表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

64/75

幕間 愚王子の行脚

 王都の下層街は、私が大理石の王宮から見下ろしていた「哀れな民草」の概念とは、あまりにもかけ離れた酷薄な現実で作られていた。


 石畳の隙間には澱んだ汚水が黒く層を成し、ぬかるんだ土からは饐えたような腐敗臭が立ち上る。

 私は身分を隠すための粗末な外套に身を包み、その路地に立っていた。

 鼻を突く悪臭の中で、私のかつて掲げていた「正義」がいかに無知で浅薄なものだったかを、足元から這い上がるような絶望的感覚とともに実感していた。


 アルベール・ルミエール。

 次代の玉座に座るべき男としての矜持。

 涙を流す弱き者を救い、感情を殺して世界を嘲笑うような「悪」を排除する。

 それこそが王たる者の絶対的な真理だと、私は疑っていなかった。


 だが、その強固な真理は、一人の女の静寂によって無惨に砕け散った。


 セレスティーヌ・ヴァルモン。

 あの時、私の足元を照らしていたのは、常に彼女が泥の中で流していた血だったのだ。

 彼女は、私が投げつけた正義という名の刃を、一本残らずその身に受け止めながら、ただ冷ややかに微笑んでいた。


 私は、貧民街の隅にある寂れた施設を訪れた。

 彼女が「冷酷な悪役」という仮面の裏で、密かに支援し続けていた場所。

 そこには、彼女の沈黙の痕跡が色濃く遺っていた。


 黴臭い部屋の片隅で、私は微かな香りを嗅ぎ取った。

 大地の底から這い出たような、生の力強さを孕む青臭い薬草の匂い。

 ステラが毒痒草に侵された夜、彼女の命を辛うじて繋いだあの手製の薬と、全く同じ匂いだった。


 施設の入り口で寄り添うように座っていた子供たちに、私は聞いた。

「あの薬を置いていったのは……誰だ」

 その声はひどく掠れて、情けないほど震えていた。


 子供たちは互いに顔を見合わせた後、警戒するように答えた。

「知らないよ。夜中に、誰かがこっそり置いていくだけなんだ。……でも、とても優しい匂いのする人だ」


 その言葉が、私の両膝を、石畳の冷たい泥の中へと直接叩き落とそうとした。

 かつて、私が彼女に向けて吐き捨てた「毒婦」という言葉。

 それが今や反転し、鋭い鉄の棘となって私の内臓を抉り出す。

 彼女は自分がどれほど傷つき誤解されようとも、決してその痛みを己の口から叫ぶことはなかったのだ。


 私は、奥の粗末な寝台で、熱に浮かされながらも微かな希望を宿して眠る子供を見つめた。

 これが、彼女が全てを擲ってまで、誰にも知られず守り抜こうとした命の灯火。


 私は震える足に力を込め、立ち上がった。

 彼女から全てを奪ってしまった愚かな男に、今さら何が救えるというのだ。

 だが、ここで打ちひしがれて嘆くことなど、王家に生まれた者としての私が許さなかった。


 私が彼女から玉座への道を奪い、何もかもを焼き尽くしたのだ。

 ならば這いつくばってでも、彼女が遺したこの静かな救済の痕跡を、私が引き継がねばならない。


 それは高潔な贖罪などではない。

 彼女を傷つけた己への罰であり、見当違いな傲慢さの残り香だった。


 どれほどの泥水をすすろうと。

 私は、彼女が一人で守り抜こうとしたこの王国の土台を、今度こそこの手で支え抜いてみせる。

 たとえ彼女が、二度と私の方を振り向くことがないとしても。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