第47話 ステラの決意 悪意を暴くための調査
湿り気を帯びた廊下に、私の呼吸だけが白く乱れていた。
王宮の空気は、いつも磨き上げられた大理石と同じ味がする。
無機質で、冷たく、そしてどこまでも他者を拒絶する芳香だ。
急ぎ足に進むたび、硬い靴底が床を叩く。
その衝撃は、私の脊髄を伝って脳の奥を小さく揺さぶり続けていた。
脳裏に、あの翡翠の瞳が貼り付いて離れない。
マルグリット。
彼女が微笑むとき、その唇の両端がわずかに吊り上がる。
それは、獲物を値踏みする肉食獣の静寂に似ていた。
かつては「親愛」だと信じ込もうとしていたその表情が、今はただ、喉元に突きつけられた薄氷のように私を竦ませる。
私は、自分が踏みしめている地面が、実は薄い硝子細工であったことに気づいてしまったのだ。
――あの大広間。
セレスティーヌ・ヴァルモン様が背を向けた、あの瞬間。
彼女の背筋は、凍てつく冬の枯れ木のように真っ直ぐで、そして悲しいほどに孤高だった。
罵声を浴びながら彼女が見せた完璧な微笑み。
あれは、感情の欠落などではない。
誰にも自分の内側を触れさせないための、痛切な防壁だったのではないか。
私は、その考えを振り払うように頭を振った。
肺に吸い込む空気が、徐々にその質を変えていく。
華やかな香料の香りが薄れ、代わりに生活の匂いが漂い始めた。
石鹸の残り香、微かな煤、そして誰かが流した汗の湿り気。
そこは、王宮の華やかさが届かない裏区画だった。
陽光を遮る細長い回廊が、まるで巨大な生物の腸内のように続いている。
私は、一人の年配のメイドの前に立った。
彼女の指先は、長年の労働によって節くれ立ち、硬い樹皮のような質感を帯びている。
「あの……少しだけ、お話を伺いたいのです」
私の声は、自分でも驚くほど低く、そして重く沈んだ。
メイドの肩が、見えない糸に引かれたように跳ね上がる。
彼女の瞳に、恐怖と困惑が混ざり合った色が浮かんだ。
アルベール殿下に守られた「寵姫」という名の異物が、こんな掃き溜めに現れたのだ。無理もない。
私は、彼女の冷え切った手をそっと包み込んだ。
その手のひらの硬さこそが、私の知っている真実に近い気がしたから。
「セレスティーヌ様のこと、教えてください。本当の……あの方のことを」
メイドの唇が、震える。
彼女は周囲の闇を恐れるように視線を泳がせ、やがて、喉の奥から絞り出すように言葉を零した。
「……お嬢様は、あのような場所に居てはいけない方でした」
その言葉に含まれた質量に、私の心臓が一度だけ、深く脈打つ。
「他の方々は、私たちを背景のように扱われました。ですが、セレスティーヌ様だけは違った」
メイドは、抱えていたシーツを、引き千切らんばかりに握りしめた。
「粗相をしても、お嬢様は決して声を荒げませんでした。ただ……」
言葉が、沈黙の中に澱む。
「悲しそうな目をなさるのです。まるで、私たちが受けるはずの罰を、あの方が代わりに引き受けておられるような、そんな瞳で……」
私の胸の奥に、鉛を流し込まれたような感覚が走る。
彼女が選んだ「悪女」という仮面。
それは、周囲の醜悪な期待に応えることで、この繊細な世界を維持しようとするための、あまりにも不器用な自己犠牲だったのか。
メイドの声が、さらに低くなる。
それは、秘密の部屋の扉を、錆びついた鍵で開けるような響きだった。
「毒痒草……。あの事件の夜、私は見てしまいました」
全身を走った戦慄が、私の思考を白く塗り潰す。
「銀色の髪が、月の光に透けて見えました。お嬢様は、お一人で……ステラ様の寮の前に立っておられたのです」
メイドの言葉が、私の鼓膜を穿つ。
「その手には、小さな瓶がありました。お嬢様はそれを、祈るように胸に抱えて……」
――あの日。
私の肌を焼き、心を削り取ったあの凄絶な痛み。
マルグリットは言った。「あの方が、あなたを消そうとしたのよ」と。
だが、翌朝に置かれていた、あの緑色の軟膏。
