第50話 孤独な悪役の真実
震える指先が、その羊皮紙を離した。
静寂が、粘りつくような湿り気を帯びて大広間に沈殿していく。
鑑定士の喉が鳴り、乾いた音がマイクを通したかのように不自然に響いた。
「……完全な一致、でございます」
その一言は、広間の空気を一瞬で凍土へと変えた。
アルベール殿下の顔から、急速に血の気が引いていく。
彼はまるで、足元の床が消失したかのようにフラフラと後ずさり、焦点の合わない目で宙を泳いだ。
その視線が、私と、そして私の隣に立つ絶対零度の質量を往復する。
先ほどまで彼が吐き捨てていた罵声は、今や出口を失った澱みとなって、彼の喉元に閖れていた。
レオンが放った、氷の楔。
それが、この場にいる全員の心臓を物理的に押し潰している。
「……だが、それだけでは、説明がつかない」
アルベール殿下の声は、ひび割れた陶器のように硬く、そして脆かった。
彼の中に強固に築き上げられた正義の城壁が、土台から軋みを上げている。
「いくら彼女が、裏で何をしていようとも……! あの日、彼女は確かに、自ら罪を認めたのだぞ!」
殿下が玉座の肘掛けを掴む。
ミシミシと、高価な木材が悲鳴を上げた。
「自分が毒を混ぜたと、あの完璧な|笑顔|《仮面》で! 誰に強要されるでもなく、彼女は肯定したではないか!」
叫びは、虚空を虚しく切り裂くだけだった。
広場に集まった貴族たちの視線が、痛いほどの熱を持って私に突き刺さる。
その「不自然な肯定」。
それこそが、彼らが私という存在を「悪」と定義するための、最後にして唯一の拠り所だった。
レオンは、取り乱す殿下を、道端の石でも眺めるような冷徹な眼差しで射抜いた。
そして、一度だけ。
重厚な扉の方へと、顎をしゃくった。
「――入れ」
その短く、重い響きが、空間を二つに割った。
扉が、鈍い音を立てて開かれる。
そこから滑り込んできたのは、煌びやかな衣装を纏った貴族たちとは、決定的に質の異なる「色」だった。
私は、肺の奥がキュッと縮まるのを感じた。
先頭を歩くのは、雪のような白髪を震わせる老執事、アルフレッド。
その隣で、目を真っ赤に腫らし、制服の裾を強く握りしめているのは、メイド長のマリーだ。
彼らの後ろには、見慣れた顔ぶれが続いていた。
ヴァルモン家の庭師、台所の少年、そして窓を磨く平民の少女たち。
あの日。
私が王都から追放される、あの断罪の広場で。
絶望に顔を歪めながらも、私の冷酷な一瞥に射すくめられ、沈黙を強いられた者たち。
アルフレッドが、広間の中央で膝をついた。
その背中の丸みが、彼が背負ってきた年月の重みを物語っている。
彼は一度だけ、私に深い、あまりに深い忠誠を捧げるように頭を垂れた。
「殿下、そして皆様。どうか、この老いぼれの最期の戯言をお聞き届けください」
アルフレッドの声は、掠れていた。
だが、その一語一語には、石に刻み込むような質量が宿っていた。
「あの日……お嬢様が、すべての罪を認められたあの日。私共使用人は、本当は、叫び出したかったのでございます」
彼は顔を上げ、震える瞳で広間を見渡した。
「お嬢様が深夜、瞳を血走らせながら調合されていたのは、毒などではございません。……私共のような、医者にもかかれぬ卑しき身分の者を救うための、慈悲の雫であったことを」
「ならばなぜ、その時に言わなかった!」
アルベール殿下が、身を乗り出すようにして叫ぶ。
その声は、もはや怒りではなく、悲鳴に近かった。
「なぜ、彼女が泥を被るのを黙って見ていたのだ!」
「……言わせなかったのです。お嬢様が」
アルフレッドの言葉に、マリーが耐えきれずに嗚咽を漏らした。
彼女は床に両手をつき、絞り出すように言葉を継いだ。
「もし、私たちが真実を語れば……。お嬢様から直接、禁じられた薬を受け取っていた私たちは、全員が『共犯』として審問にかけられます」
彼女の涙が、石床に小さな染みを作っていく。
「あの日、お嬢様は……。私たちの家族が、幼い子供たちが、自分と共に破滅するのを防ぐために。……あえて、私たちを脅されたのです」
静寂が、刃物のような鋭利さで広間を支配した。
「お嬢様は、今まで見たこともないような、冷酷な笑みを私共に向けられました。『口を出せば、お前たちの首を撥ねる』と。……そうやって、無理やり、私たちをこの場から遠ざけたのです」
アルフレッドの頬を、一筋の熱い滴が伝い落ちる。
「ですが……。その笑顔の奥で、お嬢様の指は、血が出るほどにドレスを握りしめておられた。……全てを、お一人で背負うために」
広間から、音という音が消え去った。
