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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第46話 悪役令嬢の帰還とヒロインの決意

 重厚な黒塗りの馬車が、舗装された石畳を噛み潰すように進んでいく。

 車輪が溝を跳ねるたび、分厚い革張りの座席を介して、鈍い衝撃が背骨を突き上げてきた。

 外の喧騒を遮断するその空間は、まるで深海に沈む潜水艇のように静まり返っている。


 向かいの席には、漆黒の外套に身を包んだレオンが座っていた。

 彼は腕を組み、彫刻のような厳格さで目を閉じている。

 揺れる車内においても、その重心は微動だにせず、ただそこに在るだけで空気を圧迫していた。


 私は、指先でビロードのカーテンをわずかに押し広げた。

 隙間から流れ込んできたのは、冬の乾いた風と、巨大な石の壁が放つ威圧感だ。

 ルミエール王国の中心、王都。

 私の呼吸のすべてが刻まれていたはずの、かつての揺り籠。


 あの日、私は装飾のない剥き出しの板に座らされ、この門をくぐり抜けた。

 背中を叩く罵声と、足元で舞い上がる泥。

 地位も、名誉も、そして自分という存在の証明さえも、すべてを背後の闇へと捨て去った。


 誰の記憶にも残らない、ただの「空洞」になればいいと思っていた。

 私が悪役という名の楔となって、この国の歪みを一身に受けて消えれば。

 アルベール殿下とステラの歩む道は、春の陽光に満ちた平坦なものになると信じていた。


 だが、今、網膜に焼き付く景色は、私の計算を無惨に裏切っている。


 城壁を越え、市街地へと足を踏み入れた瞬間に気づいた。

 漂ってくるのは、活気ある煮炊きの匂いではない。

 それは、溜まった泥水が腐敗し、人々の焦燥が焦げ付いたような、淀んだ異臭だった。


 かつて、市場の角で響いていた商人たちの野太い笑い声は絶えている。

 行き交う人々は一様に肩をすぼめ、口元を布で覆い、まるで何かに追われるように足早に去っていく。

 その視線はどこにも定まらず、ただ地面の亀裂ばかりを追っていた。


 特に、貧民街の方角から流れてくる空気は、鉛のように重い。

 私が王都にいた頃、夜の闇に紛れて施していたあれが、もうどこにも存在しないのだ。

 匿名で流し続けていた、疫病を阻むための苦い薬湯の記憶。


 守り手が消えた街で、病魔は音もなく、しかし確実に人々の喉元を愛撫している。

 本来ならば防げたはずの、ごく小さな「綻び」。

 それが今や、街全体の皮膚を食い破るような、巨大な潰瘍へと成り果てていた。


 すれ違う貴族たちの馬車も、その変質を雄弁に物語っている。

 以前よりも格段に増えた護衛の数。

 抜き放たれんとする剣の柄を握る、騎士たちの強張った拳。


 ヴァルモン公爵家が数代かけて編み上げた、毛細血管のような網。

 それを私が強引に引き千切り、運用を止めてしまったことによる代償。

 反王子派の貴族たちは、もはや物陰に潜むことすらやめ、公然と牙を剥き始めていた。


「……お前が描いた絵画は、随分と色が濁っているようだな」


 不意に、底から響くような声が鼓膜を震わせた。

 レオンが、その冷徹な青い瞳を薄く開けていた。

 彼は窓の外を見ることもなく、ただ私の動揺を正確に射抜いている。


「ええ。仰る通りですわ」


 私はカーテンから指を離し、膝の上で冷たくなった手を重ねた。

 指先が、わずかに震えているのがわかる。

 それは恐怖ではなく、己の傲慢に対する激しい拒絶だった。


「私が物語の端に退けば、すべては美しく調和するのだと……そう過信しておりました。

 ですが、私の選んだ独善が、結果としてこの街の喉を絞めることになった」


 ステラをマルグリット・セルヴァンの毒から守るために配していた、音なき影たち。

 彼らへの資金源が断たれた今、あの少女は剥き出しのまま、悪意の渦中に立たされている。

 私が守りたかったはずのものは、私の手によって、その根腐れを加速させていた。


「後悔しているか」


 レオンの問いは、刃のように鋭く、そして重い。

 彼は答えを急かすことなく、ただ私の肺の動きを観察するように見つめてくる。


「……いいえ」


 私は、奥歯を噛み締め、その重力を跳ね返した。

 視線を逸らさず、彼の冷たい瞳の中に、私の意志を叩きつける。


「後悔などという、温い感傷に浸るつもりはありません。

 私が描いてしまったこの醜い惨状は、私の手で塗り潰す。

 フレームの外側から眺めるのをやめ、その中心へと、再び踏み込むだけですわ」


 私はもう、記録することだけに特化した、命なき硝子球ではない。

 守るべきもののために、自ら泥にまみれ、世界を掻き乱す一人の女として。

 この歪んだ物語の結末を、強引に奪い取るために戻ってきたのだ。


 私の言葉を聞き、レオンの口角が、ほんの数ミリほど動いた。

 それは微笑みというにはあまりに硬く、だが、確かな熱を帯びた変化。


「……勝手にしろ。俺は、俺の領地の薬師が消えるのを好まないだけだ」


 相変わらずの、氷のような言葉の裏に隠された嘘。

 だが、その不器用な突き放しが、今の私にはどんな甘い言葉よりも強く、胸に沈殿した。


「ありがとうございます、レオン様」


 私が向けた微笑は、もはや仮面のように貼り付いたものではなかった。

