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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第59話 対等な協力者

 王宮の裏手に広がる庭園。

 夜の帳が下り、湿った秋の風が、色を失った木々を執拗に揺らしている。


 ざわめく葉音の隙間に、ひどく場違いな、それでいて生々しい肉声が混じっていた。

 冷たい石畳の上に、その少女は投げ出されるようにして両膝をついている。

 豪奢なドレスの裾が泥に汚れ、濡れた石の冷気が体温を奪っていくのも構わずに。


 彼女は、ただ、慟哭していた。


「私……っ、私、何も知らなくて……! ずっと、ずっと……っ」


 ステラ・メルヴィユ。

 この閉ざされた庭園(ハコニワ)において、光を一身に浴びるはずだった少女。

 彼女の吐息は白く、震え、吐き出される言葉の一つひとつが石床に叩きつけられる。


 私は、その震える肩を静かに見下ろしていた。

 かつて私が、彼女をこの世界から追放(パージ)するために吐き捨てた、あの氷のような言葉。

 それらは今、彼女の喉元を焼き、真実という名の鋭利な刃となって彼女自身を切り裂いている。


「セレスティーヌ様が、あんなに……。私が、私が壊していたんです……っ!」


 琥珀色の瞳から溢れ出した雫が、石畳の継ぎ目に吸い込まれていく。

 それは、弱者が庇護を求めて流す甘い涙ではなかった。

 己の純粋さが、無自覚な暴力となって誰かの魂を削り続けていたことへの、絶望だ。


 私は、ゆっくりと一歩を踏み出した。

 靴の踵が石を叩く音が、彼女の嗚咽を僅かに遮る。

 スカートの重みを感じながら、私は彼女の目の前で、音もなく膝を折った。


 視線の高さを合わせる。

 そこには、これまで私を覆っていた、完璧な鋼の笑顔は存在しない。

 皮膚の下で張り詰めていた筋肉が、夜の冷気に解けていくような、奇妙な緩みがあった。


「顔を上げてください、ステラさん」


 私の声は、夜風にさらわれて消えてしまいそうなほど、飾り気がなかった。

 技術で磨き上げたつやも、相手を威圧するための硬度も、すべてが削ぎ落とされている。

 ただの、十七歳の呼吸がそこにあるだけだった。


 ステラは、しゃくりあげながら、恐る恐る顔を上げた。

 涙に濡れた長い睫毛が震え、その奥にある琥珀色が私を捉える。

 彼女は、私の素顔を見た瞬間に、言葉を失ったように微かに口を開いた。


「セレスティーヌ、様……。どう、して……」


「謝るべきは、わたくしの方なのです」


 私は、彼女の小さく震える手を、そっと両手で包み込んだ。

 指先から伝わる彼女の熱は、想像していたよりもずっと高く、そして脆い。

 彼女はビクリと肩を揺らしたが、私の手の温もりを拒むことはなかった。


「わたくしは、あなたを『記号』として扱いました。あなたが傷つくことも、悲しむことも、すべては予定された舞台装置の一部だと、そう自分に言い聞かせていたのです」


 私の指先が、彼女の冷え切った手の甲を、僅かに、確かめるように押さえる。

 心の奥底で澱んでいた、誰にも明かせなかった傲慢さが、言葉となって口をついて出る。


「あなたの純粋さを利用したのは、わたくし自身です。あなたが誰かの善意を信じようとするその心を、わたくしは『無知』という名の舞台衣装に仕立て上げてしまった。……それを、正義だと思い込みながら」


 ステラの瞳から、また一筋、熱い雫がこぼれ、私の手の甲に落ちた。

 それは驚くほど熱く、私の皮膚に残留感を刻みつける。


「そんな……! セレスティーヌ様は、あの時だって! 私が……毒に苦しんでいたあの夜に、誰にも言わずに薬を届けてくださった……! 教科書を直してくれたのも……っ。私、それなのにマルグリットの言葉を……!」


「あなたは、何も悪くありません」


 私は、彼女の言葉を静かに、けれど逃れようのない確かさで遮った。

 その言葉は、彼女を慰めるためのものではなく、私自身をこの世界に繋ぎ止めるための楔だった。


「この社交界という名の戦場において、あなたの優しさは、あまりにも透過率が高すぎただけ。……悪いのは、その光を歪めて見せた、この世界の仕組みの方ですわ」


 その瞬間、私の胸を縛り付けていた、見えない鉄鎖が音を立てて弾け飛んだ。

 前世から引きずってきた、あの透明な幽霊のような感覚。

 誰の人生にも干渉せず、ただの傍観者として消えようとしていた、あの歪な決意。


 それらが、ステラの手の温もりによって、泥のように崩れ去っていく。

 私はもう、物語の外側に立つ観察者ではない。

 今、この冷たい風を、彼女の熱い涙を、皮膚で感じている一人の人間なのだ。


 ステラは、私の手をぎゅっと握り返してきた。

 指先が、白くなるほどの強い力。

 彼女の琥珀色の瞳の奥に、かつての受動的な光ではない、別の火が灯る。


「……いいえ。私は、自分の足で立ちたかった。誰かに守られているだけの、名前のない影にはなりたくなかったんです」


 彼女は、溢れる涙を自分の袖で乱暴に拭った。

 その動作は、淑女の教育を施された者としては、あまりに野卑で、けれど美しかった。


「セレスティーヌ様。私に、償いをさせてください。……いえ、これは私のわがままです。私は、もうあの大広間には戻りたくありません」


「ステラ、さん……?」


「私は、セレスティーヌ様と一緒に、北の地(ノワールクール)へ行きたい。……あなたの力になりたいんです」


 彼女の言葉に、私の視界が僅かに揺れた。

 それは、物語が用意した予定調和(ハッピーエンド)を、彼女自身の手で引き裂く宣言だった。

 王宮という名の温室を捨て、氷の吹き荒れる荒野へと、自ら足を踏み入れようとしている。


「ノワールクールの冬は、王都のそれとは比べ物にならないほど過酷ですわ。凍土を掘り起こし、冷たい水で手を腫らし、泥にまみれて生きることになる……。あなたが知っているような、きらびやかな世界は、そこには一つもありません」


