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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第49話 偽りの笑顔と、真実の開示

 王宮の回廊は、ひたすらに長く、そして冷たい。


 磨き抜かれた大理石の床が、シャンデリアの光を鏡のように跳ね返している。

 そこを歩む私の靴音が、鼓膜の奥で硬く響いた。

 カツン、カツンと。

 その音は、あの日――私がこの場所で世界から切り離された時とは、決定的に違っていた。


 あの日の足取りは、ただ処刑台へと続く階段を数える囚人のようだった。

 内側から崩落していく心を、精巧に作られた「完璧な微笑」という仮面で塗り潰し、

 誰の記憶にも残らない余白として消え去るための、死に装束の歩み。


 けれど、今は違う。


 右側に、一つの巨大な質量を感じる。

 一切の光を吸い込むような、漆黒の外套。

 レオン・ノワールクール公爵。

 そして、その左側を、迷いのない足取りで歩む一人の少女。

 ステラ・メルヴィユ。


 二人が私と共に歩んでいる。

 ただそれだけの事実が、私の肺に吸い込まれる空気を、鋭い刃から柔らかな熱へと変えていた。


 ステラの琥珀色の瞳には、かつてあった怯えの色は微塵もない。

 そこにあるのは、自らの手で真実を掴み取った者だけが持つ、静かな、けれど苛烈な意志の光。

 彼女はもう、守られるだけのヒロインではないのだ。


「……緊張しているか」


 大広間を仕切る、巨大なオーク材の扉が視界に入った時。

 レオンが、前を見据えたまま、低く短い声を投げた。

 その声は、私の耳の奥で燻っていた不快な雑音を、一瞬で払い除ける。


「いいえ」


 私は、自分の指先に意識を向けた。

 かつて、恐怖のあまり勝手に記憶のシャッターを切っていた指は、今は静止している。

 皮肉なほどに、私の指は、今のこの光景をただ「記録」するのではなく、「体感」していた。


「ただ……少しだけ、異物感があります。わたくしは、もう二度とこの空気の色を見ることはないと思っていましたから」


 私の言葉に、レオンの歩みが微かに緩んだ。

 彼はゆっくりと首を巡らせ、私を見下ろす。

 氷の結晶を閉じ込めたような、底知れない青い瞳。

 その視線が、私の頬に触れた。


「お前は、もう逃げる必要はない」


 レオンの声が、一層低くなる。

 それは命令であり、同時に、重厚な鎖のような約束だった。


「……その顔に、気味の悪い仮面を被る必要もない。お前は、ただお前としてそこに立っていればいい。……あとは、あの嬢ちゃんと俺が、すべてを引き裂いてやる」


 不器用な、あまりにも剥き出しの言葉。

 それを聞いた瞬間、私の唇が、ふわりと持ち上がった。

 筋肉を計算通りに動かした「偽造品」ではない。

 内側から溢れ出した熱が、自然と形を成した、ただの、十七歳の微笑み。


 レオンは一瞬、何かに打たれたように目を瞬かせた。

 それから、無理やり視線を前方へと引き剥がし、足早に歩き出す。

 耳朶が微かに赤らんでいるのを、私は見逃さなかった。

 胸の奥で、小さな灯火が爆ぜたような温かさが広がる。


「行くぞ」


 レオンの合図とともに、近衛騎士たちが重い扉に手をかけた。

 ギィ……と、何世紀もの時間を閉じ込めていたような、重厚な軋みが大広間に響き渡る。


 扉が開かれた瞬間。

 広間を満たしていた数百人の貴族たちの喧騒が、物理的な圧力となって押し寄せてきた。

 香水、酒、そして好奇という名の悪臭。

 だが、その熱気は、私たちの一歩によって瞬時に凍結した。


 冷水を浴びせられたような、不自然な静寂。

 眩いばかりの魔力灯の下、そこにはあの日と同じ「断罪の舞台」が広がっていた。


 円陣を作る貴族たちの視線が、一斉にこちらを射抜く。

 それはまるで、数え切れないほどの針が皮膚を撫でるような感触だ。


「……なっ、なぜ……」

「追放されたはずの、あの毒婦が……」


 数秒の停滞。

 それから、決壊したダムのように、どよめきが広間を埋め尽くした。


 私は、向けられる嫌悪の視線を、正面から受け止めた。

 もう、自分を消し去る必要はない。

 レンズの奥に隠れる「記録者」ではなく、私は、この盤面を塗り潰す「当事者」としてここにいる。


 広間の中央、一段高い壇上。

 そこには、第一王子アルベール・ルミエールが立っていた。


 彼の翡翠色の瞳が、私たちを認めた瞬間、驚愕に歪んだ。

 次いで、隠しきれない焦燥と、醜い怒りがその奥で渦巻く。

 傍らでは、マルグリット・セルヴァンが扇で顔の半分を隠して、毒蛇のような視線をこちらに這わせていた。


 レオンは、圧倒的な威圧感を放ちながら、私とステラを伴って中央へと進み出る。

 彼が歩くたび、私を罵ろうと待ち構えていた貴族たちが、その冷気に圧されて左右に割れた。

 あの日、私を「溝鼠」と呼んだベアトリクスも、嘲笑を浮かべていたシャルロットも。

 レオンの放つ、皮膚を刺すような魔力の余波に、青ざめた顔で後ずさっていく。


 壇上の数歩手前。

 レオンが、ピタリと足を止めた。

