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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第57話 「結構です」と告げる夜

 湿った秋の夜が、剥製はくせいのような静寂を連れてくる。


 王宮の庭園。

 刈り込まれた植栽の影が、地面にどろりと墨を流したように伸びていた。

 風が吹くたび、枯死を待つ葉たちがカサカサと乾いた悲鳴を上げ、私の頬を冷たく撫でて通り過ぎる。


 目の前で、一つの重塊が崩れ落ちた。


 アルベール殿下。

 王位を継ぐべきその両膝が、湿った砂利を無慈悲に砕く音が響く。

 ぜいを尽くした上着が土に汚れ、彼の震えを隠すことさえ放棄していた。


「……ノワールクール領への支援でも、何でもする。国庫からでも、俺の私財からでも」


 彼の喉の奥で、何かが軋む音がした。

 それは言葉というよりも、行き場を失った体液が無理やり押し出されてくるような、湿った響き。


「お前の生活が、少しでも……報われるように。この先一生をかけて、償いをさせてくれ。これ以上の……っ、これ以上の道はないかもしれないが、それでも……!」


 その声は、私の足元に絡みつく影のように重く、粘りついていた。

 かつての彼なら、その端正な輪郭を「義務」という硬い甲冑かっちゅうで塗り固めていたはずだ。


 だが、今の彼にその鎧はない。

 ひび割れた仮面の隙間から、制御を失った生身の感情が、泥流となって溢れ出している。

 それは、正義という名の剣を自らの胸に突き立てた男の、断末魔だった。


 私は、肺の奥に溜まった冷たい残滓を、ゆっくりと吐き出した。


 口角を吊り上げる、あの皮膜のような笑顔は、もう必要ない。

 皮膚の下で強張っていた筋肉を、一枚ずつ剥がしていくように緩める。

 私はただ、夜の闇と同じ温度の空気を吸い込み、少しだけ眉を下げた。


「……殿下」


 私の唇からこぼれた音に、彼は弾かれたように顔を上げた。

 翡翠の双眸が、涙の膜越しに私を捉える。

 その視線は、溺れる者が水面に伸ばす、指先の切実さに似ていた。


「お申し出は、感謝いたします。殿下が、心から謝罪し、償おうとしてくださっていること……。その熱量は、確かに受け取りました」


 私は、指先に残っていた「令嬢」という名の残響を振り払う。

 喉を締め付けていた堅苦しい言葉の鎖を解き、剥き出しの声を、夜の風に乗せた。


「ですが。……結構です」


 その五文字が、冷たい石のように空間に落ちた。


「……え?」


 アルベール殿下の思考が、物理的に停止したのがわかった。

 見開かれた瞳の中で、すがりついていた希望の火が、ふっと吹き消される。


「結構です。私には、あなたのその差し金は必要ありません」


「な、なぜだ……ッ!? 俺が憎いからか? 当然だ、俺はお前を……っ、不当に断罪し、この手で追い出した! 俺の金など、触れたくもないのは当たり前だ。だが、せめてお前の……」


「いいえ。違いますわ」


 私は、首を横に振った。

 首筋に、夜風が冷たい線を描いていく。


「あなたを憎んでいるからでは、ありません。大広間でも申し上げましたが、私は復讐などという、重い荷物を背負うつもりはないのです」


 殿下は、呆然と口を開けたまま、私の影を見つめていた。


「……ただ、これからの私の歩みに。あなたのその『負い目』という名の楔を打ち込むことを、私自身が拒絶しているだけです」


 私は、自分の両手を、胸のあたりでそっと重ねた。

 そこには、かつての私が必死に押し殺していた、小さな鼓動が確かにある。


「私は今まで、誰かの物語の背景に徹してきました。美しい構図を壊さないよう、ただ透明な空気として、そこに居る。自分がどう在りたいかではなく、どう在れば誰も傷つかずに済むか。それだけを、呼吸の理由にしてきました」


 私の指先が、微かに震える。

 それは恐怖ではなく、何かが産声を上げる時の震えだった。


「ですが、それは……欺瞞でした。誰かのために自分を殺すことは、誰のためにもならないのだと、ようやく気づいたのです」


 夜の闇が、少しずつ密度を増していく。


「私はもう、透明であることをやめます。これからの人生は、誰かの罪悪感を埋めるための補填材でも、誰かの物語を彩るための絵具でもありません。私自身の意志で、この大地を踏みしめていきたいのです」


