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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第62話 『観測者の家系』からの解放と、母の抱擁

 冷え切った大理石の感触が、膝の裏側からじわじわと体温を奪っていく。


 腕の中に閉じ込めた、二つの小さな熱。

 エドガーの肩の、不規則で硬い震え。

 エレーヌの、綿菓子のように頼りない髪の柔らかさ。

 それだけが、今の私の世界を繋ぎ止める重石だった。


 視界の端で、絶え間なく雫が爆ぜる。

 吸い込まれるような白の床に、不格好な斑点が広がっていく。

 それは、私の内側でひび割れた何かが、漏れ出している音のようだった。


 およそ、半世紀。

 積み上げられた月日の地層が、音を立てて崩れていく。

 かつて雪の夜、あの男に心の裏地を暴かれた時とは違う。

 今の涙は、ただひたすらに重かった。


 二人の体温が、皮膚を透かして私の芯に届く。

「お姉ちゃん」という、震える呼気。

 それは、私が十五年間、自らに課してきた透明な呪いを溶かしていく。

 誰の記憶にも残らず、ただ観測者として消えるはずだった、私の凍土を。


「……もう、大丈夫。泣かないで、二人とも」


 私の声は、ひどく掠れて、湿っていた。

 銀色の髪に触れる指先が、自分のものとは思えないほど熱い。

 ゆっくりと顔を上げた視界の先に、その影は立っていた。


 重厚な扉の隙間から、差し込む光を背負って。

 金色の髪が、埃の舞う空気の中で淡く発光している。

 海をそのまま切り取ったような、深い、深い、青い瞳。

 そこには、いつも拭いきれない淀みが沈んでいた。


 イザベラ・ヴァルモン。

 私の母――その人は、扉の枠に指を食い込ませ、立ち尽くしていた。

 震える唇が、音にならない言葉を何度もなぞっている。


 視線が絡み合った瞬間、脳裏に鉄の味が広がった。

 まだ王立学園という檻に入る前の、ある春の午後。

 陽だまりの中で本を捲る私に、母が投げかけた掠れた声。


『セリア。……無理しなくていいのよ』


 あの時、母は見ていたのだ。

 私が自分自身を切り刻み、その血で描いた「傲慢な令嬢」という歪な偶像を。

 守るために突き放し、愛するために孤独を選ぶ。

 その矛盾した足取りを、彼女は影のように追っていた。


『お母様、私は何もしていませんわ。無理など、しておりません』


 私の返答は、一切の不純物を排除した、鏡のような静寂だった。

 感情を殺し、表情を固定し、一滴の温度も混ぜない。

 そうすることでしか、私は彼女を「安全な場所(フレームの外)」に留めておけなかった。


 母の愛情は、いつも行き場を失っていた。

 厳格な父という法と、私の孤独という壁の間で。

 彼女はただ、磨り減っていく娘の背中を、遠くから祈るように見つめるしかなかった。


 あの日。

 断罪の大広間を去り、冷たい廊下を一人で歩いていた、あの日。


『セリア、待って――!』


 背後から響いた、ドレスの裾が床を薙ぐ、狂おしい音。

 私は、振り返らなかった。

 振り返れば、私の構築した「無」の結末が、彼女の涙で汚れてしまう。

 自己犠牲という名の歪んだ整合性が、一瞬で瓦解してしまう。


『……母様。お別れは、短く済ませましょう。さようなら』


 その一言は、自分で自分の心臓を穿つ刃だった。

 背後で崩れ落ちる、布地の擦れる重い音。

