第54話 あなたのことも、傷つけたくなかったから
大広間に満ちていた喧騒が、潮が引くように退いていく。
あとに残されたのは、石造りの壁に反響する、誰かの荒い呼吸の音だけだ。
磨き上げられた大理石の床は、鏡のように冷たく、私の足裏から体温を容赦なく奪っていく。
私は、数歩先で蹲るマルグリット・セルヴァンを見下ろした。
彼女の翡翠の瞳は、今はもう、何も映してはいない。
背後には、レオンが立っている。
言葉はなくとも、彼の存在が放つ「質量」が、私の背を静かに押し返していた。
それは、どこまでも深く、揺るぎない、冬の星空のような引力だった。
「……答えてよ、セレスティーヌ……!」
マルグリットの喉から、ひび割れた声が漏れる。
丹念に結い上げられていた赤毛が、一本、また一本と、白い肩にこぼれ落ちた。
彼女が纏っていた「慈愛」という名の薄い絹衣は、すでにぼろぼろに引き裂かれている。
剥き出しになったのは、飢えた獣のような、生々しい自己防衛の衝動だけだった。
「自分が全てを失うって、分かっていたはずでしょう! なのに、どうして! 人間は利己的な生き物じゃないの!」
彼女の絶叫が、高い天井にぶつかって、瓦解していく。
それは私を責める言葉ではなく、彼女が今まで信じてきた「世界の理」を繋ぎ止めるための、最後の足掻きだった。
翡翠の瞳に、血走った線が走る。
彼女にとって、世界とは等価交換の戦場であり、優しさとは投資に過ぎなかったのだ。
私がその理を逸脱してしまったことが、彼女には耐え難い恐怖なのだろう。
自分の足元にある大地が、実は底なしの沼だったと気づかされるような、そんな眩暈を。
私は、口角を吊り上げるのをやめた。
頬の筋肉を強張らせ、形だけを整えてきた鉄の仮面を、ここでようやく外す。
風が、私の頬を撫でた。
大広間の重苦しい空気が、不意に、ひどく透き通って感じられた。
「……計算なんて、していなかったわ」
私の唇からこぼれたのは、教育された「音」ではなかった。
内臓の奥に澱んでいた、湿り気を帯びた吐息だ。
「私はただ、怖かったのよ」
「……怖い? 何がよ! あなたが私を……陥れたんでしょう!」
「いいえ。私が怖かったのは、私という存在が、誰かの未来を塗り潰してしまうこと」
視界の端で、かつて視た「光景」が明滅する。
誰も救えず、誰にも看取られず、白い病室で溶けていったあの頃の記憶。
指先から体温が消えていくあの虚無感が、今も私の魂に、薄く、鋭い刃を立てている。
私が「悪役」としてこの舞台に立つと決まった時、唯一の救いは、その結末が確定していることだった。
私が消滅することで、世界の歯車が正しく回り出す。
そう信じることでしか、私はこの世界に立っていられなかった。
「私が一人で泥を被れば、家族は守られる。ステラも、殿下も、誰も傷つかずに済む。……それが、私の選べる唯一の出口だったの」
「そんなの、ただの傲慢よ! 自己満足じゃない!」
マルグリットの手が、床を激しく叩いた。
宝石を散りばめた扇が、乾いた音を立てて二つに折れる。
「あの日、大広間で私が用意した証拠を見た時……なぜ、あなたは笑ったのよ! なぜ、私の喉元を食いちぎろうとしなかったの!」
彼女の肩が、不自然なリズムで上下している。
理解できない欠落を前にして、彼女の精神が、軋みを上げているのが分かった。
私はゆっくりと、肺の奥に溜まっていた重い空気を吐き出した。
そして、彼女の視線を、真っ向から受け止める。
「あの時、黙っていたのは……」
言葉が、喉の奥でつかえる。
それは、自分でも気づいていなかった、泥のような本音だった。
「あなたのことも、傷つけたくなかったからよ」
その一文が放たれた瞬間、空間の密度が、劇的に跳ね上がった。
マルグリットの動きが、糸の切れた人形のように止まる。
半開きになった唇から、言葉にならない呼気が漏れた。
「……私を、傷つけたくなかった……? 何を、言っているの……」
「あなたが、ステラを利用していたことも。薬草を毒物に偽装したことも。メイドの家族を脅して、偽りの証言をさせたことも」
「…………」
「すべて、知っていたわ。調査すれば、すぐにでもあなたの首を絞められる証拠は揃っていた」
一歩、私が足を踏み出す。
大理石の上で、靴音が硬く、鋭く響いた。
「でも、もしあの場で真実を口にすれば、セルヴァン家はどうなっていたかしら? 王家を欺いた罪は、あなた一人では贖いきれない」
私は、彼女の翡翠色の瞳を、逃がさないように見つめ続けた。
その瞳の奥にある、凍えた子供のような怯えを。
「私は、誰も殺したくなかった。……たとえそれが、私を処刑台へ送ろうとした、あなたであっても」
「……っ!」
「没落の影に怯え、必死に足掻いていたあなたの背中を、私は見ていたから。……だから、私が消えることで、全てを終わりにしようと思ったのよ」
それが、私の抱えてきた醜悪なまでの「善意」の正体だ。
救いたいのではない。ただ、これ以上、重荷を背負いたくなかっただけなのだ。
言葉は、冷たい雨のように、大広間の沈黙を濡らしていく。
マルグリットは、何かに憑かれたように、何度も首を横に振った。
彼女の手から、壊れかけた扇の破片がこぼれ落ちる。
カラン、と。
その音だけが、不気味に澄み渡っていた。
「私を……助けようと、したの……?」
掠れた声が、彼女の唇から這い出す。
彼女の世界を支えていた、冷徹な合理性という名の柱が、内側からボロボロと崩れていく。