かつて私を「毒婦」と呼び、扇の陰で嘲笑っていた令嬢たちの顔が、幽霊のように蒼白に染まっていく。
ベアトリクス侯爵令嬢の手から、小さな扇が滑り落ち、カタンと虚しい乾いた音を立てた。
彼女たちは、今、触れてしまったのだ。
自分たちが「正義」の名の下に消費していた娯楽が、一人の少女が魂を削って作り上げた、あまりに孤独な防衛線であったという現実に。
『やめて……』
私の喉の奥で、乾いた振動が起きた。
声にはならない。
私はただ、視界の端が歪んでいくのを、必死に拒絶していた。
感謝など、指先ほども求めていなかった。
私が完璧な「悪」として退場すれば、それで物語は美しく完結するはずだったのだ。
なのに、レオンの言葉は、容赦なく私の聖域を暴き続ける。
「――それだけではない」
彼の声が、再び広間の質量を引き上げた。
彼は、もう一つの書類の束を、音もなく机に置いた。
「ヴァルモン家の帳簿にはない、奇妙な記録だ。ここ数年、使用人たちの弟妹の誕生日には、必ず名もなき贈り物が届いていたという」
レオンの視線が、不意に、前列で震えている少年へと向けられた。
「差出人は不明。だが、その贈り物は、どれもが子供たちの好みを正確に突いたものだった。……木彫りの犬。手縫いのリボン。……それは、彼らを日常的に観察している者にしか、選べないものだ」
「木彫りの、いぬ……」
その震える声の主は、私の弟、エドガーだった。
まだ幼いエレーヌが、彼の袖をぎゅっと握りしめている。
「姉上は、僕を……。汚いから近づくなと、そう言ったのに。僕が摘んだ花も、捨ててしまったのに……」
エドガーの紫水晶の瞳が、大きく、痛ましく見開かれる。
「お前たちを突き放したのは、自分が断罪された時、家族に累が及ばぬようにするためだ。……彼女が『最低の姉』であればあるほど、お前たちは彼女を見捨てる正当な理由を得られる」
レオンの言葉は、淡々とした事実の羅列だった。
だからこそ、それはどのような断罪の言葉よりも深く、エドガーたちの胸に突き刺さった。
「お姉ちゃん……だったの……?」
エレーヌが、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
彼女の小さな声が、静寂の広間に波紋のように広がっていく。
「夜中に、こっそりお部屋に置いてくれてたの……。お姉ちゃんだったの……?」
「姉上……っ! ああ、姉上……っ!」
エドガーが、その場に泣き崩れた。
両手で顔を覆い、肩を激しく震わせる彼の慟哭が、天井の高い広間に木霊する。
心臓の奥が、熱い鉄を流し込まれたように疼いた。
前世の三十三年、そして今世の十五年。
私が必死に隠し通し、墓まで持っていくはずだった、あまりに不器用で、みっともない愛。
それらが今、衆人環視の中で、無惨なほどに引き摺り出されている。
彼らが、傷つかないために。
彼らが、私を憎むことで幸せに生きられるように。
そう願って作り上げた「完璧な構図」が、レオン・ノワールクールという男の手によって、粉々に粉砕されていく。
「……やめて、ください」
私の唇から漏れたのは、懇願だった。
もう、笑顔を作るための筋肉は、私の意志に従わなかった。
顔は醜く歪み、呼吸は浅く、指先はドレスの布地を引きちぎらんばかりに震えている。
そこに立っていたのは、高潔な悪役などではなく、ただの、剥き出しの子供だった。
アルベール殿下は、ついに膝から崩れ落ちた。
玉座にすがるようにして、彼は自分の両手を見つめる。
「俺は……。俺は、彼女の何を見ていたのだ……」
彼の瞳から、光が死んだ。
彼が守りたかったはずの「正義」が、実は最も救われるべき人間を処刑していたという残酷な真実。
そして、ステラを抱き寄せ、勝ち誇っていたはずのマルグリット・セルヴァンも。
彼女の顔には、もはや余裕の片鱗もなかった。
「あり得ないわ……。人間は、もっと……利己的なはずよ……。自分を殺してまで、他人を守るなんて……」
彼女の扇を持つ手が、カタカタと乾いた音を立てて震えている。
彼女の世界を支配していた「理屈」が、私の理解不能な献身の前に、音を立てて崩壊し始めていた。
私が一人で抱え込み、暗闇の中に葬り去るはずだった、名もなき物語の裏側。
それが今、眩暈のするような白日の下に、曝け出されている。
私は、隣に立つレオンの、重く、確かな体温を感じた。
彼は何も言わず、ただ、私の震える肩をその視線だけで支えていた。
もう、隠す場所はどこにもなかった。
私は、ただのセレスティーヌとして。
剥がれ落ちた仮面の破片を足元に散らしたまま、この残酷で、あまりに眩しすぎる盤面の中央に、立ち尽くしていた。




