第64話 「お前は、もう笑わなくていい」
厚く垂れ込めた雲が、月光をいびつに濾過している。
静寂が、音もなく庭園を塗り潰していた。
空から落ちてくる白い結晶は、羽毛のような軽やかさで、それでいて容赦のない密度を持って、私の視界を白く、白く埋めていく。
吸い込む空気は、肺の奥を薄い氷の刃で撫でるように冷たい。
「……お前は、もう笑わなくていい」
その声は、雪の夜の静謐を切り裂くことはなかった。
むしろ、湿り気を帯びた闇の中に深く沈殿し、石床を伝って私の足裏から脳髄へと這い上がってくるような、重い響き。
鼓膜の奥で、その一言が何度も反芻される。
熱い鉄を素手で掴まされたかのような、逃げ場のない衝撃。
私は、呼吸の仕方を忘れた魚のように、ただ微かに唇を震わせることしかできなかった。
「……え?」
こぼれ落ちたのは、形を成さない、ひどく間の抜けた吐息だった。
レオン・ノワールクールの姿が、滲む視界の中でゆっくりと輪郭を濃くしていく。
彼の背負う影は、夜の闇よりもなお深い。
漆黒の外套に降り積もる雪さえも、その圧倒的な存在感に触れた瞬間に、消え入るように溶けていく。
氷の底に沈んだ青い宝石のような、その瞳。
見つめられているだけで、内臓の奥が冷たく引き絞られる。
それは鑑定ではない。
私の魂の最も奥底、自分ですら触れるのを避けてきた「空洞」に、彼は土足で踏み込んでくる。
私は反射的に、顔の筋肉を硬直させた。
それは、前世という名の長い長い悪夢の中で、私が唯一身につけた生存の技。
血の匂いと、硝煙の煤にまみれた、あの灰色の世界。
他者の絶望を切り取るために、私は自分自身の心を殺し、滑らかな仮面を顔面に貼り付けた。
感情を動かしてはいけない。
目の前で誰が崩れ落ちようとも、世界がどれほど醜く歪もうとも。
私はただ、中立の境界線に立ち、美しく、そして残酷な微笑を維持し続けなければならなかった。
だが、今の私の身体は、私の意志を冷酷に裏切った。
口角を引き上げようとしても、頬の奥の筋が、錆びついた歯車のように軋んで動かない。
固定したはずの視線が、彼の眉間に刻まれた微かな皺一つに捕らえられ、逃れることができない。
内側から、何かがミシミシと音を立てて崩れていく。
私が十五年かけて、この世界で丁寧に塗り直してきたはずの「完璧な笑顔」という名の防壁が。
「わ、わたくしは……別に、無理をして、笑ってなど……」
自分の声が、他人のもののように遠く響く。
震える指先が、ドレスの絹の布地を無残に引き絞り、爪が掌に深く食い込む。
痛みだけが、かろうじて私をこの場に繋ぎ止めていた。
『笑っていなければ、中身がこぼれ落ちてしまう』
それは、祈りに似た呪縛だった。
エドガーが差し出した、土の匂いのする小さな花を受け流した時も。
母の、柔らかな温もりに満ちた手を、冷たく拒絶した時も。
アルベール殿下から、断罪の言葉を投げつけられた、あの大広間の冷たい空気の中でも。
私は、自分が透明な存在になれると信じていた。
私が笑って、すべてを引き受け、消えてしまえば――。
その「構図」こそが、守るべき唯一の正解なのだと。
けれど。
目の前の男は、その正解を蹂躙した。
学園の裏庭で、私が泥を噛むような思いでうずくまっていた時。
彼は私の仮面を、たった一言で剥ぎ取った。
『――昨日の顔の方がいい』
あの時、心臓の奥に走った亀裂を、私は今でも鮮明に覚えている。
私の自己犠牲を、私の完璧な孤立を、彼は「傷つく」という言葉で真っ向から否定したのだ。
辺境の茶屋で、泥にまみれた私を拾い上げた、あの節くれ立った大きな手。
領地の民のために、泥にまみれて働くことを強いた、あの不器用な優しさ。
王都での騒乱の中、常に私の背後に立ち、巨大な城壁のようにすべてを遮断してくれた。
私が「私」として存在することを、彼は言葉ではなく、その肉体の質量をもって証明し続けてくれたのだ。
