにって!」
リリーは誇らしげに胸を張り、テントの奥に積まれた麻袋を指し示した。
袋からは、乾燥したハーブの、少し苦くて埃っぽい、力強い生命の香りが漂ってくる。
その必死な様子に、私の胸の奥が、小さな火を灯したように温まった。
「ありがとう、リリー。でも、私のことはセレスティーヌでいいと言ったはずよ?」
「とんでもございません! 聖女様を呼び捨てにするなんて、バチが当たりますっ。私、お師匠様の知識を全部飲み干して、この領地で一番の薬師になってみせますから!」
リリーは両手を握りしめ、鼻息も荒く宣言した。
聖女様――。
かつての私なら、その言葉に含まれる質量に耐えきれず、すぐに背を向けていただろう。
けれど、今は違う。
彼らが向けてくる純粋な眼差しは、もはや私を縛る鎖ではなかった。
この地に根を下ろし、誰かの生に触れる。
その摩擦こそが、私が「生きている」と感じるための、たった一つの術なのだから。
「……セレスティーヌ先生」
不意に、背後から落ち着いた、深い掠れ声が響いた。
振り返ると、町のまとめ役であるトーマスが、杖を突きながら立っていた。
冬の外套を纏った彼の身体からは、長い年月を生き抜いてきた者だけが持つ、古木のような匂いがする。
「トーマス長老。お体の具合はいかがですか?」
「おかげさまで。夜中の咳も、あの苦い水のおかげで、すっかり静まりました」
トーマスは、深く、そして敬意を込めて腰を折った。
その動作の一つ一つに、言葉以上の重みが宿っている。
「王都で大変なことがあったと聞き、皆、生きた心地がいたしませんでした……。こうして再び、私たちの領地へ戻ってきてくださったこと、心より感謝申し上げます。先生がいない間、この町は、火の消えた暖炉のようでしたぞ」
「……長老。わたくしには、もうここしかありませんから」
私は、自分の声が少しだけ震えていることに気づいた。
それは、寒さのせいではない。
帰る場所があるという、あまりにも重くて、逃げ出しがたい幸福のせいだ。
「ええ。私たちは、いつまでもあなた様を……私たちの聖女様を、お待ちしております」
見返りなど、何一つ求めていなかった。
ただ一人で消えることが、もっとも美しい結末だと信じて疑わなかった。
けれど――。
誰かの記憶に刻まれ、その人生の一部を構成する。
それが、こんなにも息のしやすいことだなんて。
「ああっ! お姉ちゃんだ!」
「セレスティーヌお姉ちゃん、おかえりなさい!」
広場の向こうから、弾けるような、それでいて硬質な子供の声が響く。
タタタッ、と。
石畳を叩く軽い足音が近づき、私のローブの裾が、グイと力強く引かれた。
茶色い髪を振り乱した八歳のティムと、その妹のミリーだ。
私は、膝を折って彼らと同じ高さに視線を合わせた。
子供たちの呼気は熱く、冬の空気を白く濁らせている。
「ティム、ミリー。二人とも、元気だった?」
「お姉ちゃん、ずっと王都に行っちゃってて……ぼく、もう戻ってこないのかと思って、毎日門のところまで行ってたんだよ!」
ティムの瞳には、隠しきれない寂しさの残り香が浮かんでいた。
私がいない間、この小さな心にどれほどの「空白」を作ってしまったのか。
その重さを、私はその小さな手の震えから受け取った。
「ごめんね、ティム。もうどこにも行かないわ。ずっと、ここにいるから」
私がティムの頭に触れると、ミリーが不安そうに私の袖を揺らした。
「お姉ちゃん……王都の悪い人たちに、いじめられなかった? 大丈夫だった?」
ミリーの瞳は、どこまでも澄んでいる。
彼女にとって私は、恐ろしい悪女でも、崇高な聖女でもない。
ただの、夜中にこっそり薬を届けてくれる「優しいお姉ちゃん」なのだ。
「ええ、大丈夫よ、ミリー。……あのね、私を助けてくれた、とっても強くて、優しい人がいたから」
私がそう言って、微笑みを浮かべた、その時。
「――誰が、強くて優しい人だと?」
背後から、氷点下まで一気に温度を奪い去るような、低い声が降ってきた。
それでいて、その響きの底には、隠しきれない動揺と、不器用な熱が混じっている。
私は肩を震わせて振り返った。
そこに立っていたのは、漆黒の外套を羽織った、長身の青年。
王国最年少の公爵であり、私の「透明な世界」を完膚なきまでに破壊した男。
レオン・ノワールクール。
銀灰色の髪が、冬の光を浴びて白銀に輝いている。
氷のように深く、底知れないその青い瞳は、常に冷徹な威圧感を放っていた。
けれど今の彼は、どこか所在なさげに腕を組み、私と子供たちを見下ろしている。
「れ、レオン様……。いつから、そこに?」
私が慌てて立ち上がると、レオンはフイッと顔を背けた。
彼の耳たぶが、寒さのせいか、あるいは別の理由か、微かに赤らんでいる。
「……領地の巡回中だ。お前がまた、自分の限界を忘れて無茶をしていないか、監視しに来たまでだ」
