第56話 笑顔は嘘で、涙は真実。その確証バイアスの果てに
王宮の大広間は、巨大な墓標の内部に似ていた。
天井から吊り下げられた壮麗なシャンデリア。その数千の水晶が放つ光は、今はただ、逃げ場を失った者たちの罪悪を白日の下に晒すだけの、無機質な暴力と化している。
石造りの床は、人の体温を吸い尽くすほどに冷たい。
先ほどまでこの空間を埋め尽くしていたはずの、数百人の貴族たちの熱狂は、跡形もなく消え失せていた。
近衛騎士の硬い甲冑が擦れる音。
引きずられていくマルグリット・セルヴァンの、爪が石床を掻くような、耳障りな音。
それらが遠のいた後、広間に残ったのは、粘り気のある、重苦しい沈黙だけだった。
誰も、呼吸の仕方を忘れたかのように立ち尽くしている。
自らの言葉という礫で、一人の少女を、この世の果てまで追い詰めようとしていた事実。
その重さが、今さらになって彼らの肩に食い込んでいた。
その中央。
第一王子アルベール・ルミエールは、幽霊のように、ただそこにいた。
彼は自分の両手を見つめていた。
白く、震え、どこまでも空虚な、その掌を。
指先には、まだあの感触が残っている。
数週間前、この同じ場所で、セレスティーヌに向けて断罪の指を突きつけた時の、あの万能感にも似た、歪んだ昂揚の残滓が。
「俺は……」
喉の奥から、乾いた砂を吐き出すような声が漏れる。
その一言をきっかけに、封印されていた記憶の箱が、内側から激しく爆ぜた。
視界が、急激に色彩を失い、過去の残像に塗り潰されていく。
学園の裏庭。冬の枯れ木が、骨のように天を突いていた、あの午後。
王位継承者という看板を剥がされれば、自分はただの、足の遅い、臆病な少年に過ぎなかった。
上級貴族の子供たちに囲まれ、泥水を啜らされた時の、あの冷たい感覚。
擦りむいた膝から滲む血の、鉄のような匂い。
助けを呼ぶこともできず、ただ土の味を噛み締めていた、あの屈辱の日々。
だが、その痛みの淵で、いつも『それ』は置かれていた。
誰の目にも触れないよう、古い木の根元に。
あるいは、使い古された木箱の陰に。
清潔な、陽だまりの匂いがする包帯と、琥珀色の薬瓶。
送り主の名はどこにもない。
けれど、その包帯を巻く時だけ、彼は自分が孤独ではないのだと、そう思えた。
そして。
そんな彼の視界の端に、いつも彼女は立っていた。
銀糸を紡いだような髪をなびかせ、一分の隙もない微笑を湛えて。
一歩も近づかず、一言もかけず、ただ遠くから、水晶のような瞳で彼を眺めていた、セレスティーヌ。
当時のアルベールにとって、その沈黙は拒絶に他ならなかった。
『彼女は、無様な俺を見て、心中で嘲笑っているのだ』。
そう結論づけることで、彼は自分の脆い矜持を守ろうとした。
――だが、真実は、その裏側に沈殿していたのだ。
目の前に提示された、色褪せた数枚の紙。
レオン・ノワールクール公爵が、無慈悲なまでの静寂を以て差し出した『匿名の処方箋』。
そこに並ぶ、幾何学的で、どこか祈りにも似た厳格さを湛えた筆跡。
それが、セレスティーヌのものだと告げられた瞬間。
アルベールの世界を支えていた地平が、音を立てて崩壊した。
彼女は、知っていたのだ。
自分が手を貸せば、それが新たな派閥の火種になることを。
弱った王子を「救う」という行為が、少年の自尊心をどれほど深く抉るかを。
だから彼女は、自らの存在を消し、ただ道具として、彼を癒し続けた。
憎まれることを、蔑まれることを、最初から報酬として受け入れて。
「……っ」
アルベールは、玉座の肘掛けを掴んだ。
金箔の剥がれた装飾が、指の腹に鋭く食い込む。
その痛みすら、今の彼には、遠い国の出来事のように感じられた。
彼は、ステラ・メルヴィユが流す、わかりやすい『涙』に飛びついた。
その湿った温もりに触れることで、自分が正しい人間であると信じたかった。
彼女を守るという正義を演じるために、笑い続けるセレスティーヌを、悪という名の型に押し込めた。
自分が傷つかないために。
自分が高潔な王子であり続けるために。
彼は、世界で最も不器用な慈愛を、土足で踏みにじったのだ。
『わたくしは、復讐を求めません』
大広間に響いた、彼女の最期の宣告。
それは、どんな罵倒よりも深く、彼の魂を切り裂いた。
許されたのではない。
ただ、彼女の視界の中から、アルベールという存在が抹消されたのだ。
彼がどれほど謝罪を重ねようと、彼女が捧げたあの空白の年月は、二度と戻らない。
喉の奥が、熱い鉄を流し込まれたように焼ける。
視界が歪み、床の模様が、のたうつ生き物のように蠢いて見えた。
彼は、周囲の視線も、王族としての体面も、すべてを放り出した。
ただ、内側から突き上げてくる焦燥に突き動かされるまま、走り出した。
回廊を駆ける足音が、石の壁に反響し、幾重にも重なって彼を追いかける。
胸が苦しい。肺が、冷たい外気を吸い込むたびに、悲鳴を上げている。
だが、その痛みこそが、今の彼に許された唯一の罰だった。
***
庭園の空気は、夜の帳に浸され、深い紺青に染まっていた。