「…………」


「私が作った薬で、誰かの呼吸が楽になること。私が自分の足で立ち、自分の人生を刻むこと。その足跡に、王家からの『償い』という余計な色を付けたくはないのです」


 アルベール殿下の目から、大粒の雫が再び零れ、砂利を濡らした。

 彼は、私の言葉の芯に触れてしまったのだろう。


 私が拒んだのは、金でも地位でもない。

 彼という過去との、決定的な絶縁だ。

 もう二度と、私の視界の中に、彼の存在が意味を持つことはない。


 どれほど彼が悔恨に身を焼き、どれほど私に手を伸ばそうとも。

 その手は、今の私の実体に触れることさえ叶わないのだ。


「……俺は」


 殿下の声が、ひび割れた土のように震えた。


「俺は……なんて愚かだったんだ。お前という人間の……その、誇り高さを。何一つ見ようとせずに、俺は……ッ!」


 彼は両手で顔を覆い、子供のように肩を震わせた。

 自分が「正義」だと信じて振り下ろした刃が。

 私という個だけではなく、彼自身が守るべきだった未来をも、完膚なきまでに断ち切ってしまったのだ。


 取り返しのつかない、喪失。

 その重みが、今、彼の細い背中に圧しかかっている。


 私は、そんな彼をただ、高い場所から見下ろしていた。

 哀れみはあった。だが、その背を撫でるための指は、私にはもう備わっていない。


 私は、ゆっくりと視線を動かし、背後に立つ影を見た。


 漆黒の外套が、夜の闇に同化している。

 月光を吸い込んで鈍く光る、銀灰色の髪。

 そして、全てを射抜くような、絶対的な沈黙を湛えた青い瞳。


 レオン・ノワールクール。


 彼は、この凄惨な決別の場に、一切の感情を混入させずに立っていた。

 ただ、そこに在るだけで、私の背後を埋める圧倒的な質量。

 私が何を言い、何を選ぼうとも。

 彼は決して私をジャッジしない。


 私が私として呼吸することを、ただ、当然の権利として認めてくれている。


 私は、レオンの瞳を見つめたまま、殿下に向けて最後の言葉を置いた。


「……殿下。私は、ずっと孤独でした。誰の記憶にも残らず、誰の心も動かさずに消えることが、私の天命なのだと信じ込んでいました」


 殿下が、ハッとして顔を上げた。


「私の笑顔がただの石膏細工だと、私が本当は一人で悲鳴を上げているのだと。……誰も気づいてくれないと、思っていました」


 私は、レオンから視線を外さなかった。

 そこには、一片の嘘も混じっていない、生の微笑みがあった。


「でも。……初めて、見つけてもらえたのです」


 私の完璧な仮面の裏側に、触れてくれた人。

 私が誰にも言えずに抱え込んでいた、血を吐くような沈黙を。

 誰よりも正確に、掬い取ってくれた人。


「……彼がいたから、私は今、こうして自分の言葉を、あなたの胸に突き立てることができているのです」


 アルベール殿下は、私の視線を追うように、レオンを見た。


 レオンは無表情のまま、殿下を冷ややかに見下ろしていた。

 その瞳には、次代の王に対する敬意も、同情も、一滴も含まれていない。

 ただ、「俺の領域に居るこの女に、二度と触れるな」という、静謐せいひつな拒絶だけが宿っていた。


 殿下は、二人の間に流れる、部外者の侵入を許さない気流を悟ったのだろう。

 力なく、その場にへたり込んだ。


『お前が、自らの手で捨てたものだ』


 レオンが発する、声なき断罪が、殿下の胸を無残に抉る。

 彼が「冷酷」だと断じ、追い払った少女は、実は世界で最も高い純度を持って生きていた。

 そして今、その魂は、彼の全く手の届かない場所で、別の男の隣で、穏やかな輪郭を描いている。


 手放したものの価値を、失った後に知る。

 その代償の大きさが、アルベールの心を完全に粉砕した。


「……わかった」


 長い、石が沈殿していくような沈黙の後。

 殿下は顔を覆っていた手を下ろし、赤く腫れた瞳で私を見上げた。

 その瞳から、先ほどまでの幼児的な弱さは消えていた。


 代わりに、一生消えることのない焼印のような後悔が、その奥底に宿っていた。


