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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第53話 マルグリットの仮面剥がし

 私の喉を震わせて放たれた言葉は、形を持たない無色の振動となって、大広間の隅々にまで浸透していった。


 復讐を、求めない。

 その響きは、甘い赦しなどではない。

 冷たい水底に沈めた重石のように、逃れようのない「事実」として、そこに居合わせた者たちの足首に絡みついた。


 数百人の貴族たちが放つ、微かな衣擦れの音さえも消失する。

 天井から吊るされた巨大な魔法灯が、無機質な白光を石床に叩きつけている。

 その光の下で、彼らの輪郭がじわりと滲み、正義を信じて疑わなかった瞳が、所在なげに揺れ動いた。


 彼らが抱いているのは、救いようのない恥辱だ。

 一人の少女が、自らの血を流してまで守ろうとしたものが、自分たちが踏み躙っていた「真実」であったという、耐え難いほどの質量を持った重圧。


 私が彼らを罵倒し、その醜い欲望を指弾していたならば、彼らは罰という名の免罪符を手にすることができただろう。

 怒りに火を灯し、私を敵として再定義することで、胸の奥で疼き始めた自責を焼き切ることができたはずだ。


 だが、私はその機会を、彼らから奪い去った。

 静かな微笑みという名の、永遠に消えることのない烙印を、彼らの心臓に直接押し当てたのだ。


 大広間の静寂を、不快な高音が切り裂いた。


 ――カタカタ、カタカタ。


 それは、贅を尽くした扇が、震える指先で踊る音。

 ステラの肩を抱く、マルグリット・セルヴァン侯爵令嬢の指先は、まるで死後硬直が始まったかのように白く強張っていた。


「……あり得ないわ。そんなこと、絶対にあり得ない」


 彼女の唇から漏れたのは、言葉というよりは、肺の奥から搾り出された空気の塊だった。

 計算し尽くされた美貌が、泥を塗られた彫像のように、内側から崩壊を始めている。


「何かの計算よ……! 自分が全てを失い、絶望の淵に突き落とされたというのに、その元凶たちを前にして復讐を求めない? そんなもの、偽善に決まっているわ……!」


 マルグリットの翡翠色の瞳には、剥き出しの拒絶が燃えていた。

 彼女が生きる世界は、奪うか奪われるかの、鋭利な刃で構成された幾何学模様だ。

 その精緻な論理の中に、私の「無償の許し」という名の猛毒が混入し、彼女の思考回路を激しく焼き焦がしていく。


 他者の感情を駒として、悪意という名の脚本を綴り続けてきた彼女にとって。

 私という例外は、世界そのものを否定する致命的な欠陥(エラー)に他ならなかった。


 その時、私の右側にある空気が、重厚な圧力を持って動いた。


 一歩。

 硬い革が、冷徹な響きを立てて石床を捉える。

 隣に立つレオン・ノワールクール公爵が、影を纏うようにして前へと進み出た。


「……偽善かどうかなど、もはやどうでもいいことだ」


 地の底から響いてくるような、低く、密度の高い声。

 その一言が放たれた瞬間、大広間の気圧が一段階、跳ね上がった。


 レオンは、震えるマルグリットを、射殺すような青い瞳で見下ろした。

 それは感情のない、観測者の視線だった。

 路傍に転がる石ころの成分を、冷徹に分析する時のような、絶対的な隔絶。


「茶番は終わりだ、セルヴァン侯爵令嬢。お前がその薄汚い指で編み上げた蜘蛛の巣を、今ここで白日の下に晒してやる」


「な……何を、仰っているの……!」


 マルグリットは、喉の奥をヒクつかせながら一歩後ずさった。

 乱れた赤髪を振り乱し、必死に「被害者」の仮面を貼り直そうと、顔の筋肉を醜く歪ませる。


「わたくしは、ステラを守るために……! セレスティーヌ様の悪行を告発しただけですわ! それを陰謀だなんて……ノワールクール公爵様、言いがかりにも程がありますわよ!」