もし、あれが毒の残滓ではなく、彼女の指先から紡がれた慈悲だったとしたら。
「ありがとうございます……」
私は、メイドの手を強く握りしめ、そのまま駆け出した。
背後に残されたメイドの気配が、湿った回廊の闇に溶けていく。
私は自室に戻り、隠していた小さな木箱を暴くように開いた。
中には、あの時の薬と一緒に置かれていた、一枚の羊皮紙。
『患部を清浄な水でよく洗い、この軟膏を薄く塗布すること』
そこに並ぶ文字は、無機質で、冷徹で、そして。
無駄を極限まで削ぎ落とした、研ぎ澄まされた刃のような形をしていた。
私はその紙を握りしめ、王宮の深部、記録保管庫へと足を向けた。
大広間の喧騒とは無縁の、古い紙とインクの匂いが充満する空間。
棚に並ぶ無数のバインダーは、この国の歴史という名の死骸だ。
私は司書に頭を下げ、セレスティーヌ様が過去に残した署名を探り出した。
冷たい床に膝をつき、二つの文字を並べる。
窓から差し込む、斜陽の細い光が、紙の上の筆跡を照らし出した。
――一致した。
文字の終端が、わずかに内側へと巻き込まれる独特の癖。
それは、自分の意志を外部へ漏らすまいとする、彼女の魂の防衛そのものだった。
彼女は、私を助けていた。
私がアルベール殿下の腕の中で、無知な幸福に微睡んでいたその裏で。
彼女はたった一人、汚泥の中に足を踏み入れ、私のために薬を調合していたのだ。
「……っ」
視界が、急激に歪む。
目元から溢れ出した雫が、羊皮紙の上に小さな染みを作った。
私が信じていた「正義」は、マルグリットという怪物が用意した、甘い毒薬に過ぎなかった。
私は、セレスティーヌ様が命がけで守ろうとしたものを、自らの手で蹂躙していたのだ。
あの断罪の日。
彼女が私を見た、あの空虚な瞳。
あれは、裏切りに対する怒りではない。
私が道具として使われていることへの、深い憐憫だったのではないか。
胸の奥が、熱い鉄で焼かれるように痛む。
呼吸をするたびに、肺の奥が裂けるような感覚が私を苛んだ。
私は、自分が流している涙が、いかに浅ましいものであるかを思い知った。
泣くことで許しを請おうとする、この卑怯な習性。
セレスティーヌ様は、決して泣かなかった。
たとえ、すべてを失うと分かっていても。
私は、羊皮紙を胸に強く押し当てた。
紙の端が、私の皮膚を薄く切り裂く。
その小さな痛みが、今の私には唯一の支えだった。
立ち上がったとき、私の視界からは、もはや迷いという名の霧は消えていた。
足元に転がっていた、無垢な被害者という名の死骸を跨ぎ越す。
私は、濡れた頬を拭うことさえしなかった。
この冷たさこそが、私の贖罪の始まりであるべきだ。
「……行かなくちゃ」
私の声は、もう震えていなかった。
それは、冷たい石床を叩く足音と同じ、硬質な響きを帯びていた。
図書室を出て、私はアルベール殿下の執務室へと続く、長い回廊を歩き出す。
壁に飾られた歴代王族の肖像画が、私の背中を嘲笑うように見下ろしている。
だが、その視線のどれもが、今の私には羽毛のように軽い。
私のポケットには、一通のメモ。
胸の奥には、二度と消えることのない、凍てつく炎。
マルグリットが描いた「完璧な物語」を。
彼女が編み上げた、この悍ましい脚本を。
私は、私のこの手で、根こそぎ引き裂いてやる。
執務室の重厚な扉が、目の前に迫る。
その向こうには、私が信じ込ませてしまった「偽りの真実」を抱く殿下が待っている。
私は、扉のノッカーを握りしめた。
冷たい真鍮の感触が、私の手のひらに、決定的な拒絶と覚悟を刻み込む。
私が、彼女の毒になる。
セレスティーヌ様が、一人で背負い続けたあの沈黙を、私は今、剥き出しの叫びへと変えるのだ。
――物語の終わりは、私が決める。
私は深く、長く、肺の底に溜まった汚れた空気を吐き出した。
そして、一度も振り返ることなく、運命という名の扉を押し開いた。
その先に待つのが、どれほど苛烈な断罪であったとしても。
私はもう、この手を二度と離さない。




