第52話 私は、復讐を求めません
頭上から降り注ぐ魔導の残光が、網膜を白く焼き潰さんばかりに主張している。
それは、私の存在を隅々まで暴き立てようとする、容赦のない垂直の深淵だった。
これまでの長い年月、私は意識的にその光の届かぬ場所、視界の境界線に潜む空白として生きてきた。
呼吸さえも、背景のノイズに紛れ込ませるようにして。
けれど今、私は剥き出しの舞台、その重心に立たされている。
肩を包み込むレオンの手は、驚くほど重く、そして熱い。
漆黒の外套越しに伝わるその不器用な鼓動が、激しい眩暈に揺れる私の平衡感覚を、この冷たい石床の上に繋ぎ止めていた。
その熱だけが、霧散しそうな私の意識にとっての、唯一の実体だった。
『お前は、もう、独りで凍える必要はない』
音にならない空気の震えが、私の胸の奥に張り巡らされていた分厚い氷壁を、内側から抉っていく。
三十三年の忘却と、十五年の摩耗を積み重ねて構築した「冷酷な悪役令嬢」という名の、完璧な虚構。
それは、今この瞬間に、致命的な破砕音を立てて崩れ去った。
彼が突きつけた決定的な記録、使用人たちの震える喉から漏れた言霊。
そして何より、愛する弟妹たちの流す、熱い塩の雫によって。
「僕たちを……僕たちを守るために、ずっと、たった一人で……! あんなに、あんなに冷たい言葉で僕らを……!」
エドガーの、喉を掻き切るような悲痛な叫びが、大広間の高い天井にぶつかって反響する。
エレーヌが彼にすがりつき、呼吸を忘れたかのように、ただ私の名を連呼していた。
あの日、私が冷徹な刃となって突き放し、絶望の淵へと追いやった幼い家族。
彼らが今、私が一人で背負い込んしてきた泥の重さに触れ、私のために涙という名の血を流している。
見返りなど、微塵も求めてはいなかった。
彼らの歩む道が、泥に汚れることなく、ただ美しく無傷であれば、それで私の役目は完結するはずだった。
だが、その身勝手な祈りは、結果として、彼らの魂に「姉を救えなかった」という、一生消えない裂傷を刻みつけてしまったのだ。
視線を、ゆっくりと、鉛を動かすような重さで巡らせる。
そこには、かつて私を「稀代の毒婦」と呼び、正義という名の礫を投じ続けていた者たちがいた。
彼らの顔からは、先ほどまでの傲慢な熱狂が、潮が引くように消え去っていた。
侯爵令嬢ベアトリクスは、石灰のように青ざめた顔で、自らの口を両手で覆い、何かに怯えるように後ずさっている。
伯爵令嬢シャルロットは、膝の力が抜けたようにその場へ崩れ落ち、顔を覆って、獣のような嗚咽を漏らしていた。
彼らは、触れてしまったのだ。
自分たちが信じて疑わなかった「正義の裁き」が、一人の少女が吐き出した内臓の上に築かれた、残酷な祭壇であったという事実に。
私の完璧な微笑みが、実は彼らの憎悪を一手に引き受けるための、必死の防壁であったということに。
自分たちこそが、最も無垢で、ゆえに最も残忍な加害者であったという自覚。
その沈殿した重苦しさが、大広間の空気を、粘り気のある汚泥へと変えていく。
そして、その絶望の底に、最も深く沈み込んでいたのは――。
第一王子、アルベール殿下だった。
玉座の前、魂を抜き取られた肉塊のように座り込む彼は、焦点の合わぬ翡翠色の瞳で、私とレオンを見つめていた。
彼が信奉していた「正しき世界」の歯車は、今や完全に噛み合わせを失い、火花を散らして沈黙している。
彼が「正義」の名の下に振り下ろした断罪の刃。
それが、実は最も自分を愛し、守ろうとした存在を切り刻んでいたという逆説。
その事実が、彼の精神の屋台骨を、音も立てずに粉砕していた。
「俺が……間違っていたのか……?」
震える唇から、掠れた羽虫のような羽音が零れ落ちる。
彼の手は、白木のように乾いた机の上で、力なく広げられたまま、カタカタと不規則な痙攣を繰り返していた。
その広間の、呼吸さえも拒むような沈黙を、レオンの氷点下の声が切り裂く。
「……以上が、記録だ」
レオンは、机の上に積み上げられた、罪の不在を証明する紙片の山を一瞥した。
それから、アルベール殿下と、立ち尽くす貴族たちを、射抜くような視線で睥睨する。
「匿名の処方箋。沈黙という名の守護。そして、秘められた贈り物。……彼女が捨てた名誉の裏側には、これほどの真実が息づいていた。彼女に問うべき罪など、この世のどこにも存在しない」
その宣告は、私という存在に対する、決定的な救済であったはずだ。
だが、その「無罪」こそが、周囲の人間にとっては、何よりも重い刑罰として機能していた。
反論を試みる者は、もう、誰一人としていない。
私は、肩に添えられたレオンの、大きく、硬い手の甲に、自らの震える指をそっと重ねた。
その肌の質感、浮き出た血管の脈動。
それが、私という個体がまだここに在ることを、痛いほどに教えてくれる。
「……公爵様」
掠れた、砂を噛むような声で、私は彼を呼んだ。
レオンは微かに息を呑み、その深い青の瞳で、私を真っ直ぐに射抜く。
私は彼に向かって、拒絶ではない、けれど確かな訣別の意志を込めて、首を振った。
『もう、大丈夫です』
私は、彼の庇護から、ゆっくりと一歩、前へ踏み出す。
その一歩は、これまで私が守り続けてきた「安全な境界線」を、自ら踏み越える行為だった。
大広間に充満する、数百人分の視線が一斉に私に集まる。
