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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第66話 「透明な記録者」の死と、生きた日常の始まり

 視界の端で、絶え間なく降り続く雪が、音という音を磨り潰していく。


 世界から色彩が失われ、ただモノクロームの静寂だけが堆積していく夜の庭園。

 私の肺に滑り込んでくる空気は、剃刀の刃のように冷たく、鋭く、肺胞の奥を刻んでいく。


 その沈黙を、一つの質量が貫いた。


「泣きたいなら泣け。怒りたいなら怒れ。何も感じたくないなら、それでもいい」


 レオン・ノワールクールの声は、低い。

 それは鼓膜を震わせる空気の振動というよりは、石床を伝って足裏から這い上がってくる、地鳴りのような響きだった。


 彼の言葉が、私の胸の中央に鎮座していた分厚い氷の壁に、決定的な楔を打ち込む。


「俺の前では、お前はもう、何も演じなくていい」


 ――亀裂。


 一瞬だった。

 何年も、あるいは二つの人生を跨いで維持してきた、強固な防壁(シェル)が、内側から爆発するように砕け散ったのは。


 心臓を締め付けていた目に見えない鉄の鎖が、火花を散らして弾け飛ぶ。

 衝撃は、熱となって溢れ出した。


 私は、彼の漆黒の外套に、縋るように顔を埋めた。


 鼻腔を突いたのは、凍てついた冬の夜の匂いと、洗いたての布地が持つ僅かな硬さ。

 そして、その奥から滲み出す、暴力的なまでの体温だ。


 視界が、急激に熱い液体で満たされていく。

 それは単なる涙ではない。

 私の体内で沈殿し、ヘドロのように固まっていた「言葉にならなかった記憶」の流出だった。


 嗚咽が、喉の奥で獣の咆哮のように震える。


 自分でも驚くほどの、濁った、醜い声が出た。

 けれど、レオンの胸は、その震動をすべて吸収し、びくともしない。

 ただ、彼の大きな手が、私の背中にそっと添えられた。


 その掌の重みが、今の私には、世界を支える唯一の支点のように感じられた。


 ずっと、耳の奥で鳴り止まなかった不快な音が、ふっと消えた。


 ホワイトノイズ。

 感情を遮断し、世界を「被写体」としてのみ捉える時に発動する、あの防衛本能の産物。

 それが、彼の体温によって融解していく。


 右手。

 無意識のうちに「架空のシャッター」を切る動作を繰り返していた、私の人差し指。

 その指先が、今、確かな抵抗感を持って、彼の外套の厚いウールを掴んでいる。


 ……重い。

 ……暖かい。


 指先から伝わってくるのは、電気信号としての情報ではなく、私の皮膚が直接感じ取っている、生きた現実の摩擦だった。


 透明な記録者。

 私は、自分をそう定義して生きてきた。

 前世の三十三年。今世の十五年。


 合わせて四十八年もの間、私は常に「レンズ越し」に世界を見ていた。

 どんなに激しい愛憎も、どんなに凄惨な裏切りも、構図の一部として処理すれば、傷つくことはない。


 美しい悲劇を完成させるための、装置としての私。

 誰の記憶にも残らず、誰の体温にも触れず、ただ完璧な静止画(スチル)を遺すためだけの人生。


 背負い続けてきた十字架は、あまりに重く、そして冷淡だった。


 けれど今、その重みは、私の頬を伝う雫に混じって、雪の大地へと溶け出していく。


 時間の感覚が、麻痺していく。

 どれほど泣き続けたのかはわからない。

 ただ、肺の奥から吐き出される空気の温度が、少しずつ平熱を取り戻していくのを感じていた。


 激しい潮騒のような嗚咽が、やがて小さな波紋のようなしゃくりあげに変わる。


 雪は、今も無言で降り積もっている。

 庭園の隅々にまで、冷たく、清冽な静寂が染み渡っていく。


