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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第61話 「お前は、俺の誇りだ」――観測者の呪縛を溶かす父の涙

 その声は、ひどく掠れていた。


 長年、鉄の規律と合理性だけで城壁を築いてきた父、ゲオルグ・ヴァルモンの喉から、絞り出されるように漏れた音。


「お前は、俺の誇りだ。お前がどこでどう生きようと……お前は、俺の大切な娘だ」


 鼓膜を震わせたその振動が、私の身体の内側へと沈殿していく。

 三十三年(さきの じんせい)と、この十五年を合わせた四十八年という歳月。

 私の魂が、凍土の下でずっと待ち続けていた絶対的(たった ひとつ)の肯定だった。


 父の、冬の海を思わせる灰色の瞳から、一筋の雫が零れ落ちる。

 それは乾いた床に、小さな、けれど決定的な染みを作った。


 代々の観測者という血筋。

 世界の構図(フレーム)から外れることを許されず、ただ記録し続けることを宿命づけられた呪縛が。

 父の涙という温かな毒によって、音を立てて溶けていくのがわかった。


 私は、父の大きな手を包み込む。

 そこには無数の小皺と、かつて剣を握っていたであろう硬い掌の感触があった。

 微かに震えるその体温が、私の掌を通じて、冷え切っていた芯部へと伝わっていく。


 唇の両端が、自然と上を向いた。

 鏡の前で何千回、何万回と練習した、あの完璧な微笑ではない。

 ただ、肺から余分な空気が抜けていくような、頼りなく、無防備な笑顔だった。


 父は、私のその顔を数秒だけ、食い入るように見つめた。

 やがて彼は、憑き物が落ちたように深く息を吐き、私と繋いでいた手を名残惜しそうに離す。


 父が顔を向けたのは、謁見室の重厚な扉だ。

 厚みのあるオーク材で作られたその門扉は、外からの光を一切遮断し、沈黙を守り続けていた。


「……入りなさい」


 父の、湿り気を帯びた低い声が、静寂に波紋を広げる。

 ギィ、と。

 蝶番が不器用に鳴り、冷たい空気が室内に流れ込んできた。


 開かれた視界の先に、二つの小さな影が立っていた。


 十四歳のエドガー。そして十歳のエレーヌ。

 私と同じ、月の光を織り込んだような銀色の髪。

 紫水晶の瞳が、薄暗い部屋の中で不安げに揺れている。


 彼らの姿を認めた瞬間、私の視界が、不快な熱とともに明滅した。

 脳裏に焼き付いたままの、かつての私の断片。

 私が彼らに向けて放った、研ぎ澄まされた刃のような言葉の数々。


『お姉ちゃん、これ、あげる!』


 まだ幼いエドガーが、泥だらけの手で差し出してきた小さな白い野花。

 それを一瞥し、無慈悲に踏みにじった私の靴の感触。


『そのような無駄な時間(ゴミ)を使うとお思い?』


 あの時、彼の瞳から光が消えた瞬間を、私は一度として忘れたことはなかった。

 彼らの枕元に、誰にも知られないよう、木彫りの犬やリボンを置いた夜。

 翌朝、彼らの歓喜の声を、冷たい冷笑で切り捨てた。


『汚らしい木屑、捨てなさい』


 ゴミ箱に放り込まれた贈り物を、見つめることさえしなかった。

 私を憎ませ、私を遠ざける。

 それが、断罪の日に彼らを破滅に引き込まないための、唯一の救いだと信じていたから。


 自分の心臓を、内側からやすりで削るような日々。

 彼らにとって、私は「冷酷で高慢な悪役令嬢(しあわせの にえ)」でなければならなかった。

 それこそが、私の描いた完璧な構図(アングル)だった。


 エドガーが、一歩、また一歩と、私の方へ歩み寄ってくる。

 かつてのひ弱さは消え、その肩にはヴァルモン家の次期当主(つぎの かんそくしゃ)としての重圧が、目に見える重みとして乗っていた。