他者を利用し、踏み台にすることでしか得られない価値。
それこそが唯一の真実だと信じて、彼女は生きてきたはずだった。
なのに、今、目の前に。
損得という天秤を軽々と踏み倒し、自分という「毒」すら飲み込もうとした少女がいる。
「そんなこと、あるわけない……。だって、人間は、誰もが自分が一番可愛いはずだもの……!」
マルグリットは両手で顔を覆い、後退りした。
彼女の脳裏に、不意に、一つの残像が浮かび上がる。
――学園の、木漏れ日が揺れるサロン。
ステラが差し出してきた、不器用な形をした焼き菓子。
マルグリットはそれを、「手懐けるための餌」として受け取ったはずだった。
けれど、あの時、掌に伝わってきた微かな温もりと。
鼻腔をくすぐった、甘い、幼い砂糖の匂い。
あの時、胸の奥で一瞬だけ脈打った、説明のつかない疼き。
彼女は、それを「不純物」として、即座に思考の奥底へと埋めてしまった。
人間は利己的でなければならない。
そうでなければ、泥舟のような家を支え、独りで荒波を越えることなどできないから。
けれど。
もし、あの時のステラの笑顔が、嘘ではなかったとしたら。
そして、今、私を真っ直ぐに見つめるセレスティーヌの、この痛々しいまでの静寂が。
すべて、取引などではない「光」そのものだったとしたら。
「……あ、ああぁ……」
マルグリットは、力なく膝を折った。
彼女はもう、私を睨むことも、見苦しい弁明を口にすることもなかった。
ただ、自分の人生という名の虚城が、跡形もなく消え去っていくのを、呆然と眺めていた。
「私は……何のために、あんな……」
手に入れたはずの地位も、守り抜いたはずの権力も。
セレスティーヌという、底知れない無償の質量を前にしては、羽毛のように軽く、無意味なものへと変わり果てていた。
大広間に集まった貴族たちの視線が、礫となって彼女に降り注ぐ。
かつては社交界の華だった少女が、今はただの、色褪せた抜け殻のように床に這いつくばっている。
ステラは、少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
彼女の頬を伝う涙は、裏切りへの怒りではなく、永遠に失われてしまった「かつての時間」への手向けだった。
マルグリットは、ゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳からは、先ほどまでの刺すような光が消え去っていた。
そこにあるのは、取り返しのつかない過ちを悟った者の、空虚な沈黙だけだ。
彼女は、私を一度だけ見上げ、震える唇を微かに動かした。
「……馬鹿ね、あなたは」
毒気のない、ひどく掠れた、静かな声だった。
「自分が死ぬまで、私みたいな汚物を抱えていようとするなんて。……そんなの、どこにも救いなんてないのに」
その言葉には、嘲笑の響きはなかった。
ただ、彼女自身がどうしても届かなかった、利他的という名の奈落に対する、深い、深い、羨望だけが混じっていた。
私は、何も答えなかった。
答えるための言葉を、すでに持っていなかったからだ。
「……連れて行け」
重く、冷徹な響きが、大広間の空気を切り裂いた。
アルベール殿下だった。
彼は玉座の前で、冷たい彫像のように立っていた。
その瞳には、すでにマルグリットという存在は映っていない。
「セルヴァン侯爵令嬢マルグリットを、国家反逆の疑いで拘束せよ。侯爵家への処分は、後ほど沙汰を下す」
「はっ!」
近衛騎士たちの鎧が擦れる音が、耳障りに響く。
数人がかりで、床に座り込む彼女の腕が強引に引き上げられた。
彼女は抵抗せず、ただ意志を失った人形のように、その身を預けていた。
騎士たちに抱えられ、重い扉の向こうへと消えていく、赤毛の背中。
その姿は、かつての傲慢な輝きが嘘のように、ひどく小さく、脆く見えた。
私は、その残像が消えるまで、黙って見送っていた。
胸の中にあったのは、勝利の陶酔などではない。
一人の人間の人生が、完膚なきまでに砕け散ったことへの、鉛のような残滓だけだった。
ふと、私の肩に、大きく温かい「重み」が加わった。
振り返ると、レオンがすぐ傍に立っていた。
彼は何も言わなかった。
ただ、その深い青い瞳で、私の心の奥底までを、静かに包み込んでいた。
「……ありがとうございます、レオン様」
私は、彼のその存在にどれほど救われているかを、震える肺で噛み締めた。
引き攣るような笑顔ではなく、ただの、無防備な吐息が、笑みの形にこぼれた。
マルグリットの破滅。
それは、誰かが仕組んだ罠などではなく、彼女が積み上げてきた合理的な選択が、自らを押し潰した結末に過ぎなかった。
大広間は、今や死のような静寂に包まれている。
自分たちがどれほど愚かな喜劇に加担していたか。
その重圧に耐えかねた貴族たちが、次々と視線を伏せていく。
そして、この冷え切った盤面の上に、独り、残された男がいる。
私はゆっくりと、視線を前に戻した。
玉座の前で、抜け殻のように立ち尽くす、かつての婚約者。
アルベール殿下の翡翠の瞳は、激しい後悔に濁っていた。
自分が何を捨て、何を失ってしまったのか。
その「遅すぎる気づき」が、彼をじわじわと、内側から焼き尽くそうとしていた。
物語の清算は、まだ終わってはいない。
私は、最後の一歩を踏み出すために、喉の奥に沈んでいた冷たい熱を、再び呼び覚ました。