 彼はわずかに眉を寄せ、鬱陶しそうに鼻を鳴らすと、再び窓の外へと顔を背けた。

 その横顔に、私は説明のつかない温度を感じていた。


 馬車は、石造りの王宮へと向けて、静かに、しかし抗いようのない質量を持って進む。

 私の背中で、かつてないほど静かで、それでいて狂おしいほどの焔が爆ぜた。


 ***


 同じ頃、王宮の華美な一室。

 ステラ・メルヴィユは、窓辺の長椅子で、開いたままの分厚い本に指を添えていた。


 セレスティーヌが断罪され、その姿を王都から消してから、数週間。

 ステラを包む世界は、劇的な塗り替えを終えていた。


 第一王子アルベールは、彼女を「聖域」として扱い、その周囲に厚い庇護の壁を築いた。

 かつて彼女の出自を嘲笑していた令嬢たちは、一転して、砂糖をまぶしたような追従を見せる。

 親友であるマルグリットの牽制もあり、ステラの日常からは、あらゆる「棘」が排除されていた。


 それは、誰もが羨むような、完成されたハッピーエンドのはずだった。


 だというのに、ステラの胸の奥には、いつからか小さな礫が入り込んでいる。

 息を吸うたびに、それは心臓の柔らかい壁を擦り、鈍い痛みを刻み続けていた。


「……どうして」


 ステラは本を閉じ、小さく呟いた。

 その視界の端にちらつくのは、愛しいはずの王子の顔ではない。

 あの断罪の日、大広間で冷たく光っていた、銀髪の令嬢の残滓だった。


 セレスティーヌ・ヴァルモン。

 高慢で、冷酷で、自分を陥めることだけに執念を燃やした、恐るべき悪。


 誰もがそう言い、彼女自身もそれを否定しなかった。

 マルグリットも、アルベールも、その事実を補強するために、数々の証拠を積み上げた。


 だが、ステラの指先が覚えている感覚は、その言葉を拒絶していた。


 記憶が、静かに逆流を始める。

 机の中に、触れれば激しい激痛が走る『毒痒草』が仕込まれていた、あの朝。

 マルグリットは、まだ草の色さえ確かめぬうちに「セレスティーヌ様の仕業よ」と断定した。


 そして翌朝、部屋の前に置かれていた、青いガラス瓶入りの軟膏。

 マルグリットはそれを「罪を隠すための姑息な偽装」だと一蹴した。


 さらに、無惨に引き裂かれ、泥水に浸されていた教科書。

 それが、昼休みが終わる頃には、一編のシワもなく修復されていたこと。

 マルグリットは「魔力の誇示と、執拗な嫌がらせの一環」だと説明した。


『考えてもみて、ステラ。あんなに完璧に直すなんて、かえって悪意を感じるわ』


 その言葉を、当時は恐怖とともに飲み込んだ。

 だが、今、静寂の中で思い返せば、その論理には致命的な空洞がある。


 本当に彼女が私を憎んでいたのなら、なぜあんなにも献身的な修復を施したのか。

 軟膏の瓶に添えられていた、細かく震えるような筆跡のメモ。

 そこには、使用後の皮膚の経過を懸念する、切実な祈りのような言葉が並んでいた。


 そして何よりも、あの大広間で私が見た、彼女の最後。


『はい。仰る通りです』


 すべての罵倒を受け入れ、深々と頭を下げた彼女の唇には、完璧な微笑があった。

 周囲がそれを「傲慢な開き直り」だと罵る中で、ステラだけは見ていたのだ。


 彼女のドレスの裾を握りしめていた、白く細い指の、激しい震えを。

 微笑みを形作る頬の筋肉が、内側からの悲鳴に耐えきれず、わずかに痙攣していたことを。

 それは誰かを嘲笑う顔ではなく、自分自身を処刑している者の顔だった。


「マルグリットは、私を守ってくれている。……でも」


 ステラは、膝の上で自分の手を強く握りしめた。

 爪が手のひらに食い込み、確かな痛みを呼び起こす。


『あなたを守りたいからよ、ステラ』


 そう言って微笑むマルグリットの、翡翠色の瞳。

 その奥底に、時折ふっと浮かび上がる、爬虫類のような冷たい光。

 それは自分と同じ目線に立つ友人のものではなく、獲物を観察する者のそれだった。


「私、ずっと……怖かっただけなのかもしれない」


 何の後ろ盾もない自分が、唯一の味方を疑って、再び孤独という闇に放り出されることを。

 その恐怖が、私の目と耳を塞ぎ、彼女が差し出し続けた真実を拒んでいた。


「セレスティーヌ様は……本当は、どんな目で私を見ていたの?」


 ステラは立ち上がり、足元の柔らかな絨毯を、踏みしめるように歩き出した。

 心地よいはずの毛足の感触が、今はひどく不透明で不気味に感じられる。


 もし、この穏やかな日々が、誰かの血によって購われた偽物だとしたら。

 彼女が悪役という檻に自ら入り、私を外側の光へと押し出してくれたのだとしたら。


「……何も知らないまま、守られているだけの人形ではいたくない」


 ステラの琥珀色の瞳に、これまでになかった、鋭い質量が宿った。


 与えられた役割を演じるだけの「ヒロイン」という殻を、今、脱ぎ捨てる。

 自分の足で歩き、自分の指で真実の肌に触れ、隠された骨格を暴き出すのだ。


「セレスティーヌ様が、守ろうとしたもの。……私が、見つける」


 彼女は決意を胸に、部屋の重い扉へと手をかけた。

 その先にあるのは、輝かしい王宮の回廊ではない。

 泥と真実が混ざり合う、誰も知らない深淵への入口だった。


 真実へと続く扉が、少女の小さな手によって、今、音もなく抉じ開けられようとしていた。

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