相変わらずの、硬い、事務的な言葉遣い。
けれど、彼が城下町までわざわざ足を運んだ理由が「監視」などではないことを、この場にいる全員が察していた。
彼の纏う空気は、以前のような拒絶のそれではなく、私を包み込もうとする柔らかな包囲網のようだった。
「ふふっ……ありがとうございます、公爵様。でもご心配には及びませんわ。わたくし、もう一人で全てを背負い込んだりはいたしませんもの」
私がそう告げると、レオンは一瞬、言葉に詰まったように唇を動かした。
そして、気まずそうに外套の襟をぐいと引き上げる。
「あっ! 怖いお兄さんだ!」
ティムが、レオンを見上げて屈託のない声を上げた。
「ティム! 閣下に向かってなんてことを!」
トーマス長老が慌てて杖を振るが、レオンはそれを片手で制した。
彼は大きな身体を折るようにして、ティムとミリーの目線まで、ゆっくりと腰を落とした。
その動作に伴い、彼の軍服が衣擦れの音を立てる。
「……小僧。名は」
低い声に、子供たちは一瞬身を竦めた。
けれどレオンは、その大きな掌を、おもむろに懐へと入れた。
取り出されたのは、丁寧に磨き上げられた、二つの小さな木の彫刻だった。
「わぁっ! これ、狼だ! かっこいい!」
「こっちは、雪うさぎ……!」
ティムとミリーの手に、無骨な、けれど温かみのある木彫りが握らされた。
レオンは表情を変えないまま、淡々と告げる。
「……お前たちが、この女の薬の手伝いをしていると聞いた。その褒美だ。これからも、こいつの邪魔にならない程度に、支えてやれ」
その言葉は、命令という形を借りた、ひどく不器用な懇願だった。
ティムは、満面の笑みで大きく頷く。
「うん! ぼく、お姉ちゃんのこと大好きだから! ……怖いお兄さんも、お姉ちゃんのこと、好きなんでしょ?」
「っ……!?」
子供ゆえの、剥き出しの真実。
レオンの身体が、岩のように完全に硬直した。
彼は弾かれたように立ち上がり、今度こそ完全に背を向けてしまった。
「な、何を馬鹿なことを……っ。俺は領主として、有益な人材を管理しているだけで……っ!」
「ふふふっ、あはははっ!」
私はもう、堪えきれずに声を上げて笑ってしまった。
あの凄惨な大広間で、すべての貴族を沈黙させた「氷の公爵」が。
たった一人の子供の言葉に、ここまで狼狽し、照れ隠しの嘘を必死に並べている。
そのあまりにも人間臭い、剥き出しの体温。
それがどうしようもなく愛おしくて、私は目尻に滲んだ涙を指先で拭った。
「レオン様、そんなに慌てなくてもよろしいのに。……わたくしは、とても嬉しいですわ」
私が、少しだけ悪戯っぽく、けれど真剣な想いを乗せてそう告げると。
レオンは一度だけ私を鋭く射抜き、それから、深く、重い吐息を漏らした。
「……お前は、本当に性格が悪い」
「あら、わたくしは元・悪役令嬢ですもの。これくらいはご愛嬌ですわ」
私がウィンクをして見せると、レオンは呆れたように肩をすくめた。
そして。
彼の口角が、本当に微かに、雪解けの瞬間の水面のように、柔らかく弧を描いた。
「……まあ、いい。お前がその顔で笑っていられるなら、それで十分だ」
冬の風が、二人の間を吹き抜けていく。
けれど、その風はもう私を凍えさせはしなかった。
彼の言葉が、私の心臓の最も深い場所にある、かつての空白を温かく満たしていく。
私は、もう一人ではない。
誰の記憶にも残らない、透明な観測者としての私は、あの王都で死んだのだ。
今、私が立っているのは。
冷たいレンズ越しに見る絵画のような世界ではなく、誰かが泣き、笑い、泥にまみれて生きる、生きた現実の只中だ。
誰かに見つけてほしい。
名前を呼んでほしい。
そんな、かつては口にすることさえ憚られた飢餓感。
それが今、この不器用な男の隣で、穏やかな呼吸へと変わっていく。
「さあ、リリー、ティム、ミリー。午後からは、新しく採ってきた薬草の仕分けをしましょうか」
私が声をかけると、子供たちが元気よく「はいっ!」と返事をして駆け出していく。
その背中を眩しそうに見つめながら、私は隣に立つレオンの、大きな手にそっと触れた。
彼の手は、驚くほど温かかった。
その熱が、私の皮膚を通じて、骨の髄まで染み渡っていく。
(誰も傷つけたくなかった。だから、自分だけを傷つけてきた)
私は、見上げる冬の青空に向かって、声にならない想いを投げかける。
(でも――ありがとう。私を、見つけてくれて)
ノワールクール領の風は、相変わらず冷たく、厳しい。
けれど、私たちが紡ぎ出していく日常は、これから何度でも、この冷たい空気を塗り替えていくだろう。
仮面は、もういらない。
ただ、この場所に流れる時間と、隣にいる人の温かさを信じて。
私は、私自身の物語を、一歩ずつ、確実に歩んでいく。
この光の当たる、美しくも残酷な現実の舞台で。
等身大の笑顔だけを、その胸に抱きしめて――。