 彼は私の数歩手前で、まるで目に見えない壁があるかのように、ぴたりと立ち止まった。

 その紫水晶の瞳には、かつての怯えは、どこにもない。


「姉上……」


 掠れた声。

 それは、喉を痛めるほどの悔恨を飲み込み続けてきた者の音だった。


 エドガーは、両手を体の横で固く握りしめている。

 指の関節が白く浮き上がり、彼の全力が、そこにある「理性」を繋ぎ止めているのがわかった。

 私との距離を保とうとするその姿勢。

 それは彼が、私の歩んできた孤独に、最大限の敬意を払おうとしている証だった。


「王宮での……閣下が提示された記録を。使用人たちの、言葉を、聞きました」


 エドガーの視線が、私の足元に落ちる。

「姉上が、僕たちを、あの日、守ってくれていたこと……全部、知りました」


 ポタリと。

 重力に従い、彼の中から溢れ出したものが大理石の床を叩いた。

 それは小さな波紋となり、静まり返った部屋に、彼の自責を伝播させていく。


「僕たちのために、あんな……一人で、あんな役回りを。僕は……何も、知らずに」


 エドガーの声が、途切れる。

「姉上を、ずっと、恨んでいました。冷たい、血の通わない人だと、そう信じて……っ」


 彼は深く、折れ曲がるように頭を下げた。

 その細い背中が、耐えきれない感情に激しく波打っている。


「本当に……申し訳ありませんでした……! 僕が、僕がもっと、姉上の掌にある温かさに気づいていれば……あんな風に、一人で、追い出したりはしなかったのに……っ!」


 絞り出されるような懺悔。

 その響きが、私の心臓を、鋭い針で何度も突き刺す。


 私は、彼に憎まれることこそが、彼の未来を無傷で守る盾になると信じていた。

 けれど。

 私のその傲慢な自己犠牲(ゆがんだ あい)は、彼に「愛する人を見捨てた」という、拭い去れない罪悪感を植え付けてしまったのだ。


「お姉ちゃん……っ!」


 耐えきれなくなったエレーヌが、兄の横から飛び出した。

 十歳の少女は、建前も、貴族としての矜持も、すべてを放り出して駆け寄ってくる。


 群青色のドレス。

 その腰のあたりに、彼女の小さな掌が、力任せに縋り付いた。


「ごめんなさい……ごめんなさい、お姉ちゃん……っ! ずっと、怖い人だと思ってて、ごめんなさい!」


 エレーヌは、私の服に顔を埋め、子供らしい剥き出しの悲鳴を上げた。

「夜中の、あの木彫りのわんちゃん……お姉ちゃんだったなんて、エレーヌ、全然……っ」


 彼女の嗚咽が、私の身体を激しく揺らす。

 ドレスの布地を透かして、彼女の涙の、ひどく熱い温度が肌に染み込んできた。


 私は、宙で彷徨わせていた両手を、下ろすことができない。

 指先が、石のように固まって動かなかった。


 前世の記憶。

 野戦病院の、消毒液の臭いが充満する冷たいベッド。

 誰の視線も届かない場所で、一人で消えていった孤独な終焉。


 今世の記憶。

 誰の記憶にも残らない「透明な記録者(ただの ぼうかんしゃ)」として、世界のフレームの外側へ消えると誓った日々。


 私にとって、他者の温もりに触れることは。

 私が築き上げてきた、静かで孤独な聖域を、根底から崩壊させる最も恐ろしい暴力だった。


 彼らを抱きしめれば、私は「透明」ではいられなくなる。

 彼らが私を愛すれば愛するほど、私はこの世界という舞台から退場できなくなる。


『私は、愛される資格なんて、ない』


 喉の奥で、氷のような強迫観念が囁く。

『お前は彼らを騙し、傷つけた、醜い偽善者なのだから』


 その時。

 視界の端。

 光の届かない、謁見室の深い影の中に、一つの漆黒が佇んでいた。


 レオン・ノワールクール。

 彼は腕を組み、壁に背を預けたまま、その氷の瞳で私たちを見つめていた。

 その視線には、哀れみも、同情もない。

 ただ、そこに「在る」という事実を、冷徹に肯定する質量だけがあった。