「お前の言う通りだ。俺の支援など……俺の、醜い自己満足に過ぎない。お前が俺の手を必要としないことは……その、拒絶の冷たさで、よくわかった」


 彼は、ゆっくりと立ち上がった。

 膝についた泥を払うことも忘れ、王子の威厳など、もうどこにも残っていない。

 だが、彼は私から目を逸らさなかった。


「……だが、俺は生きる。お前の人生を二度と汚さない。二度と、邪魔もしない」


 それは、私への謝罪ではない。

 彼が、自らが犯した取り返しのつかない裂傷を背負い。

 これからの人生を「王」として歩んでいくための、血を吐くような誓いだった。


「俺が俺自身の罪を忘れないために……。俺は俺のやり方で、この国の傷を癒やし、領地の支援を続ける。お前には届かなくとも……俺は、償い続ける。……俺自身のために」


 私は、その決意を、静かに受け止めた。

 彼もまた、私の自己犠牲という名の暴力の被害者だったのかもしれない。

 私が全てを偽り、彼に私を憎むように誘導したからこそ、彼は間違えたのだ。


 だからこそ、彼が自分の足で立ち上がり、その業を背負って生きようとするなら。

 私はそれを否定する言葉を、持たない。


「……殿下が、素晴らしい治世を築かれることを、遠い空の下からお祈りしております」


 私は、今日一番の、そしておそらく人生で最後となるであろう、深く優雅なカーテシーを披露した。

 それは、「悪役令嬢」としての冷たい挨拶ではない。

 一人の人間として、彼という過去の象徴への、完全な引導だった。


 アルベール殿下は、何も言わずに深く頭を下げた。

 そして、きびす()を返し、重い足取りで王宮の回廊の方へと歩き去っていった。

 彼の背中が、夜のとばりに完全に呑み込まれるまで、私はただ静かにそれを見送っていた。


「……終わったか」


 不意に、すぐ隣からレオンの低く、地熱のような声が降ってきた。

 顔を上げると、彼は漆黒の外套を微かに翻し、私を見下ろしていた。


「はい。……終わりましたわ」


 私は、大きく一つ、肺の底から息を吐き出した。

 溜まっていた重く濁った空気が全て抜け、代わりに、新しく冷たい、けれど澄み切った秋の夜気が、私の胸を満たしていく。


「お前は、本当に頑固で……不器用な女だ」


 レオンは小さく鼻を鳴らし、呆れたように言った。

 だが、その声の端には、微かな熱が混じっている。


「王家の財力を引き出せば、領地の運営などいくらでも楽になっただろうに。わざわざ自分から、茨の道を選び取るとはな」


「あら。公爵様は、わたくしが殿下の支援を受けることをお望みでしたの?」


 私が少しだけ悪戯っぽく問い返すと、レオンは一瞬だけ言葉に詰まり、フイッと顔を背けた。


「……馬鹿を言うな。俺の領地の薬師が、他所の金で飼育されるなど、不快極まりない」


 言い捨てる彼の横顔。

 その耳たぶが、月光のせいで少しだけ赤く見えた気がした。


「ふふっ……」


 自然と、声を出して笑ってしまった。

 三十三年の前世と、十五年の今世。

 こんなに心が軽く、重力が心地よいと感じたのは、初めてだった。


 私はもう、透明な記録者ではない。

 彼という絶対的な質量が隣にいてくれる、この場所。

 それが、今の私の、確かな輪郭なのだ。


「参りましょう、レオン様。……私たちの領地へ」


 私がそう言って微笑みかけると、レオンは微かに目を見開き。

 そして、静かに、だが力強く頷いた。


「ああ。帰るぞ、セレスティーヌ」


 私たちは、並んで歩き出した。

 王宮の冷たい石畳を、確信を持って蹴る。

 私たちが帰るべき、あの凍てつくような、けれどどこよりも生の温度が高い、辺境の地へと。


 私の後ろに続く足跡には。

 もう過去の未練も、誰かのための嘘も、何一つ残ってはいなかった。

 ただ、月光に照らされた二人の影が、長く、深く、大地に刻まれているだけだった。

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