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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第58話 贖罪の道、去りゆく魂の影

 乾いた秋の夜風が、王宮の庭園を這うように吹き抜けていく。


 石畳の上を転がる枯葉の音は、まるで剥がれ落ちた皮膚が擦れ合うような、微かな、けれど執拗な残響を伴っていた。

 アルベール・ルミエールは、その場に縫い付けられたように立ち尽くしている。


 視線の先には、夜の帳へと静かに溶けていく二人の背中。

 銀灰色の髪を月光に濡らした、絶対零度の沈黙を纏う男。

 そして、その傍らで群青色のドレスを夜風に揺らす、かつての婚約者。


 彼女――セレスティーヌ・ヴァルモンが去った後の空間には、説明のつかない空白が居座っていた。

 それは単なる不在ではない。

 そこにあったはずの熱量が、根こそぎ奪い去られた後に残る、真空の重圧だ。


 肺の奥に、吸い込んだ冷気が鋭く刺さる。

 彼女の拒絶は、礫のような硬さを持ってアルベールの胸を叩いた。


『ですが、殿下。……結構です』


 耳の奥で、その声が何度も沈殿していく。

 それは、長年かけて積み上げられた不純物のない氷が砕けるような響きだった。

 怒りも、恨みも、ましてや情すらも含まれていない、透明な終止符。


 彼女は、アルベールという存在を憎むことすら、自らの人生にとって「余分な質量」であると判断したのだ。

 そう気づいた瞬間、アルベールの指先からじわじわと体温が奪われていく。


『これからの人生は、誰かのためでも、誰かの罪悪感を埋めるためでもなく……私自身の意志で歩きたいのです』

『その足跡に、王家からの「償い」という余計な意味を持たせたくはないのです』


 彼女の言葉は、アルベールが必死に握りしめていた「救済」という名の独りよがりを、無慈悲に暴き出した。

 償いたい、という願い。

 それは彼女のためではなく、ただ自分の胸を苛む泥濘から逃れたいという、醜い自己愛の裏返しではなかったか。


「……っ」


 喉の奥が、熱い塊を押し戻そうとして痙攣する。

 アルベールは顔を覆った。

 手のひらに触れる自分の肌が、他人の死体のように冷たい。


 膝から崩れ落ちる瞬間、石畳が膝を打つ鈍い衝撃が、ようやく彼に「自分という肉体」の存在を思い出させた。

 次期国王としての誇り、磨き抜かれた身のこなし、それらすべてが、夜風に散る枯葉よりも軽いものに思えた。


 彼は、自分の中に築き上げた絶対的な牢獄に閉じこもっていたのだ。

 幼い頃から、王位という名の「正しさ」を、唯一の呼吸法として教え込まれてきた。

 間違えてはならない。常に高潔であれ。


 その重圧から逃れるために、彼は世界を単純な二元論に整理した。

 涙を流す者は救うべき「善」であり、感情を殺して微笑む者は排除すべき「悪」であると。

 ステラ・メルヴィユの涙は、彼にとって、自分が「正しい」と信じ込めるための、安価な触媒に過ぎなかったのだ。


 だが、真実は。

 真実という名の岩塊は、今、彼の背骨を粉々に砕こうとしている。


 記憶の断片が、濁流となって押し寄せる。

 学園の裏庭、血の匂いが混じった土の感触。

 無残に破れた服と、擦りむいた膝の痛み。


 誰にも見つからぬよう、闇に紛れて置かれていた、清潔な白布と薬瓶。

 それを置いていった主の、かすかな沈丁花の残り香。

 当時の彼は、それを「神の慈悲」だと、あるいは自分の「運」の良さだと結論づけた。


 だが、違った。

 あの時、自分の足元を照らしていたのは、常にセレスティーヌの、血を流しながらの沈黙だったのだ。

 彼女は、アルベールが投げつけた罵声を、そのまま自分の内壁に刻み込みながら、微笑んでいた。


 あの完璧な微笑は、傲慢さの証明などではない。

 彼女が、内側に溢れそうになる悲鳴を押し留めるための、防波堤だったのだ。

 それを、この手で、もっとも残酷な形で破壊した。


「なぜ、気づいて、やれなかった……っ! 」


 石畳に拳を叩きつける。

 鈍い音が庭園に響き、肉の裂ける感触が伝わってくる。

 だが、その痛みさえ、彼女が背負い続けてきた歳月の重みに比べれば、羽毛ほどの質量も持たない。


 脳裏に、セレスティーヌを連れ去った男の姿が焼き付いている。

 レオン・ノワールクール。

 あの、深海よりも底知れない、冷徹な青い双眸。


 彼は一度も言葉を発しなかった。

 ただ、そこに「在る」だけで、アルベールという存在の空虚を、克明に照らし出していた。

 彼の沈黙は、鋭い針となってアルベールの肌を突き刺す。


『お前には、触れることすら許されないものだ』


 声なき断罪。

 レオンだけが、彼女の笑顔の下にある腐りかけた孤独を見つけ出した。

 そして、その孤独ごと、彼女を抱え上げた。


 アルベールが手放したのは、単なる婚約者という駒ではない。

 自分の不完全な魂を、影から支え続けてくれた、世界で唯一の依代だった。

 一度失われた質量は、二度と、この胸に戻ることはない。


「……あぁぁっ……! 」


 嗚咽が、喉を焼く。

 自分が信じていた「正義(エゴ)」が、実は最も愛すべき人間を、生きたまま埋葬するためのシャベルであったという事実。

 その滑稽さに、彼は吐き気を覚えた。


 ステラを守るという大義名分。

 それは、複雑な現実から目を背け、自分の「物語」を完結させるための逃避行に過ぎなかったのだ。

 すべての責任は、他ならぬ自分にある。


