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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第63話 雪降る庭園と、終わらない庇護

 肺の奥まで侵食してくる、研ぎ澄まされた沈黙。


 王都を覆っていた、あの脂ぎった欲望と虚飾の熱は、もはや遠い異国の記憶だ。

 馬車の車輪が石を噛む響きが、いつしか湿った土の音から、硬く、乾いた結晶の軋みへと変わっていく。


 車窓の外、流れていく景色は色彩を失い、ただ厳格な黒と白の世界へと塗り替えられていく。

 天を衝く針葉樹の影。

 それらを沈黙させる、圧倒的な雪の質量。


 数ヶ月前。

 断罪という名の石礫を浴び、この地に流れ着いた時の私は、魂の輪郭さえも透けて消えそうなほどに希薄だった。

 けれど今、喉を焼くような北風を吸い込むたび、私の内側に確かな重みが沈殿していくのを感じる。


 冷気は、もはや私を拒まない。

 それは、迷走を続けていた私の血を鎮め、ここが「終焉」ではなく「起点」であることを告げる、冷徹で慈悲深い手触りだった。


 重厚な石造りの門が、低い唸りを上げて開かれる。

 中庭の静寂を切り裂き、馬車が停止した。


 扉が開かれた瞬間、溢れ出してきたのは――熱だった。


「お帰りなさいませ、公爵閣下! ……そして、セレスティーヌ先生!」


 白く濁った呼気とともに、幾十もの声が重なり、冷えた空気を震わせる。

 城の使用人たち。

 そして、厚い防寒着に身を包んだ、見覚えのある領民たちの顔。


 最前列に立つ長老トーマスが、節くれだった手で杖を握り直し、深く、深く頭を下げた。

 彼の目尻に刻まれた深い皺の奥に、王都での嵐を案じていたのであろう、澱みのような疲労と、それが今、陽光に溶ける雪のように消えていく安堵を見た。


「お師匠様ぁ……っ!」


 人混みを割り、小さな弾丸が私の腰にぶつかってきた。

 薬師見習いのリリーだ。

 彼女の指先は、寒さで赤く腫れ、それでいて私の外套を離すまいと、必死にその繊維を掴んでいる。


「ずっと、ずっと……。悪い人たちに、いじめられてるんじゃないかって……!」


 鼻を啜る音。

 潤んだ瞳に映る私は、もはや王宮の背景ではない。

 彼女にとっての、唯一無二の北極星なのだということが、その掌の熱から伝わってくる。


「お姉ちゃん、おかえり!」

「おかえりなさい!」


 ティムとミリーの小さな手が、私の指を求めて伸びる。

 彼らの無垢な瞳には、私の身分が回復したことなど、塵ほどの価値もなかった。

 ただ、自分たちの熱を冷ましてくれた「冷たくて優しい手」が、再び目の前に現れた。

 その物理的な事実だけが、彼らの世界を祝福している。


「……ええ。ただいま戻りましたわ、皆様」


 口角を吊り上げる、あの不自然な筋肉の運動ではない。

 胸の奥に溜まっていた重苦しい澱が、不意に、ふわりと軽くなったような感覚。

 私は、自分の顔が、ごく自然な弛緩を見せていることに気づいた。


 ここでは、誰も私を透明として扱わない。

 私もまた、誰の瞳からも逃げる必要はないのだ。


 ふと、視線を感じて顔を向ければ。

 数歩離れた場所で、レオンが立っていた。


 銀灰色の髪に、冬の淡い光が降り積もる。

 彼は何も言わず、ただ、その深い青い瞳で、私と領民たちのやり取りを静かに眺めている。

 その佇まいは、荒れ狂う冬の海に立つ灯台のように、絶対的な不動の意志を放っていた。


 ***


 城に、深い夜が降りてくる。

 石壁に備え付けられた松明の炎が、外の寒気に煽られ、壁に不規則な影を踊らせていた。


 私は、自室の窓辺に立っていた。

 厚い雲の向こう側、月の気配だけが雪原を青白く照らし出し、音のない雪の舞踏が続いている。


 身に纏っているのは、王都へ向かう直前、彼から贈られたドレスだ。

 深い群青色のベルベット。

 その生地は、夜の深淵をそのまま切り取ったかのように滑らかで、それでいて、ずっしりとした重みを肩に伝えてくる。


 裾に施された、銀糸の雪の結晶。

 それは、彼が「政略上の道具」という仮面を被りながら、その実、私の魂を守るために用意してくれた鎧でもあった。


 私は、そのベルベットの肌触りを指先で確かめ、そっと部屋を抜け出した。

 向かったのは、城の裏手に隠れるようにして存在する、小さな庭園だ。


 雪に覆われた石畳。

 踏みしめるたび、足裏に伝わってくる、雪が圧壊する鈍い感触。

 キュッ、キュッ、と。

 その小さな音だけが、世界のすべてであるかのように響く。


 かつて、私はここに逃げ込んだ。

 前世から抱え続けてきた、硝煙と死臭の記憶。

 誰にも看取られず、泥の中で消えていった、あの圧倒的な無意味への恐怖。


 今世でも、私は同じ過ちを繰り返そうとしていた。

 愛する家族を守るため。

 物語の整合性を保つため。

 自分が「舞台装置」になりきれば、それで世界は救われるのだと、傲慢にも信じ込んで。


 だが、その仮面の下で、私の魂は悲鳴を上げていたのだ。

 擦り切れ、薄くなり、いつしか自分という存在の重さを忘れてしまうほどに。


『もう、無理しなくていいのよ』


 母の、あの震える手の温もりが、今も頬に残っている。

 私は、もう独りで奈落へ落ちる必要はない。

 誰かの記憶に刻まれることを、恐れなくてもいい。


 そっと、自分の頬に触れてみる。

