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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第55話 「人間は利己的である」という信念の完全な崩壊

 湿った冷気を孕んだ石畳の上を、硬い踵(ヒール)が削るような音を立てて引きずられていく。


 屈強な近衛たちの甲冑が擦れる金属音。

 それは、死神が振るう鎌の研磨音にも似て、マルグリットの鼓膜にへばりついて離れなかった。


 王宮の裏へと続く回廊は、昼間であっても陽光を拒む。

 壁の隙間に溜まった埃の匂いと、古い石材が吐き出す墓穴の吐息が、彼女の鼻腔を容赦なく満たした。


 鮮やかだった赤毛は、今は泥を吸って赤黒く変色している。

 丹念に織り上げられたシルクのドレスは、床に這う無数の傷に引っかかり、無残な裂傷を広げていた。


 つい先刻まで。

 彼女は、勝者の玉座に座っていたはずだった。


 社交界の頂点で扇を翻し、他者の運命を指先一つで弄んでいた。

 王太子妃という、この世で最も眩い冠に手をかけ、すべてを支配していると信じていた。


 それが、どうだ。

 今は、家畜のように腕を引かれ、光のない奈落へと引きずり込まれている。


 国家反逆――。

 その四文字が、物理的な重りとなって、彼女の細い首をへし折らんばかりにのしかかる。


 セルヴァン侯爵家という巨木は、根元から腐り落ちた。

 彼女自身も、もはや人として扱われることはない。

 名を奪われ、影を奪われ、歴史の塵として消え去る運命。


 けれど。

 マルグリットの胸を、心臓の裏側を、じりじりと灼き続けているのは、そんな破滅の痛みではなかった。


『あなたのことも、傷つけたくなかったから』


 セレスティーヌ・ヴァルモンの、あの澄み切った水底のような瞳。

 そこから零れ落ちた言葉が、猛毒となってマルグリットの全身を巡っていた。


 内臓が、音を立てて溶けていくような感覚。

 血管の奥に、冷たい火を流し込まれたような、耐え難い不協和音。


「……あり得ない。……あんなの、まやかしよ……」


 唇から漏れたのは、言葉というよりは、肺に残った澱みの排出だった。

 ガサガサに乾いた声が、冷たい回廊の壁に当たって、虚しく反響する。


「人間は、誰もが自分のために生きるものだわ……。誰かを蹴落とし、死体を踏み台にして、より高い場所へ……それが、この世界の理のはずよ……」


 父の、あの冷徹な教え。

 情は毒であり、信は弱さであると、幼い頃から脊髄に刻み込まれてきた。


 だから、彼女は氷を食んで育った。

 他者の心に火を灯すのではなく、その火を消し、冷え切った灰から利益を抽出することだけを、己の存在意義としてきたのだ。


 ステラ・メルヴィユという、救いようのない「善意の塊」でさえ。

 セレスティーヌを地獄へ突き落とすための、使い捨ての楔に過ぎなかった。


 それなのに。

 引きずられていくマルグリットの脳裏に、不意に、温かな断片が浮上した。


 窓から差し込む、午後の眠たい日差し。

 バターと砂糖が焦げる、鼻の奥をくすぐる甘い匂い。


『マルグリット、これ、あげる!』


 ステラが差し出した、形の歪な、けれど温もりの残った焼き菓子。

 あの時、自分はそれを「駒」を手なずけるための餌として、完璧な演技で受け取ったつもりだった。


 だが、その一瞬。

 手のひらに伝わった、人間の体温。


 自分の背負った没落の影も、ドロドロとした打算も、すべてを無視して注がれた。

 見返りなど一切求めない、暴力的なまでの純粋。


「……ああ、そうか……」


 マルグリットの膝が、カクンと折れた。

 近衛に乱暴に引き上げられるが、もはや脚に力は入らない。


 自分が信じていた「利己的」という名の要塞は。

 セレスティーヌの、そしてステラの、あの一文の得にもならない優しさの前に、塵のように吹き飛んでいた。