 彼女はステラの細い肩を、壊さんばかりの力で抱き寄せた。

 周囲に助けを求めるように視線を巡らせるが、返ってくるのは、鉛のように重く冷たい沈黙だけだ。


 すでに、空気は変質していた。

 レオンが事前に提示した「処方箋」という名の物証が。

 そして使用人たちが吐き出した、喉を灼くような証言が。

 マルグリットが築き上げた、砂上の楼閣を根底から揺さぶっていた。


 レオンは、軽蔑を形にしたような冷笑すら浮かべず、机の上に置かれた書類の束を手に取った。

 カサリ、という紙の擦れる音が、沈黙の中で驚くほど鋭く響く。


「言いがかりかどうか、これを見ても同じことが言えるか」


 レオンの手によって掲げられた、一枚の羊皮紙。

 それは、照明の光を浴びて、忌まわしい遺書のように白く光った。


「第一の証拠。王宮お抱えの薬師による、鑑定偽造の自白書だ」


「……っ!」


 マルグリットの喉が、引き攣ったような音を立てた。


「お前が暗殺の毒物であると偽らせたあの薬草は、本来、王宮庭園にも自生する薬草に過ぎなかった。ここに、侯爵家から薬師へ流れた金の詳細と、お前が彼を脅した裏帳簿がある」


 レオンの言葉は、一発の銃声のように、マルグリットの虚飾を撃ち抜いていく。


「王家の調査機関を金で汚し、衆目を欺いた罪。……これだけでも、お前の首を括るには十分な理由になるだろうな」


 広間を、波打つような戦慄が駆け抜けた。

 玉座の前で石像のように立ち尽くしていたアルベール殿下の顔が、苦悶に歪む。


「マルグリット嬢……お前が、俺を……欺いていたというのか……?」


「ち、違いますわ、殿下! それは公爵が用意した偽物です! わたくしを陥れるために……っ」


「まだ、醜く足掻くか」


 レオンは吐き捨てるように言い、二枚目の羊皮紙を、無造作に机へと叩きつけた。

 ビタン、という硬い衝撃音が、彼女の逃げ道を完全に断ち切る。


「第二の証拠。お前が裏社会の『筆跡の達人(ゴーストライター)』に書かせた、偽造の手紙だ。その男の身柄は、すでに我が騎士団が確保している」


 マルグリットの顔から、完全に色が失われた。

 彼女の膝が、目に見えてガタガタと打ち震え始める。


「さらに、第三の証拠」


 レオンは、床に跪き、肩を震わせて泣き崩れている若いメイドを一瞥した。

 かつて断罪の場で、私に致命的な嘘を浴びせた、ヴァルモン家のメイド。


「お前が彼女の家族を人質に取り、偽証を強要した際の私兵たちも、すでに全員捕縛済みだ。彼らはお前の命令の詳細を、実によく喋ってくれたぞ」


「……あぁ……っ!」


 メイドが、床に額を打ち付け、声を上げて泣き伏した。


「申し訳ございません、セレスティーヌお嬢様……っ! わたくしは、家族を殺すと脅され……! お嬢様は、決して、そのような方ではございませんでしたのに……っ!」


 その悲鳴は、大広間の天井にまで届き、そこに居合わせた全ての者の胸を、鋭利な切っ先で刺し貫いた。


 剥き出しになった、悪意の全容。

 マルグリットが緻密に、そして冷酷に組み上げてきた「悲劇」という名の喜劇が、無惨な骸を晒している。


「マルグリット……」


 震える声が、彼女のすぐ傍で上がった。


 ステラだった。

 彼女は、両手で自らの口を覆い、大粒の涙をこぼしながら、後ずさりを始めた。

 その瞳に映っているのは、信頼していた親友への情愛ではない。

 底の知れない、化け物を見るような恐怖だ。


「嘘、だよね……? あなたが、私を……利用して、いたの……?」


「ス、ステラ、違うのよ! 私はあなたを……っ」


 マルグリットが縋るように手を伸ばすが、ステラは、焼けた鉄を避けるようにその手を弾き飛ばした。


 貴族社会の冷徹な重圧の中で、唯一の光だと信じていた存在。

 それが、自分を奈落へ突き落とすための毒蜘蛛であったという事実。

 ステラの幼い心は、その瞬間に、取り返しのつかないほどの音を立てて砕け散った。


「どうして……どうしてこんなひどいことを……っ! セレスティーヌ様は、私が痛みで泣いていた夜に、こっそりお薬を置いて助けてくださったのに……! あなたは、それを、あの方を憎むための道具にしたのね……!」