金木犀の香りが、湿った風に乗って鼻腔を抜けていく。
それは、どこか葬列を思わせる、甘く、重苦しい匂いだった。
アルベール殿下は、私の数歩手前で、崩れるように膝をついた。
かつて彼が、私に追放を告げた時に見せていた、あの堂々たる姿はどこにもない。
ただ、顔を覆い、子供のように肩を震わせる、一人の抜け殻がそこにいた。
彼が吐き出す言葉は、悔恨という名の泥を纏い、足元に沈殿していく。
「許してくれとは、言わない。俺が、俺がどれほど……」
彼の声は、夜風にさらわれ、不規則に震えていた。
翡翠色の瞳は赤く充血し、そこには、かつて私を貫いた軽蔑の光は微塵も残っていない。
彼は、ノワールクール領への、莫大な支援を口にした。
それは、彼が持ちうる唯一の武器であり、同時に、彼に残された唯一の言語なのだろう。
金と、権力と、目に見える形での償い。
それを、今の私は、奇妙なほど平坦な心持ちで眺めていた。
かつての私なら、この光景に、どんな色を塗っただろう。
『構図を壊してしまった』という恐怖に、全身を支配されていただろうか。
彼に人間としての感情を抱かせてしまったことを、最大の失敗だと悔いただろうか。
だが、私の背中には今、ある重力が寄り添っている。
振り返らなくてもわかる。
そこに、レオンがいる。
彼は何も言わず、ただ、私の影をそっと踏むような距離で、静かに佇んでいた。
彼の放つ微かな熱が、私の冷え切った指先を、じりじりと、焦がすように温めている。
その熱が、私を「記録者」という透明な檻から、外へと引きずり出していた。
私は、肺の奥底まで、秋の冷気を吸い込んだ。
酸素が血を巡り、思考が、一点の曇りもなく研ぎ澄まされていく。
アルベール殿下の、すがるような視線。
それは、かつて私が、木陰から彼に向けていたものと同じ、断絶の響きを持っていた。
私は、ゆっくりと、彼へと歩み寄った。
枯れ葉を踏みしめる音が、夜の静寂に、乾いた楔を打ち込む。
膝をついたままの王子の前で、私は足を止めた。
見下ろす視線の先に、彼の震える指先がある。
私は、唇を開いた。
それは、誰かに書かされた台詞でも、構図を守るための嘘でもない。
私の、本当の輪郭を象るための、言葉。
「殿下。わたくしが、あの時、なぜ薬を置いたのか。……お分かりになりますか?」
私の声は、自分でも驚くほど、穏やかで、そして非情だった。
アルベールが、弾かれたように顔を上げる。
「それは……俺を、助けようと……」
「いいえ」
私は、彼の言葉を、静かに断ち切った。
一陣の風が吹き抜け、私の銀髪が、彼の頬を冷たく撫でる。
「わたくしは、ただ、『傷を負ったもの』が、そこに存在することが、耐え難かっただけなのです」
彼の瞳が、大きく見開かれる。
期待していた慈悲も、予想していた恨みもそこにはない。
ただ、鏡のように冷徹な、事実としての空虚。
「わたくしにとって、あなたは人間ですらありませんでした。ただの、直すべき欠陥のある、背景の一部。……それが、わたくしの抱いていた傲慢の、正体です」
アルベールの顔から、一気に血の気が引いていく。
彼の差し出そうとしていた償いが、どれほど空虚なものであるか。
それを、私は情け容赦なく、言葉という名の針で刺し貫いた。
「支援は、ありがたく頂戴いたしますわ。それは、ノワールクール領の民にとって、正当な権利ですから。……ですが、殿下」
私は、微かに目を細めた。
背後のレオンの気配が、より一層、強く、濃くなる。
「あなたが今、ここで流しているその涙に、わたくしを混ぜないでくださいませ」
その言葉を最後に、私は彼に、完璧な淑女の礼を披露した。
もはや一滴の感情も混じらない、形式だけの、美しい決別。
私は踵を返し、一度も振り返ることなく、レオンの待つ闇へと歩き出した。
背後で、アルベール殿下が、喉を詰まらせるような音を立てた。
それが、何かの崩壊の音なのか、それとも、新たな絶望の始まりなのか。
それを知る権利は、もう、私の手の中にはなかった。
私の隣に、無言でレオンが並ぶ。
彼の大きな手が、私の、まだ少しだけ震えている指先を、包み込むように捉えた。
その質量。
骨の硬さ、皮膚の質感、そして、私という人間を、ここに留めようとする、強烈な意志。
私は、初めて、自分の足がしっかりと、この大地を捉えていることを感じた。
透明な記録者として、誰の記憶にも残らずに消えるはずだった私。
けれど、この秋の夜。
私は、自分の人生という名の、重く、苦しく、そして、どうしようもなく愛おしい重力を、確かに受け入れたのだ。
歩みを進めるたびに、庭園の景色が、記憶の一部として、私の背後へ積み重なっていく。
扉の向こう、待っているのは、もう誰かの用意した予定調和ではない。
私が、私として呼吸するための、どこまでも残酷で、どこまでも自由な、明日だった。
私は、レオンの手を、少しだけ強く握り返した。
彼の瞳の中に、私だけの姿が映っている。
ただそれだけの事実が、今の私には、何よりも重く、確かな真実だった。
夜風が、私たちの背中を追い越し、遠く、王宮の墓標へと消えていった。