 彼女が命懸けで守ろうとした「強さ」とは、何だったのか。

 泥を塗りつけ、引き剥がそうとしたセレスティーヌの仮面。

 その下にあったのは、醜い本性などではなく、ただただ――空っぽの慈悲だった。


 他者を傷つけるために牙を研いだ自分。

 他者を守るために、己の肉を削ぎ落とし続けたセレスティーヌ。


 勝負など、最初から成立していなかったのだ。

 重力に逆らって飛ぼうとする鳥を、地に這う虫がどれほど呪おうと、その翼を汚すことはできない。


「……私は、……何を殺そうとしていたの……?」


 石床に視線を落としたまま、マルグリットは咽び泣いた。

 それは後悔ではない。

 自分の人生という、薄っぺらな空洞への絶望だった。


 王宮の裏口。

 重厚な鉄の扉が、忌まわしい重低音を響かせて開く。


 外の世界は、鋭い冬の予感を孕んだ風が吹き荒れていた。

 そこに待っていたのは、窓の一つもない、漆黒の檻。


「乗れ」


 騎士の冷酷な声が、夜の静寂を切り裂く。

 マルグリットは、震える脚をステップにかけた。


 ふと、彼女は振り返る。

 見上げた先には、月光を浴びて青白く輝く、王宮の尖塔。

 自分がかつて、命を賭してでも手に入れようとした虚飾の牙城。


「……馬鹿ね、あの女は」


 マルグリットの唇が、自嘲の形に歪んだ。

 その言葉には、もはや毒も、棘も、質量さえも宿っていない。


「あんな生き方……、……苦しいだけなのに。……一文の、価値もないのに」


 それは、セレスティーヌへの、そして選べなかった自分への、手向けの花だった。


 ガシャン、と。

 冷たい鉄の扉が、彼女の世界を完全に遮断した。


 光の一筋も届かない暗闇の中で、マルグリットは膝を抱え、小さく丸まった。

 ガタガタと馬車が動き出す。

 石畳を叩く車輪の振動が、彼女の脳髄を、絶え間なく揺さぶり続ける。


 その暗闇の中で、一粒の熱が、彼女の頬を伝った。


「……私は、どこで……間違えたのかしら……」


 問いかけは、夜の静寂(サイレンス)に飲み込まれていく。

 彼女を罵る者も、憐れむ者も、もうここにはいない。


 マルグリット・セルヴァンという物語は。

 自ら築いた「利己」という名の墓標の下で、静かに、そして完全に死滅した。


 ***


 王宮の大広間には、マルグリットが連れ去られた後も、鉛のような沈黙が沈殿していた。


 かつて、正義の執行を謳歌していた貴族たちの顔は。

 今は、自分たちの手のひらにこびり付いた泥を、恐怖に満ちた目で見つめている。


 誰も、言葉を発することができない。

 口を開けば、己の恥辱が溢れ出してしまうことを、本能が悟っていた。


 私は、その光景を、ただ静止画のように眺めていた。

 憎しみも、怒りも、湧いてはこない。

 ただ、背筋を凍らせるような、空虚だけがそこにあった。


 私はゆっくりと振り返り、すぐ後ろに佇むレオンを見上げた。


 彼の深い青は、波ひとつ立たず、私を映している。

 その瞳の中にだけは、私が必死に演じ続けてきた偽りの破滅ではなく、等身大の私が存在しているような、そんな錯覚を覚えた。


「……参りましょう、公爵様」


 私の声は、ひどく掠れていた。

 レオンは何も言わず、ただ私の背中に、大きな掌を添えた。


 その掌から伝わる確かな熱が、虚像として崩れかけていた私の輪郭を、辛うじてこの世界に繋ぎ止めている。


 私たちが歩き出すと、貴族たちは弾かれたように道をあけた。

 彼らが深々と頭を下げるたびに、衣服が擦れる不快な音が、大広間の空気を攪拌する。


 重厚な扉を抜け、夜の帳が降りた庭園へと出た。

 秋の終わりを告げる冷たい夜風が、汗ばんだ肌を容赦なく奪っていく。


 常に耳の奥で鳴り響いていた、あのシャッター音が、聞こえない。

 私はもう、記録者という名の檻から、光の下へと放り出されたのだ。


 暴かれた真実。

 剥がされた笑顔。

 その後に残ったのは、ただの、無力な一人の女だった。