 どれほどの時間が過ぎたのか。

 夜風に体温を奪われ、全身が硬直した頃。

 アルベールは、ゆっくりと、折れそうな体を支えて顔を上げた。


 涙に濡れた翡翠色の瞳には、もう、すがるような光は残っていない。

 代わりに宿ったのは、一生かけて背負い続けるという、暗い、静かな決意。


「……俺は、呪われる」


 夜の闇に向かって、呪文のように呟く。

 彼女は支援を拒んだ。彼女の人生から、アルベールの痕跡はすべて抹消された。

 それは、彼に関わることそのものが、彼女にとっての「汚れ」でしかないという宣告だ。


 ならば、俺にできることは。

 彼女が自分の身を削ってまで守ろうとした、このルミエール王国を。

 彼女が密かに繋ぎ止めていた、この崩れかけの日常を。

 今度こそ、その醜い手で、正しく支え抜くこと。


 それは救済ではない。

 終身刑という名の、終わりのない労働だ。


「お前には届かなくとも……俺は、俺を許さない。……それが、唯一の繋がりだ」


 アルベールは立ち上がり、重い足取りで歩き出した。

 背後に残された石畳には、彼が流した血と涙が、どす黒い染みとなって刻まれていた。

 彼の歩む道には、もう二度と、あの沈丁花の香りが漂うことはない。


 ***


 王宮の敷地を抜け、待機していた公爵家の馬車へと向かう。

 私は、秋の冷たく、そしてひどく尖った空気を、深く肺に溜め込んだ。


「……はあ」


 吐き出した息が、月明かりを透かして白く濁る。

 それは、長年私の胸に溜まっていた、古い煤が抜け出していくような感覚だった。

 身体が、驚くほどに軽い。


 隣を歩くレオンが、その気配を察したように、視線の角度を私へと向けた。


「……少しは、血が通った顔になったな」

「……ええ。ようやく、重力というものを思い出した気分ですわ」


 私は、仮面ではない、ただの皮膚としての微笑みを浮かべた。

 アルベール殿下への決別。

 それは、私を縛り続けていた、前世からの呪縛という名の鎖を、自ら断ち切る儀式だった。


「彼も……これで、少しは重みを知ってくれると良いのですけれど」

「奴のことは、奴の業に任せればいい」


 レオンは吐き捨てるように言い、私の肩に重厚な外套を掛けた。

 ずっしりとした布の重みが、心地よい。


「お前がもう、あんな空洞のような男に心を割く必要はない。……これからは、自分の重さだけを感じて生きればいい」


「ふふっ。レオン様は、本当に、無慈悲でいらっしゃいますのね」

「事実を口にしただけだ」


 レオンは不機嫌そうに視線を逸らしたが、その耳たぶが微かに赤い。

 彼なりの、あまりに不器用な肯定。

 私の指先を包み込む彼の掌の、驚くほどの熱が、私がここに「在る」ことを証明してくれている。


「……ありがとうございます。私、今、とても――」


 その言葉が、完結するよりも早く。


「お待ちください……っ! セレスティーヌ様! 」


 背後の闇を切り裂いて、悲鳴に近い叫びが届いた。

 私は、足元の影が揺れるのを感じて、足を止めた。


 王宮の門、冷たい鉄格子の向こう側。

 そこから、ドレスの裾を泥で汚し、必死にこちらへ駆けてくる少女の姿。

 蜂蜜色の髪が、夜風に無惨にかき乱されている。


「ステラ、さん……」


 心臓が、一度だけ鈍く脈打った。


 ステラ・メルヴィユ。

 私が「ヒロイン」という役職に閉じ込め、遠ざけ続け、冷たい言葉で去勢し続けた少女。

 彼女は門の前で、膝を突き、激しく喘いでいた。


 彼女の琥珀色の瞳は、涙でぐちゃぐちゃに濡れている。

 だが、そこにあるのは、かつての怯えではない。

 自分の無知という大罪を突きつけられた者の、焼けるような痛みだった。


「セレスティーヌ様……っ! 」


 ステラは、地面に額を擦り付けるようにして、慟哭した。


「私……っ、私、何も見ようとしていなかった……! セレスティーヌ様が、どれほどの重荷を、独りで……っ! 」


 彼女の声は、冷たい空気に触れて、鋭利な刃となって霧散する。


 マルグリットの用意した、甘い毒のような言葉に依存していた彼女。

 自分の「弱さ」が、他者を絞殺するための紐になるなどとは、夢にも思わなかったのだろう。


 けれど、彼女は、ただの傀儡では終わらなかった。

 自分の内に生じた汚濁を直視し、自らの足で、真実という名の茨の道を歩いてきたのだ。


「私という、救いようのない無知が……どれほど、あなたを……! ごめんなさい、ごめんなさい……っ! 」


 地面を叩く、彼女の白い拳。

 その音が、静寂な夜に、赦しのない罰のように響き続ける。


 私は、彼女を見つめていた。

 彼女もまた、私の「完璧な自己犠牲」という傲慢が作り出した、被害者の一人だった。

 私が真実を隠し、彼女を「守られるべき弱者」という箱に押し込めたからこそ、彼女は無自覚な加害者へと堕ちてしまったのだ。


 私は、深く、肺の底まで空気を吸い込んだ。


 隣に立つレオンの、静かな重圧を感じる。

 彼は何も言わない。

 ただ、私が「私」として、この落とし前をつけるのを、黙って許容してくれている。


 私は、ゆっくりと、一歩を踏み出した。

 鉄格子の向こうで、絶望の重みに震える少女の方へと。


 もう、微笑む必要はない。

 冷たい拒絶も、偽りの慈悲も、ここには置かない。


 私は、ただの一人の人間として。

 彼女の前に、私の影を落とすために。

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