そこには、かつての汚物を見るような色は微塵もなかった。
あるのは、私という存在の質量に圧倒された、沈痛な沈黙と、畏怖。
私は、彼らを見渡した。
そして、胸の奥にある、冷え切った空気をゆっくりと吐き出す。
口角を強引に吊り上げ、顔の筋肉を硬直させて作る、あの無敵の微笑は、もうどこにもなかった。
少しだけ口元が震え、目元は泣き出しそうに、不格好に歪んでいる。
けれど、一片の嘘も混じっていない、十七歳の少女としての、剥き出しの素顔。
「……皆様」
私の静かな声が、張り詰めた空気の薄氷を割るように響き渡った。
「わたくしは……この場において、誰かを責めることも、謝罪を求めることも、いたしません」
その言葉に、広間の空気が、ビクリと不自然な震動を起こした。
「わたくしが故郷を追われ、家名を捨てようとしたのは……わたくし自身の、選択でした。
愛する家族が、泥に塗れることのないよう。……そして、皆様が、わたくしという異物を排除することで、穏やかな明日を信じられるのであれば、それでよかったのです」
アルベール殿下が、弾かれたように顔を上げた。
その瞳に宿っているのは、もはや怒りでも憎しみでもなく、救いようのない悔恨の火だ。
「だからこそ……わたくしは、報復を、いたしません」
私は、はっきりと言葉を、物理的な重みを伴わせて紡いだ。
「誰かを憎むことは、わたくしが最も遠ざけたかった『傷』に他なりません。
わたくし一人が、冷たい土の下で眠りにつき、その上で皆様の平和が守られるのであれば……それは、わたくしにとって、一つの幸福だったのですから」
最前列で泣き崩れる弟妹たち。
そして、床に額を擦りつけ、私のために魂を削るようにして泣いている、忠実な使用人たち。
「……でも。わたくしのその傲慢な献身が。
結果として、あなたたちをこれほどまでに傷つけてしまっていたことに……わたくしは、今、ようやく気づきました」
声が、湿り気を帯びて震える。
「ごめんなさい、エドガー、エレーヌ。……アルフレッド、マリー。
あなたたちの真実を奪い、重い負債を背負わせてしまったことを……許してください」
「お姉ちゃん……っ!」
「お嬢様……っ、ああ、お嬢様……!」
エレーヌの泣き声が、鋭い棘となって胸を刺す。
アルフレッドの啜り泣きが、私の足元に溜まり、重くまとわりつく。
その声を聞きながら、私は、三十三年の前世から私を縛り続けていた、目に見えない鉄鎖が、音もなく溶け去っていくのを感じていた。
「わたくしは、ただの透明な破片になろうとしていました。
誰の記憶にも残らず、ただ消えていく、名もなき石ころに。……でも、それは間違っていたのですね」
私は、背後に立つレオンを、ゆっくりと振り返った。
彼の、氷山を思わせる深い青い瞳が、逃げ場のないほど真っ直ぐに私を射止めている。
彼が私を、この耐え難いほどの光の下へ引きずり出した。
私の存在を、この世界の一部分として認めさせてしまった。
私は再び、群衆へと向き直った。
「わたくしは、復讐を求めません。
……ただ、わたくしが、本当は誰のことも憎んでいなかったということ。
そして、誰も傷ついてほしくなかったのだという真実が……皆様に、知られただけで、もう十分です」
私は、深く、長く、頭を下げた。
あの日、全てを諦めて、微笑みという名の仮面を被って頭を下げた時とは、全く違う。
自分の人生という質量を、この世界に繋ぎ止めるための、重い礼。
大広間は、文字通り死者の住処のような、絶対の静寂に包まれた。
誰もが言葉を失い、私のその歪な許しの前に、ただ圧倒されていた。
もし、私が彼らを罵り、復讐の刃を突き立てていれば。
彼らは「罰」を受けることで、その罪悪感をいくらかでも中和できただろう。
だが、私がそれを放棄し、ただ不格好な微笑みを見せたことで。
彼らの胸に刻まれた自責の念は、一生消えることのない、剥き出しの烙印となってしまったのだ。
そして。
この重苦しい沈黙の隅で。
唯一、私の宣言によって、その全存在を否定され、焦燥に身を焼かれている人物がいた。
マルグリット・セルヴァン。
彼女の完璧な扇を持つ手が、カタカタと、不協和音を奏でるように震えている。
彼女の「人間は汚らわしい」という教典において。
他者の感情を取引の材料としてしか見ない彼女の世界において。
私の今の行動は、理屈を超えた断絶だった。
すべてを失う瀬戸際で、なお復讐を求めない?
自分を犠牲にしても、他者の平和を祈る?
「……理解できないわ。そんなこと、絶対に、あってはならないのよ……!」
彼女の扇が、鈍い音を立てて折れた。
彼女の翡翠色の瞳に宿っているのは、勝利への執着ではなく、未知の深淵に触れてしまった恐怖だった。
彼女が組み上げた、悪意という名の精緻な伽藍が、自らの重みで軋み、崩壊を始めようとしている。
私は、その震える姿を、静かに、ただ静かに見つめていた。
物語は、まだ終わってはいない。
私が復讐を求めずとも。
彼女が踏みにじり、弄んできた人々の心という名の重力が、今、彼女を裁くための巨大な波となって、背後に迫っていた。
大広間の空気が、次の瞬間、致命的な逆転に向けて。
重く、冷たく、反転していくのを。
私は、この指先に感じる確かな感触として、受け止めていた。