 嗚咽が、冷たい石壁に反響し、いつまでも私の背を追いかけてきた。


 たった一人で馬車に乗り、暗闇の先へ消えていく娘。

 それを見送ることしかできなかった、母親としての絶望的な無力。

 私の「正しい選択」は、彼女の魂をどれほど無惨に削り取っていたのだろう。


「……お母様」


 掠れた呟きが、静止した空気を震わせた。


 次の瞬間、母は弾かれたように地を蹴った。

 貴族としての優雅な所作も、令嬢としての矜持も、そこにはなかった。

 乱れるドレスの裾を厭わず、転がるようにして。

 私の目の前で、崩れるように膝をついた。


「セリア……ッ!」


 衝撃が、私の全身を包み込んだ。

 細い、けれど驚くほど力強い、二本の腕。

 エドガーとエレーヌを巻き込んで、母は私たちを丸ごと抱きしめた。


 鼻腔を突く、懐かしい香料の匂い。

 前世という名の重圧に押し潰される前、毎晩私を眠りに誘った、あの柔らかな温もり。

 私の肩口に押し付けられた彼女の顔から、熱い液体が染み込んでくる。


「セリア……ごめんなさい。ごめんなさい……ッ!」


 母の絶叫は、絞り出されるような慟哭となって大理石の部屋に響いた。

 彼女の指が、私の服の背中を、引きちぎらんばかりに握りしめている。


「私は……お母様なのに。あなたを、止められなかった。あなたが一人で、あんなにも重い十字架を背負って……ッ」


 肺が潰れそうなほどに、強く、強く抱き寄せられる。

 母の嗚咽が、骨の髄まで振動として伝わってきた。


「私は弱かった……。お父様に逆らうこともできず、ただ、あなたが壊れていくのを黙って見ていることしかできなかった! あの日、あなたが独りで去っていく背中を見たとき、私は……自分を殺してしまいたいとさえ思ったわ……ッ!」


 母の言葉は、長い年月をかけて煮詰められた、血を吐くような懺悔だった。

 理解していながら、見守るという名の「共犯」を選んだ罪。

 家の守護という大義のために、娘の悲鳴を無視し続けた、その痛切な後悔。


 私は、ゆっくりと、震える手を動かした。

 母の細い背中に、そっと指先を沈める。


 かつての私なら、この抱擁すらも「計算外のノイズ」として拒絶しただろう。

 完璧な悲劇を演じ切るために、再び鉄の仮面を被ったはずだ。

 だが、今の私を支配しているのは、そんな乾いた防衛線ではなかった。


 私はもう、フレームの向こう側で世界を切り取る、ただのレンズではない。

 彼らが紡ぐ物語を、安全な場所から眺めるだけの、透明な観測者ではないのだ。


「……母様」


 耳元で囁く。

 その声には、自分でも驚くほどの質量が宿っていた。


「もういいの。これで、よかったの」


「セリア……?」


 母が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

 私は、彼女の海のような青い瞳を、逃げずに見つめ返した。


 顔の筋肉が、自然に動く。

 十七歳の、等身大の少女が持つべき、飾りのない微笑。


「私の選んだ道は、とても不器用で、間違いだらけでした。……誰も傷つけたくなかったのに、結局、あなたを、お父様を、みんなを……一番守りたかった人たちを、深く抉ってしまった」


 母は、激しく首を振った。

 言葉を遮ろうとする彼女の頬を、私は指先でそっと拭う。


「でもね、母様。……こうして、醜い私を晒して。私がどれほど臆病で、不器用な人間だったかを知ってもらえた今。私は、今まで生きてきた中で、一番……呼吸がしやすいのです」