 視線が、交錯する。


 レオンは、無表情のまま、微かに顎を引いた。

 ほんの一瞬の、誰にも悟られないような挙動。


 ――お前は、もう隠さなくていい。

 ――泣きたいなら泣け。俺の前では、その気味の悪い仮面は、もう必要ない。


 かつて、雪の降る庭園で、彼が私に突きつけた言葉が、耳の奥で蘇る。


 そうだ。私は、もう透明ではない。

 彼が。この|暴力的なまでに美しいレオンが。

 私を見つけ出し、私の全ての真実を暴き、この世界に血の通った人間として、強引に繋ぎ止めてしまったのだ。


 私が彼らに愛されたとしても、この世界は壊れない。

 ハッピーエンドは、孤独な自己犠牲の果てにあるものではない。


 私は、ゆっくりと、震える両手を下ろした。


 ドレスに縋り付くエレーヌの、柔らかい背中。

 その温かさを、掌の皮一枚隔てただけの感触として受け止める。

 そして。

 泣き崩れそうになりながら、それでも頭を下げ続けているエドガーの肩に、そっと手を置いた。


「……っ、姉上……」


 エドガーが、顔を上げる。

 その瞳には、私の指先の感触に、救いを見出したような光が宿っていた。


「……もう、いいのよ」


 私の唇から漏れたのは、自分でも驚くほど、不器用で、柔らかな響きだった。


「感謝なんて、求めてはいなかった。あなたたちが無傷で、誰の悪意にも触れず、ただ穏やかに生きてくれれば、それで。私が一人で悪役になれば、世界は完璧な形になると思っていた」


 私は、二人の銀色の髪に、指を滑らせる。

 それは、春の陽光のような、淡い熱を持っていた。


「でも……私のそのやり方が。あなたたちを、こんなにも深く傷つけていたのね。……ごめんなさい、エドガー、エレーヌ」


 私の視界が、不意に、歪んだ。

 熱い塊が、目蓋の裏を押し上げ、頬を伝って流れ落ちる。

 それはエドガーの肩に落ち、彼の服の繊維へと吸い込まれていった。


「これからは、もう二度と、あなたたちを遠ざけたりしないわ。……私は、|あなたたちの姉なのだから《・・ ・・・・・・・・》」


 その一言が、エドガーの中に残っていた最後の防壁を砕いた。


 彼は、次期当主としての理性をかなぐり捨て、幼い子供のように声を上げて泣き崩れた。

 エレーヌとともに、私の身体を、折れんばかりの力で抱きしめる。


「姉上……っ! ああぁっ……!」

「お姉ちゃん……っ、お姉ちゃぁん……!」


 冷たい大理石の床。

 そこに崩れ落ちるようにして、私たちは、ただ互いの存在を確かめ合うように抱き合った。


 十五年間。

 私が必死に押し殺し、否定し、なかったことにしようとした「家族の絆」。

 愛してはいけないと、その資格はないと、固く閉ざしていた互恵の感情ひととしてのしあわせ


 それらが、彼らの流す涙の、あまりにも生々しい温かさによって。

 私の胸の奥深くまで、たっぷりと、容赦なく染み込んでいく。


 誰かを愛し、誰かに愛される。

 それは、これほどまでに呼吸を、楽にするものだったのか。


 私は、泣きじゃくる二人を、腕の中に取り込みながら。

 ぼやけた視界の向こう、影の中から静かにこちらを見つめるレオンに、一度だけ、視線を向けた(・・ ・・・・)


 彼が。

「観測者」だった私を、この物語の「主役」へと引きずり戻した。


 もう、誰もノイズではない。

 私たちは。

 自分たちの人生という、名前のない、けれど替えのきかない物語を。

 この光の射す場所で、ただ、生きていく。


 鼻の奥を突く、彼らの流した涙の鉄のような匂い。

 しがみつく腕の、痛いほどの質量。

 それが、私が今、この世界に存在していることの、何よりの証明だった。

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