 私は、彼の胸に顔を預けたまま、ゆっくりと、深く息を吸い込んだ。


 冷気を孕んだ風が、私の気管を通り、熱く火照った胸の奥を鎮めていく。

 鼻を抜ける、針葉樹のような、彼の清廉な香。


 思考を霧のように覆っていた「過去の残滓」が、一気に掃き清められていくのがわかった。


 もう、私は傍観者ではない。


 安全な場所からファインダーを覗き、世界の美しさを搾取するだけの幽霊ではないのだ。


 私は、自らの内側で、あの重い一眼レフカメラを叩き壊した。


 ガラスの砕ける音が、精神の深淵で響いた気がした。

 レンズは粉々になり、暗室の現像液は床にぶち撒けられる。


 そこに残ったのは、加工も修正もできない、剥き出しの現実だけ。


 誰にも干渉せず、誰にも傷つけられない、死んだように美しい「完璧な写真」なんて、もういらない。


 泥を跳ね上げ、汗をかき、醜く顔を歪めて泣く。

 そんな不格好で、不確かな、けれど脈動する日常の真ん中に、私は自分の足で立ちたいと思った。


 私は、ゆっくりと彼の胸から顔を離した。


 剥がれる瞬間の、密着していた空気が引き裂かれるような微かな抵抗感。

 名残惜しさが、皮膚の表面をざらりと撫でていく。


 恐る恐る、涙に濡れた顔を上げた。


 そこにいたのは、氷の公爵ではなかった。


 レオン・ノワールクールの青い瞳。

 それはかつて、私を射抜く冷徹な槍だと思っていた。

 けれど今、私を見つめるその双眸は、深海のように深く、そして果てしない慈愛を湛えている。


 わずかに眉根を寄せ、何かを堪えるように引き結ばれた、彼の唇。

 その表情には、私の嘘をすべて暴き出したという優越感など、微塵もなかった。


 ただ、目の前にいる一人の不器用な女を、そのままの形で受け入れる。

 そんな野性的で、独占的なまでの熱が、静かに燃えていた。


 私は、震える指先で、自分の頬を乱暴に拭った。


 手のひらに残る、塩辛い雫の感触。

 肌に触れる手の感触が、あまりに生々しくて、笑いが込み上げてきた。


 私は、彼に向かって、ゆっくりと口角を引き上げた。


 それは、これまで私が幾度となく繰り返してきた、あの「鋼の笑顔」ではない。

 周囲を沈黙させ、自分を記号化するための、温度を奪う仮面ではない。


 筋肉は、まだ震えている。

 まぶたは重く腫れ上がり、鼻の奥はツンとしていて、息をするたびに不細工な音が漏れる。

 おそらく、今の私の顔は、公爵令嬢としてあるまじき惨状だろう。


 けれど。


 前世の三十三年。

 今世の十五年。

 合わせて四十八年の長い年月を経て、私はようやく、自分の筋肉で笑った。


 内臓の底から湧き上がってきた、粘度の高い歓喜。

 一片の虚飾も混じっていない、本当の私の笑顔。


 ――重力が、消えていた。


 心臓を、肺を、首筋を、常に押し潰していた「正しくあるべき自分」という重圧。

 それが消え去った世界は、これほどまでに軽く、呼吸がしやすいのか。


 もう、一人で戦わなくていい。

 もう、誰かを守るために、自分自身を透明な供物として捧げる必要もない。


 雪が降り積もる、この箱庭のような世界で。

 私は、私を縛っていたすべての呪縛を、自らの涙で洗い流した。


 レオンは、何も言わなかった。

 ただ、不格好に笑う私の姿を、その青い瞳に、刻印を刻むように焼き付けていた。


 彼という、たった一人の「真実」が隣にいる。

 私の醜さも、嘘も、前世の影さえも、すべてを飲み込んでくれる巨大な影として。


 私の本当の人生が。


 この、冷たくて、温かい、雪の降る夜から。

 不器用な笑顔の産声とともに、今、静かに動き出した。

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