 冷たい風に曝された肌は、驚くほど柔らかく、生きた熱を帯びていた。

 かつて、完璧な淑女を演じるために固定されていた表情筋は、今はもう、ただの肉としてそこにある。


 私は、生きている。

 ファインダー越しに世界を切り取る「記録者」ではなく。

 雪の冷たさを、風の痛みを、直接その身に受ける「当事者」として。


 ザクッ、ザクッ。


 背後で、雪を抉るような、力強い足音が響いた。

 反射的に体が強張ることはなかった。

 ただ、そのリズムに合わせて、私の心臓が静かに、そして力強く拍動を刻む。


 振り返らなくても、わかる。

 この、周囲の空気を一瞬で氷結させるような、それでいて芯に焔を秘めた気配。


「……こんな夜更けに、雪の中で何をしている」


 低く、深く、石に刻み込むような声。

 振り返ると、漆黒の外套に身を包んだレオン・ノワールクールが、雪の中に佇んでいた。


 彼の睫毛には、小さな雪の結晶が宿り、深い青い瞳の中で、かすかな光を放っている。


「……レオン様」


 その名を呼んだ瞬間。

 私の喉の奥で、何かが融解していくのを感じた。


「部屋が、あまりに静かでしたので。……少しだけ、この土地の空気を吸い込みたくなったのですわ」


 私は、首を少し傾け、彼を見上げた。

 かつての、計算し尽くされた完璧な微笑ではない。

 ほんの少し、困ったような、それでいて慈しむような、不器用な表情。


 レオンはフイと視線を逸らし、短く鼻を鳴らした。


「……長旅の直後だ。薬師が自ら体調を崩して、領民に示しがつかなくなるのは困る。様子を見に来た、それだけだ」


 嘘だ。

 その不器用な、あまりにも分かりやすい言葉の裏側で、彼がどれほどの熱を持って私を案じていたのか。

 王宮の大広間で、私の盾となってくれた、あの背中の広さを私は知っている。


 氷の公爵という名の仮面。

 けれど、その内側で脈打っているのは、誰よりも不器用で、誰よりも純粋な慈愛なのだ。


「ふふ……。ありがとうございます。でも、もう大丈夫ですわ。わたくし、自分が思っていたよりも、ずっと……この土地に馴染んでしまったみたいですから」


 私は、そっと彼の隣に並んだ。

 肩と肩が触れそうな、わずかな距離。


 降りしきる雪が、二人の間に沈黙の壁を作る。

 かつて、この沈黙は、私を裁く刃だった。

 私の嘘を暴き、隠していた孤独を抉り出す、鋭利な刃。


 けれど今は。

 同じ冷たさを分かち合い、同じ景色を眺めているという、ただその事実が。

 私の魂を、絶対的な肯定で包み込んでくれる。


 王都の、あの眩暈がするような喧騒。

 貴族たちの、刺すような視線の交差。

 それらはすべて、この白の沈黙によって、浄化されていく。


 あるのは、雪が積もる、かすかな音だけ。

 そして、隣に立つ男から伝わってくる、微かな熱の震えだけだ。


「……王都には、未練はないか」


 レオンが、前を向いたまま、ぽつりと問いかけた。

 その声は、雪の夜に吸い込まれて消えそうなほど、静かだった。


 私は、彼の美しい横顔をそっと見つめた。

 彫刻のように整った、けれどどこか寂しげな稜線。


「全くありませんわ」


 淀みなく、私は答えた。

 その言葉は、私の胸の奥に、確かな錨を下ろす。


「わたくしの居場所は、もとより、あそこにはなかったのですから」


 私は、自分の手を胸の前で重ねた。

 ベルベットの重みが、手のひらを通じて心臓に伝わる。


「わたくしは、ここで……。この、何もないけれどすべてがある場所で、ただのセレスティーヌとして。あなたの傍で、生きていきたいのです」


 それは、私の長い、あまりに長い放浪の末に見つけた、唯一の真実だった。


 物語のためではない。

 誰かの犠牲になるためでもない。

 私が、私として呼吸をするために。

 彼の隣で、その重力を感じながら生きていくこと。


 レオンの肩が、不自然に一度だけ、大きく震えた。

 彼は、吸い込んでいた息を、吐き出すのを忘れたかのように、長い間静止していた。


 やがて、彼はゆっくりと、私の方へと向き直った。


 その瞳。

 かつては、すべてを拒絶する氷の壁だった青い双眸が。

 今は、恐ろしいほどの渇望と、押し殺した情熱を孕んで、私を射抜いていた。


 私は、その視線の質量に、思わず呼吸を忘れた。

 それは、私という存在を根底から定義し直してしまうような、圧倒的な引力。


 透明な存在でありたいと願っていた、かつての私なら、この熱に耐えきれず逃げ出していただろう。

 私は、あまりに強い存在の証明を突きつけられ、動揺を隠すように、無意識に顔を強張らせた。


 頬の筋肉が、かつての仮面を思い出そうとして、歪に、引き攣ったような笑みを作ろうとする。

 自分をさらけ出すことへの、最後の抵抗感。


 だが。


 レオンは、逃げることを許さない。

 彼は一歩、雪を深く踏みしめて、私の目前まで踏み込んできた。

 その影が私を覆い尽くし、冷たい外気の中で、彼の体温だけが、鮮烈に私の鼻腔を打つ。


 彼は、私の震える肩に手を置く代わりに。

 その声を、私の魂へと楔のように打ち込んだ。


「……お前は、もう笑わなくていい」


 静かな夜。

 雪さえも、その言葉の重みに恐れをなして、静止したかのような錯覚。


 その言葉は、私が築き上げてきた最後の一線を、どこまでも優しく、そして容赦なく粉砕した。

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