「……セレスティーヌ!」


 背後から、空間を叩き割るような叫びが届いた。


 足を止める。

 重い、引きずられるような足音が、庭園の静寂を乱しながら近づいてくる。


 ゆっくりと振り返った視線の先にいたのは。

 肩で荒く息をし、金髪を振り乱した、アルベール・ルミエール殿下だった。


 その端正だった顔立ちは、今や悔恨という名の彫刻刀によって、無残に削り取られている。


「セレスティーヌ……! 待ってくれ……頼む……!」


 彼は、私の数歩手前で、まるで糸が切れた操り人形のように立ち止まった。

 翡翠色の瞳には、今まで一度も見せたことのない混濁が渦巻いている。


 かつて彼が、私に対して誇示していた「正義」。

 それが、自分自身の手で最も大切なものを破壊するための凶器だったことに、彼はようやく気づいたのだ。


 レオンが、私を守るように半歩、前へ出ようとした。

 その鋼のような肩が視界を遮るのを、私は指先で制した。


 私は、私自身の足で、この崩壊の主と対峙しなければならない。


「……殿下。何か、御用でしょうか」


 私の声は、どこまでも平坦で、質量を欠いていた。

 それは拒絶ですらない、ただの事象の提示。


 アルベール殿下は、その声に打たれたように、ガクンと膝を折った。

 王族としての誇りも、次期国王としての威厳も、冷たい石畳の上に散らばっていく。


「俺は……俺は、何という愚行を……」


 ひび割れた、泥を噛むような声。


「お前が、どれほどの重荷を背負っていたか……。……一人で、血を流しながら、笑っていたのか……! 俺は、何も……、何一つ見ていなかった……!」


 彼は両手で顔を覆い、子供のように肩を震わせた。


 彼は信じていたのだ。

 涙を流す者が被害者であり、笑顔を絶やさぬ者が加害者であるという、薄っぺらな方程式。


 だが、真実は、その逆だ。

 本当に深い傷を負った魂は、叫ぶことさえ忘れ、ただ沈黙という名の微笑みの中に逃げ込む。


 彼は、私の「完璧な笑顔」という名の、絶望の防壁を、自ら打ち砕いた。

 そしてその瓦礫の下で、私が独り、どれほど無残に摩耗していたかを知ってしまったのだ。


「お前を……傷つけた……。俺が、この手で、お前のすべてを磨り潰した……! 自分が正しいと信じ、お前を地獄へと追い立てたんだ……ッ!」


 夜の庭園に、彼の懺悔が、湿った空気と共に広がる。


 かつて、婚約破棄を宣言し、私を冷酷に突き放したあの言葉。

 今、彼はそれを、自分自身の肉を削ぐための刃として、己に突き立てている。


「……セレスティーヌ」


 殿下は、涙に濡れた顔を上げた。

 私に向かって、震える手を、触れることさえ許されない呪われた手を伸ばそうとする。


「許してくれなど、……言う資格はない。俺が犯したことは、到底……。……だが、せめて、償いをさせてほしい」


 声が、震えている。


「領地の支援、……地位の回復、……何でもいい。お前が、……少しでも……報われるために。……俺に、できることは……」


 それは、溺れる者が掴もうとする、最後の藁のような、無力な誠意。

 権力という、彼に残された唯一の武器を使って、私の傷を塗り潰そうとする、精一杯の足掻き。


 かつての私なら。

 この言葉に、どのような感情を抱いただろうか。


 また構図が崩れると怯え、再び鉄の処女の中に閉じこもり、彼を冷たく突き放して逃げ出しただろうか。


 だが。

 今の私は、もう、誰の目も気にする必要はない。

 透明な記録者としての役目は、あの燃えるような怒りと共に、灰となったのだから。


 私は、アルベール殿下の、絶望に縁取られた瞳を、真っ直ぐに見据えた。


 肺の奥に、冷たい、けれど清浄な空気を吸い込む。

 そして、私の本当の意志を。

 この長い長い茶番劇の終幕を、彼に告げるために。


 私は、ゆっくりと、沈黙を破った。

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