「覚悟の上です」


 ステラの琥珀色の瞳が、夜の闇を射抜くように強く光った。

 そこには、誰かに与えられた役割を演じる者の迷いは、微塵もなかった。


「誰かに用意された、安全な檻の中で泣いているのは、もう終わりにします」


 私は、彼女のその真っ直ぐな意志を見つめ、やがて、小さく、喉の奥で笑った。

 それは、悪役として磨いてきた嘲笑ではなく、腹の底から湧き上がる、抑えきれない共鳴だった。


「……領地に直接来ていただくのは、お断りいたしますわ」


「っ……」


 ステラの肩が、目に見えて落胆に揺れる。

 だが、私は彼女の手を、今度は力強く、ポンと叩いた。


「ノワールクールには、まだ王都のような設備が整っていません。わたくしが病を治すための薬を作るには、この寒冷地では育たない希少な薬草が必要になります。……ですから、ステラさん」


 私は彼女の瞳を、一瞬たりとも逸らさずに見つめた。


「王宮の温室を、あなたに託したいのです。わたくしが北の地で必要とする命の種を、あなたのその魔力で育て、届けてほしい。……わたくしと共に、この国の影を救うために。力を貸してくださいますか?」


 ステラは、ハッと息を呑んだ。

 彼女の顔に、驚きと、それから夜明けのような明るい色が広がっていく。


「それは……。私が、あなたの……隣に立ってもいい、ということですか……?」


「ええ。これは親友としての甘えではなく、一人の技術者としての依頼です。……あなたの力なしでは、わたくしの計画は完成しませんわ」


 それは、過去の恩讐をすべて清算し、互いの距離を保ちながらも、同じ方向を見据える共犯関係の成立だった。

 馴れ合いではない。

 互いの矜持を賭けた、新しい繋がりの始まり。


「はい……! はい、必ず……! 最高のお薬を、あなたの元へ届けますっ!」


 ステラは、今度は嬉し涙をこぼしながら、何度も、何度も頷いた。

 その笑顔は、かつて私が『ヒロイン』として定義していた、作られた美しさではない。

 自らの意志で、自らの罪を背負って生きる決意をした、一人の女性の輝きだった。


 私は彼女の手をそっと離し、ゆっくりと立ち上がった。

 ステラもまた、ふらつきながらも、自らの足でしっかりと地を認めて立ち上がる。

 彼女は私に向かって、貴族の令嬢としての虚飾を捨てた、最も深い、敬意に満ちた一礼をした。


「……任せましたわよ、ステラさん」


「はい。セレスティーヌ様も……どうか、お元気で」


 私は彼女に背を向け、庭園の出口へと歩き出した。

 振り返る必要はない。

 彼女の背中には、もう誰の目にも見えない、強固な芯が通っているのだから。


 数歩歩いたところで、石畳の上に静かに佇んでいる、巨大な影が見えた。


 レオン・ノワールクール。


 彼は、腕を組んだまま、漆黒の外套に身を包み、最初から最後まで無言でそこにいた。

 夜の闇に同化するようなその立ち姿。

 氷のように深く、底知れない青い瞳が、私を射抜くように見つめている。


「……終わったか」


 彼が放つ言葉は、短く、重い。

 それは、私の胸の奥に溜まっていた最後の澱を、一気に押し流すような振動を伴っていた。


「はい。本当に……すべて、終わりましたわ」


 私は、レオンに向かって、心からの呼吸を。

 何の打算も、偽りもない、柔らかな微笑みを浮かべた。

 それは、これまでの人生で私が一度も、誰にも見せたことのない、無防備な顔だった。


 私が笑うと、レオンは一瞬だけ、驚いたように瞳を丸くした。

 そして、すぐにフイッと、不器用に顔を背ける。


「……なら、さっさと帰るぞ。こんな、生温い王都の空気は、俺には合わん」


 ぶっきらぼうに吐き捨て、彼は大股で歩き出す。

 その広い背中に、月光が銀色の縁取りを作っていた。

 私は、お腹の底から込み上げてくる愛しさと、抗いようのない幸福感に、思わずクスクスと声を漏らした。


「ふふっ……ええ。帰りましょう。わたくしたちの、家へ」


 私は、彼の隣へと駆け寄り、その歩調に自分を重ねた。

 王宮の巨大な城壁が、私たちの背後で少しずつ、ただの古い背景へと変わっていく。


 三十三年の前世と、十五年の今世。

 私を縛り付けていた、重く長い呪縛は、もうどこにも存在しない。

 透明な記録者としての私は、あの淀んだ大広間に、死骸として置いてきた。


 これからは、ただの、セレスティーヌとして。

 私の嘘を暴き、私を見つけ出してくれた、この不器用な氷の隣で。

 私は、私の人生を。

 私自身の肉体で、生きていくのだ。


 冷たい秋の夜風は、もう私を凍えさせることはない。

 それは、新しい季節の訪れを告げる、静かな祝福のように。

 私の頬を、優しく撫でて通り過ぎていった。

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