 ステラの悲痛な糾弾が、マルグリットの胸を射抜く。


「……マルグリット・セルヴァン」


 地を這うような、低い怒号が響いた。

 アルベール殿下が、一歩、また一歩と、死神のような足取りでマルグリットへ近づく。


「俺は……お前のその汚らわしい仮面に騙され、最も清らかな魂を、この手で断罪してしまった。……お前の、その卑小な欲望のために!」


 王子の怒りは、大広間を焼き尽くさんばかりの熱量を持ってマルグリットを包囲した。

 かつて彼女に同調し、私を罵った貴族たちが、今度は彼女を標的として、容赦のない石を投げ始める。


「なんて恐ろしい女だ……!」

「侯爵家の恥晒しめ!」

「あのような令嬢を利用するなど、万死に値する!」


 耳を劈く罵声の嵐。

 かつて私が浴びたものと、全く同じ暴力が、今度は彼女に降り注ぐ。

 これが、この場所の住人たちが持つ、薄っぺらな正義の本質。


 マルグリットは、床に両手をつき、肩を激しく上下させていた。

 美しい扇は、床の塵にまみれて転がっている。


 だが。

 彼女は、泣いてはいなかった。


 ――ギチリ。


 奥歯が軋む音が、私の耳にまで届いた。

 マルグリットは、乱れた髪の間から、狂気に満ちた翡翠色の瞳を剥いた。

 そこにあるのは、反省でも後悔でもない。

 ただ、自らの理屈が通じない世界への、絶対的な拒絶だった。


「……なぜ……なぜよ!!」


 彼女の絶叫が、大広間の空気を切り裂く。

 立ち上がった彼女の姿は、もはや令嬢のそれではなく、追い詰められた手負いの獣だった。


「なぜ私が悪いのよ! この世界は、力を持つ者が勝つようにできているんでしょう!? 強い者が弱い者を利用して、生き残るために蹴落とす……それが、この地獄の唯一のルールじゃない!」


 彼女の言葉は、大広間に集う貴族たちの急所を、正確に抉っていった。

 彼らが、目を逸らす。

 彼女が叫んでいるのは、彼らが隠し続けてきた、この社会の醜悪な真理そのものだったからだ。


「セルヴァン家は、沈みゆく泥舟だった! 私が何もしなければ、ただ惨めに消えるだけだった! だから私は、使えるものは何でも使ったのよ! ステラの無知も、殿下の独善も、すべて私が飼い慣らしてやったのよ!」


 マルグリットは、血走った目で私を指差した。

 その指先は、小刻みに震えながらも、呪いのように私を狙い定めている。


「セレスティーヌ・ヴァルモン……! あなただって、本当は何か企んでいるんでしょう!? 自分が全てを失うと分かっていて、何も反論せずに泥を被る? 復讐を求めない? そんな生き方、一文の得にもならないじゃない!」


 彼女の叫びは、もはや糾弾ではなく、悲鳴だった。

 自分が信じてきた「利己」という名の盾が、私の存在によって、粉々に砕かれていくことへの恐怖。


「人間は利己的なのよ! 自分の利益のために動くのが人間なのよ! あなたのその薄気味悪い自己犠牲も、どうせ後で悲劇のヒロインとして同情を買うための、計算された偽善に決まっているわ!! そうでしょう!? 答えなさいよ!!」


 絶叫の余韻が、高い天井に反響しては、消えていく。

 彼女の胸元で激しく上下する呼吸の音だけが、静寂の中に響いていた。


 私は、その狂乱を。

 ただの十七歳の少女としての瞳で、静かに、そして深く見つめていた。


 彼女の叫びは、私を攻撃しているのではない。

 崩れ去っていく自分自身の聖典を、必死に繋ぎ止めようとする、あまりにも哀れな断末魔なのだと。


 レオンが、私を庇うように一歩、身を乗り出した。

 その硬い肩が、視界を遮ろうとする。


 だが、私はそっと彼の手を制した。

 指先に触れる軍服の冷たい質感が、私の意識を明瞭にさせる。


 私は、自らの足で。

 狂乱し、絶望の淵に立つマルグリットの数歩手前まで、歩みを進めた。


 もう、完璧な鋼の仮面は必要ない。

 私は、ただのセレスティーヌとして。

 彼女の、その空洞に満ちた叫びへ、本当の答えを告げるために。


 湿った石の匂いと、大広間に沈殿する重い沈黙。

 その境界線の上に立ち、私はゆっくりと、沈黙という名の重石を外した。


 唇が開く。


 そこから漏れ出すのは、もはや誰かを傷つけるための刃ではなく。

 ただ、この閉ざされた世界に、風を通すための、静かな響きだった。

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