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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第45話 王都からの知らせ──構図が崩れる

 指先が、その群青に沈んでいく。


 レオンから贈られたベルベットのドレスは、視覚よりも先に触覚を支配した。

 指の腹を滑る起毛の、微かな抵抗。

 それは不器用に差し出された彼の好意を、物理的な質量に変えて編み上げたような重みだった。


「好意以外に、何がある」


 昨夜、彼の唇からこぼれた言葉の残滓が、耳の奥で微かな熱となって居座っている。

 吐息の白さが混じるほど冷え切った廊下を歩いていても、その記憶だけが、胸の奥で小さな炭火のように爆ぜ続けていた。


 窓の外では、ノワールクール領の冬が、その牙を剥いている。


 視界の端々を白く塗り潰す猛吹雪。

 それは容赦なく体温を奪い、剥き出しの肌を氷の刃で削り取っていくような鋭さだ。

 だが、今の私には、その過酷ささえもがどこか心地よく感じられた。


 広場を通れば、雪遊びに興じる子供たちの、高く尖った笑い声が風に乗って届く。

「先生!」と呼んで駆け寄ってくる彼らの、赤く火照った頬の弾力。

 長老トーマスが、節くれだった手で差し出してくれた、湯気の立つ香草茶。


 それら一つ一つの摩擦が、私の輪郭を確かめていく。

 もう、顔の筋肉を硬直させて「完璧な笑顔」を張り付かせる必要はない。

 ここでは、ただ呼吸をするだけで、自分がこの大地の一部であることを許されている。


 三十三年の前世と、十五年の今世。

 私を縛り続けてきた透明な牢獄(シナリオ)の壁が、この冷たい風の中で少しずつ剥離していく。


『ここにいたい』


 それは、喉の奥で形を成す前の、湿った重みを持った祈りだった。

 だが、運命という名の巨大な歯車は、私が手に入れたばかりの薄氷のような安寧を、無慈悲に踏み砕く準備を整えていた。


 午後の執務室。

 薬草の香りが染み付いた報告書を抱え、私はマホガニーの扉を叩いた。

 重厚な木材が、私の拳の震えを冷たく撥ね返す。


「入れ」


 低く、地を這うような声。

 扉を開けた瞬間、室内に充満していた濃密な沈黙が、全身にのしかかった。


 暖炉では薪が激しく燃え盛っている。

 それなのに、机の向こう側に座るレオンの周囲だけは、時が凍結したかのような冷気が漂っていた。

 彼の深い青い瞳は、書類の山を射抜くように凝視したまま動かない。


「公爵様。来月分の備蓄計画を……」


 私の言葉を遮るように、彼は手にしていた羽ペンを置いた。

 カタン、という乾いた音が、静寂に鋭い亀裂を入れる。

 彼は無言のまま、一枚の羊皮紙を机の中央へと滑らせた。


 王宮の紋章が刻まれた紅い封蝋。

 それが、引き千切られた肉のように無残に割れている。


「……読め」


 感情を一切削ぎ落とした、剥き出しの鉄のような声。

 私は胸元に抱えた報告書を強く握りしめ、吸い寄せられるようにその紙面へと視線を落とした。

 それは、王都の闇を這う密偵が、その命と引き換えに持ち帰ったであろう絶望の断片だった。


『王都貧民街。疫病の蔓延。死者、昨年の三倍』


 文字が、網膜に突き刺さる。

 湿ったインクの跡が、まるで泥にまみれた死者の指先のように見えた。


 外交の停滞。国境の軋み。

 そして、ステラ・メルヴィユ――あの清らかな光の乙女の周囲から、護衛たちが一人、また一人と消えていく現実。


 最後に記された、反王子派の重鎮の跳梁。

 我が実家、ヴァルモン公爵家への、毒を塗った誘い。


「……あ」


 指先から、感覚が消えていく。

 抱えていた報告書が、カサリと音を立てて床に滑り落ちた。

 視界が不自然に歪み、足元の絨毯が底なしの沼に変わっていくような感覚。


 窓の外。

 厚い雲に閉ざされた南東の空。

 そこにあるのは、私が全てを投げ打って守ったはずの、美しい構図の残骸だった。


「……崩れていく」


 震える唇から漏れたのは、ひどく掠れた、異物の混じった声。

 私が「悪役令嬢」の役割を完璧に演じ切り、舞台から退場すれば。

 あとの世界は、自動的に幸福な結末へと収束していくはずだった。


 だが、私は傲慢だったのだ。

 レンズの外側に逃げたつもりで、自分の存在がこの世界に及ぼしていた摩擦を、過小評価していた。


 貧民街に流していた匿名の下剤や、炎症止めの薬。

 ヴァルモン家の権力を使って封じ込めていた、貴族たちの薄汚い欲望。

 そして、ステラの影に配置した、私の私財の全てを注ぎ込んだ盾たち。


 それらは全て、私の「死」と共に消失した。

 私が消えたことで、世界は美しくなるどころか、その土台を失って崩壊を始めていた。


「マルグリット……」


 脳裏に、鮮やかな赤毛の女が浮かぶ。

 翡翠の瞳に冷徹な計算を宿し、ステラを「餌」として愛でる真の捕食者。

 私のいない空白を、彼女は今、あざ笑いながらその狡猾な舌で舐めとっている。


 胃の奥から、酸っぱいものがせり上がってくる。

 ドレスを握りしめる拳に力が入りすぎて、爪が手のひらの肉を食い破る。

 じわり、と滲んだ血の鉄錆の味が、口の中に広がった。


 私の独りよがりな自己犠牲。

 それが、最も守りたかった人々の首を絞め、見知らぬ誰かの命を奪っている。

 この手に残った群青色のベルベットが、今は呪いのように重い。


「……どうする」


 不意に、部屋の温度が一段階下がったように感じられた。

 レオンが椅子から立ち上がり、ゆっくりと、獲物を追い詰める獣のような足取りで近づいてくる。


 彼の長身が作り出す影が、私を完全に飲み込んだ。

 その影はひどく濃密で、逃げ出すことも、目を逸らすことも許さない。


「王都に、戻るか」


 その問いかけは、私の胸の空洞を直接、冷たい指でまさぐるような響きを持っていた。


 王都。

 そこは、私が一度死んだ場所。

 数多の憎悪を浴び、唾棄され、石を投げられた、あの奈落(舞台)