 その衝撃が、石床を通じて私の足の裏まで伝わってくる。


「……ノワールクール公爵。それにステラ嬢まで……何の真似だ」


 アルベール殿下が、絞り出すような声を上げた。

 玉座の前で、彼は椅子の背を掴み、指を白くさせている。


「王家の許可もなく罪人を連れ戻すとは、反逆と取られても文句は言えまい。今は政務の報告会だ。私的な感情で場を乱すな! 」


 殿下の叫びは、静寂の中で空虚に響いた。

 対するレオンは、一切の動揺を見せず、ただ低く、重い声を広間に染み込ませた。


「報告に上がったのだ。殿下。……我々が見つけ出した、ある欺瞞と、真実についてな」


 レオンが一歩前に出ると、その隣でステラもまた、殿下の翡翠色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「殿下、わたくしは真実を知りに戻ってきました。あの日、セレスティーヌ様を追い詰めたのは……殿下でも、貴族の皆様でもありません。マルグリット様。貴女が編み上げた、卑劣な嘘だったのですね!」


 ステラの鋭い声が、広間の空気を切り裂いた。

 マルグリットの扇を持つ手が、ピクリと震える。


 レオンは懐から分厚い書類の束……マルグリットが薬師を賄賂で動かした証拠の自白書を取り出し、無造作に机に投げた。


「これは、セルヴァン侯爵家が薬師に書かせた偽の鑑定書に対する、薬師本人の血判付き自白書だ。……彼女を守るという美名の下、お前たちが何をしていたか、すべてここに記されている」


 広間が沸騰したような動揺に包まれる中、ステラは持っていた一枚の羊皮紙を高く掲げた。


「そして、これはあの毒痒草の事件の夜、誰にも見られぬように私の枕元に置かれていたメモです! 殿下、あの方が書く、合理的な、けれど誰よりも優しい筆跡……王宮の記録と、今すぐその目で照合してください!」


 ステラが放つ、熱烈な音。

 それは、レオンの冷徹な事実提示とは対極にある、心に直接響く命の叫びだった。

 二人の異なるアプローチが、アルベール殿下の築き上げてきた「正しい世界」の壁を、内と外から同時に粉砕していく。


 鑑定士が進み出て、震える手で二つの筆跡を比較する。

 広間は、文字通り「息の音」すら奪われた。

 静寂の中で、鑑定士が紙をめくる音だけが、不気味に響く。


「……い、一致……一致、しております……」


 数分後。

 鑑定士の、掠れた声が広間に落ちた。


「筆圧、癖、そして……魔力を介さぬ、純粋な理に基づいた容体変化の予測。これは、間違いなく同一人物のものです。……セレスティーヌ様は、毒ではなく……最高純度の救いを、調合しておられました」


 その報告が響いた瞬間。

 広間のあちこちから、ヒッ、という短い悲鳴が漏れた。


 私を「毒婦」と罵っていた令嬢たちの顔から、さーっと血の気が引いていく。

 彼女たちは、気づいてしまったのだ。

 自分たちが「正義」の名の下に、処刑台へと追い落とした存在が、誰よりも無私に自分たちを救い続けていた聖女であったという、取り返しのつかない矛盾に。


「嘘だ……。そんなはずは、ない」


 アルベール殿下は、フラフラと後退りし、玉座の肘掛けに縋り付いた。


「彼女は、あんなにも完璧な笑顔で、自分の罪を認めたんだ! 誰にも優しくない、心を持たない冷酷な女だと……! なぜ、あの日、彼女は一切の反論をしなかった! 」


 殿下の叫びは、もはや崩落していく世界への、無様な抵抗に過ぎなかった。


 レオンは、その醜態を、氷点下の冷徹さで見据えた。


「……殿下。お前は、ご自身の目で、彼女の『本当の顔』を見たことが一度でもあるのか」


「……っ! 」


「彼女がどれほど自分を殺し、誰かを守るために、その心を切り刻んで笑っていたか。……お前は、その笑顔の裏側にある悲鳴に、気づこうともしなかった。ただ自分が信じたい『正しい物語』を守るために、彼女という実体を、生きたまま切り捨てただけだ」


 レオンの言葉は、静かだった。

 けれど、それは研ぎ澄まされた大剣のように、アルベール殿下の胸の中央を正確に刺し貫いた。


 殿下は、まるで目に見えない一撃を受けたかのように、ガクンと膝を折った。

 玉座にすがりつき、荒い呼吸を繰り返す。


「俺が……間違って、いたのか……? 」


 その呟きは、誰の耳にも届かぬほど小さく、惨めだった。


 私は、その光景を、ただ静かに見つめていた。

 かつての私なら、この状況に耐えきれず、再び「笑顔」で自分を塗り潰していただろう。

 けれど、今の私の右手には。

 私の嘘を暴き、私の本当の顔を拾い上げた、レオン様の重く温かな手の記憶が残っている。


 私は、仮面を被ることをやめた。

 ただ等身大の、剥き出しのセレスティーヌとして、広間に立つ人々を見つめ返した。


 これは、まだ序章に過ぎない。

 私が一人で墓場まで持っていくはずだった、この歪な物語の裏側が。

 今、レオン様とステラという、二人の観測者によって、白日の下に曝け出されようとしていた。


 私は、隣に立つ彼らの気配を感じながら。

 崩れ去る王都の静寂を、ただその肌に刻みつけていた。

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