 それは、腹の底から湧き上がった、剥き出しの真実だった。

 感謝の言葉も、許しの儀式も、本当は重要ではなかった。


 誰の記憶にも残らずに消えることが、世界の平和を保つ均衡(バランス)だと信じていた。

 けれど、そんなものは、ただの冷たい標本に過ぎない。


 こうして、互いの弱さに触れ、不器用な愛情をぶつけ合い、涙で顔を汚して抱き合う。

 痛みという名の重力を共有しながら、決して手を離さない。

 この「生きた温もり」こそが、私がずっと拒絶し、焦がれ続けたものだった。


 母は、私の言葉を、全身で受け止めるように息を呑んだ。

 彼女の瞳に宿っていた、自分を責めるような暗い色が、ゆっくりと凪いでいく。


 十五年間、ずっと言葉の檻に閉じ込めていた言葉。

 あの日、鋼の笑顔で撥ね返された言葉。


「……もう、無理しなくていいのよ」


 その声は、かつての春の日のように弱々しくなかった。

 私という存在のすべてを包み込み、肯定する。

 母親という、絶対的な聖域としての響き。


 もう、誰かを守るために悪役を演じなくていい。

 もう、一人で暗闇の底を這わなくていい。

 あなたは、ただのセリアとして、ここに在っていい。


 その響きが、心臓の最も深い場所にあった、最後の氷塊を砕いた。


「……はい」


 私は、母の温かい手のひらに頬を寄せた。

 喉の奥で、小さく、けれど確かな安堵が鳴る。


「もう……無理は、しません」


 母は今度こそ、泣き笑いのような、崩れた表情を見せた。

 再び、強く、折れそうなほどに私を抱きしめる。

 エドガーとエレーヌも、私たちにすがりつくようにして、声を上げて泣き始めた。


 部屋の中央。

 四つの影が重なり合い、溶け合う。

 それは、長年バラバラに散らばっていた、ヴァルモンという名の欠片が。

 ようやく、一つの血の通った「家族」という形に組み上がった瞬間だった。


 少し離れた場所。

 父、ゲオルグが立っている。

 充血した灰色の瞳が、隠しきれない湿りを帯びていた。

 当主という重圧から解放され、ただ一人の男として、彼は立ち尽くしている。


「観測者の家系」という、血塗られた呪縛。

 俯瞰し、殺し、記録すること。

 その冷たい歴史が、今、この部屋に流れる涙によって、洗い流されていく。


 私たちは、王家の物語を補完するための「背景」ではない。

 自分たちの感情を刻み込み、自分たちの足跡を残していく、ただの人間になれたのだ。


 過剰な台詞は、もはや静寂を汚すだけでしかない。

 感動を演出する劇的な劇薬も、謝罪の交換も、今の私たちには無重力に等しかった。


 ただ、こうして触れ合っているという物理的な事実。

 互いの拍動を感じ、熱を分かち合っている。

 それだけが、取り戻した絆の、唯一無二の証明だった。


 やがて、母がゆっくりと顔を離した。

 涙に濡れたその顔には、一人の美しい女性としての、誇り高い微笑みが宿っていた。


「……あなたは、本当に、強い女性になったわね。私の知っていた、幼くて不器用なセリアではなく……。自分の痛みを、自分で受け止めることができる、気高い人に」


 私は、首を振った。


「強くなんてありません。……ただ、教えてもらったのです。私は、ここにいてもいいのだと」


 私は、そっと視線を横へ滑らせた。


 光の届かない、謁見室の暗がり。

 漆黒の外套に身を包んだ、一本の剣のような青年。

 レオン・ノワールクール。


 彼は、一切の干渉を断ち切り、ただの沈黙としてそこにいた。

 けれど、彼がそこに在るだけで、この空間の密度は決定的に変質している。

 彼という絶対的な引力が、私の逃げ場を塞ぎ、前を向かせてくれた。


 あの日、雪の庭園で、彼は私の嘘を剥ぎ取った。

 『気味の悪い仮面を被るな』と。

 その乱暴な拒絶こそが、私にとっての、初めての救済だったのだ。


 彼の存在がなければ、私は今も、冷たい鏡の向こう側で自分を殺し続けていただろう。

 彼は私を「発見」し、無理やり、この熱を帯びた世界に引きずり戻した。


 視線に気づいたレオンが、無表情のまま、微かに、本当に微かに顎を引いた。

 『早くしろ』とでも言いたげな、不遜で、けれど揺るぎない庇護の意志。


 その不器用な佇まいに、胸の奥が小さく跳ねた。

 彼は、私が再びこの王宮という檻に絡め取られることを、密かに案じている。

 その独占欲にも似た静かな熱が、今の私には心地よかった。


「……母様」


 私は、母の手を握りしめた。

 その手は、冷え切っていたはずの私の指先を、熱く染め上げている。


「私は、この王都には戻りません。ヴァルモン公爵家の名も、その義務も、すべてここに置いていきます」


「セリア……」


「私の帰るべき場所は、もうここにはないのです。……私は、あの方と共に。あの方が見る景色の中で、ただの薬師として、一人の人間として、生きていきたい」


 レオンを一瞥し、はっきりと告げる。

 母は一瞬、驚いたように目を見開き、次いで、霧が晴れるような安堵の表情を見せた。


「……そうね。あの方なら、きっと。私たちが与えられなかった分まで、あなたを……愛してくださるわ」


 母は、私の背をそっと押し出した。

 エドガーとエレーヌも、涙を拭い、私を仰ぎ見る。


「姉上。……絶対に、幸せになってください。僕、いつかノワールクール領まで、あなたを追いかけていきますから」


「お姉ちゃん、忘れないでね! 絶対に会いに行くから!」


「ええ。待っているわ」


 家族一人一人の顔を、瞳の奥に刻みつける。

 最後にもう一度、私は深いカーテシーを披露した。


 それは、別れを告げるための冷徹な儀式ではない。

 過去という鎖を断ち切り、新しい人生へと踏み出すための、誇り高い決別。


「……今まで、ありがとうございました。父様、母様、エドガー、エレーヌ」


 私は顔を上げ、眩しい光が差し込む窓辺へと、レオンの待つ影へと歩き出した。


 背中にかかっていた、見えない重圧は、もうどこにもない。

 誰の記憶にも残らない「透明な記録者」としての私は、この温かい涙の中で、美しく息絶えたのだ。


 扉の向こう側。

 底知れない暗闇と、それ以上に眩しい未来が待っている。

 私は、迷わずその一歩を、踏み出した。

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