「……ですが、わたくしは。この領地の、地方病の処置が……」


 言葉が、上滑りしていく。

 私の脳が、必死に「留まるための正論」を掻き集めようとしている。

 ティムの顔。ミリーの笑い声。

 それらを盾にして、再び傷つくことから逃げようとする、醜い本能。


 だが、レオンは私の卑怯さを、鋭い眼差しで一刀両断にした。


「領民を言い訳にするな」


 鼓膜を叩く、氷の刃。

 彼は私の数センチ手前まで詰め寄り、その絶対零度の瞳で、私の深淵を覗き込む。


「俺は、お前がどうしたいのかを聞いている。……お前の意志を、ここに置け」


 ――お前の意志を。


 その瞬間、頭の中で硝子が砕け散るような衝撃が走った。

 私は、誰かのために「正しい自分」を選び続けてきた。

 この三十三年間も、今の十五年間も、ずっと。


 自分の感情を押し殺し、物語(シナリオ)という名の檻の中で、ただ最善の駒であろうとしてきた。

 けれど。


 今、私の心臓が、痛いほどにその存在を主張している。

 冷たい汗が背中を伝い、肺が新しい空気を求めて、激しく喘いでいる。


 私は、透明な背景になど、なりたくなかったのだ。


 ステラを助けたい。

 マルグリットの計算を、その根底から叩き潰したい。

 そして、私を「娘」として愛した人々の、その絶望を、私の手で塗り替えたい。


 私はゆっくりと、俯けていた顔を上げた。


 視界を覆っていた霧が、一気に晴れていく。

 目の前にいるのは、救い主でも、冷酷な支配者でもない。

 ただ、一人の(レオン)だ。


 頬を震わせ、唇を噛み締め、不格好に歪んだ。

 それが、今の私の、剥き出しの貌だった。


「……戻ります。わたくしの、意志で」


 声が、部屋の隅々まで染み渡っていく。

 それは震えていたが、かつての「完璧な笑顔」とは違う、重い質量を伴っていた。


「構図を守るためではありません。……わたくしが、あの淀んだ『画』をめちゃくちゃに壊したい。この手で、奪われたものを取り戻したいからです」


 初めて口にした、強欲な叫び。

 それを聞いたレオンの瞳に、見たこともない、狂おしいほどの光が宿った。


 彼は深く、長く、肺の中の冷気を吐き出した。

 そして、驚くほど柔らかな、微かな微かな微笑を浮かべる。


「……なら、準備をしろ」


 彼は背を向け、壁に掛かっていた厚手の外套を手に取った。

 その動作には、一点の迷いも、澱みもない。


「……公爵様?」


「俺も行く。王都の連中に、一つ教えてやらねばならない」


 レオンは扉に手をかけ、振り返らずに告げた。

 その背中は、かつて私を突き放した「背景」ではなく、今はこの世で最も信頼に足る、巨大な盾のようだった。


「ノワールクール公爵家が選んだ薬師を。誰にも、指一本触れさせはしないと」


 ――ドクン。


 胸の奥で、何かが決定的に融合けた。

 孤独に消えていくはずだった私の物語に、彼という名前が、消せない墨汁のように深く、深く浸透していく。


 私は、床に落ちたままの報告書を、強く、強く拾い上げた。

 紙の縁で指先を切った。

 けれど、その痛みが、何よりも私を奮い立たせる生の証だった。


 ***


 自室に戻り、私はクローゼットを静かに開いた。


 そこには、群青色のドレスが静かに佇んでいる。

 レオンが私のために選んだ、未来の象徴。


 これを着て、彼の隣で光祭りを楽しむはずだった穏やかな日々は、もう来ないかもしれない。

 王都に戻れば、私は再び、泥の中を這いずり、返り血に濡れることになるだろう。


 だが、私はもう迷わない。


 透明な記録者としてのセレスティーヌは、あの日、あの断罪の場で死んだ。

 今の私は。

 自らの意志で、自らの罪を背負い、愛するもののために世界を壊す一人の人間だ。


 私はドレスの裾をそっと撫で、その柔らかさを指の記憶に刻みつけた。

 そして、乱暴にクローゼットの扉を閉める。


 カチリ、と錠が閉まる音が、戦いの始まりを告げる合図のように響いた。


 鞄に詰め込んだ、磨り潰したばかりの薬草の、苦く、強い薫り。

 窓の外では、雪雲の切れ間から、鋭い冬の光が大地を射抜いていた。


 物語は、私が用意した予定調和の結末を破り捨て、誰も知らない結末へと加速していく。


 そして。

 私の横には、あの日と同じ、痛いほどに真っ直ぐな、あの青い瞳がある。


 私は重い鞄を肩にかけ、扉を開けた。

 その先にあるのは、かつて恐れた闇ではない。

 私が、私の手で書き換えるべき、広大な白紙だった。

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