しがみついていたはずの「透明な記録者」としての矜持は、今や、冬の陽光に晒された氷細工のように脆く、形を失っている。
「公爵、様……」
視界が、不自然にゆがみ始めた。
雪の白さが混じり合い、彼の青い瞳だけが、暗闇の中で鮮烈に浮かび上がる。
喉の奥が、焼けるように熱い。
泣き方なんて、疾うの昔に捨て去ったはずだった。
感情のダムを埋め立て、冷徹な静寂だけを溜め込んで生きていく。
それが、三十三年の前世と、十五年の今世を繋ぐ、唯一の鉄則だったはずなのに。
レオンは、逃がさない。
彼はゆっくりと、積もった雪を踏み締め、私との距離を詰めてくる。
ギュッ、ギュッ、と。
凍った地面が軋む音が、私の心拍を急かす。
彼の体温が、雪の冷気を押し退けて、私の肌に届くほどの近さ。
銀灰色の髪に付着した雪が、月光を反射して、まるで彼自身が微かな光を放っているかのように見えた。
「俺の目をごまかせると思うな、セレスティーヌ」
名を、呼ばれた。
重厚な古酒が喉を通り過ぎるような、深く、熱い余韻を伴う響き。
「お前が王都で、家族やあの王子たちのために、どれほど自分の心を磨り潰してきたか。俺はすべて、この眼に焼き付けてきた」
「……っ」
「だが、ここはノワールクールだ。王都の連中が織りなす薄っぺらな喜劇も、お前を縛る過去の因縁も、ここまでは届かない」
レオンの声が、低く、けれど揺るぎない確信を孕んで、私の胸の空洞を満たしていく。
「お前が作った薬で、この凍てついた土地の連中が、どれほど温かい呼吸を取り戻したか。……彼らがお前に向ける眼差しは、お前のその見え透いた仮面など、最初から相手にしていない」
脳裏に、昼間の光景が閃光のように過る。
小さな、けれど確かな温もりを持った子供たちの手。
「ありがとう」と微笑む、皺の刻まれた長老の顔。
私が透明でいようとしても、彼らは私を実体として捉え、その温もりを私に押し付けた。
私が「背景」であることを拒み、一人の「人間」としてそこに在ることを強いた。
「……わたくしは、ただ……」
絞り出した声は、かすれて、今にも雪の中に消えてしまいそうだった。
胸の前で握りしめた拳が、激しく震える。
「わたくしは、ずっと……誰かの目に、映るのが怖かったのです」
それは、私の魂の膿だった。
「誰かに甘え、自分の醜さを晒してしまえば……。わたくしという形が、すべて崩れて、跡形もなく消えてしまう気がして……。
誰にも期待せず、ただ一人で、誰の記憶にも残らずに摩耗していくこと。それだけが、唯一の安全な場所だったから……」
告白は、血を吐くような苦しみを伴った。
三十三年の絶望と、十五年の偽り。
それらを一つの塊にして、私は目の前の男に投げつけた。
レオンは、それを避けることも、目を逸らすこともなかった。
むしろ、そのすべてを真っ向から受け止めるように、さらに一歩、私の領分へと踏み込む。
彼の瞳の奥に宿る熱は、もはや静かな青ではなかった。
それは、すべてを焼き尽くし、再構築せんとする、原初の炎に近い何かだった。
「……だから、わたくしは……っ」
言葉が、途切れる。
溢れ出しそうになる「何か」を必死に抑え込もうとして、私は顎を震わせた。
その時だった。
レオンの手が、ゆっくりと、視界の端から伸びてきた。
雪を切り裂く、その確かな質量。
ポン、と。
私の震える肩に、彼の大きな掌が置かれた。
――衝撃。
分厚い毛皮のケープを透過して、彼の鼓動が、その指先から直接私の心臓へと流れ込んでくる。
それは、凍死寸前の人間に与えられる、暴力的なまでの熱だった。
世界から、雪の降る音が消えた。
風の音も、木々のざわめきも。
ただ、彼の掌から伝わる、圧倒的なまでの「生」の響きだけが、私のすべてを支配する。
レオンは、私の瞳の奥を覗き込むように、静かにその口を開いた。
次に彼が紡ぐ言葉が。
私が築き上げてきた「孤独な要塞」を、根底から粉砕することになるのだと。
私は、その不可逆な予感に、ただ身を委ねるしかなかった。




