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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第44話 氷の公爵が贈る群青のドレス

 窓枠の隙間から這い込んできた冬の匂いが、鼻腔の奥を微かに刺した。


 意識の境界線が、ゆっくりと、しかし確実に明瞭になっていく。

 分厚い羊毛の毛布は、夜の間に吸い込んだ体温を抱え込み、ひどく重い。

 私はその重みを跳ね除けるようにして、石造りの床へ足を下ろした。


 肌を撫でる大気は、暖炉の熾火が放つ微かな熱を、とうの昔に忘れてしまったかのように冷徹だ。

 肺の奥までその冷気を吸い込むと、眠気という名の澱みが、肺胞の一つひとつから剥がれ落ちていく。


 かつての私なら、この瞬間に作業を開始していただろう。

 鏡を見るよりも先に、頬の筋肉をミリ単位で調整し、感情を遮断するための鍍金を施す。

 誰の記憶にも、誰の視界にも、不純物として残らないための完璧な死顔。


 だが、今朝の指先は、自分の肌を強張らせることを拒んでいた。


 昨夜、雪が音もなく降り積もる庭園で、彼が私に突きつけた言葉。

 それは言葉というよりも、私の魂を包んでいた薄氷を、素手で叩き割るような暴力的な温度だった。


『俺の前では、お前はもう、その気味の悪い仮面を被るな』


 机の上に、無造作に置かれた小さな円。

 ティムとミリーが、不器用な指先で編んでくれた、枯れかけた野の花の冠。

 その乾いた茎の手触りが、指の腹に微かな摩擦を伝える。


 私は、鏡の前に立った。

 そこに映るのは、かつての透明な亡霊ではない。

 寝癖のついた銀糸の髪と、睡眠の余韻を残したままの、ひどく心許ない一人の少女だ。


 私は、鏡の中の自分に向けて、ゆっくりと口角を引き上げてみた。

 筋肉が強張り、引き攣るような感覚がある。

 脳が記憶している「正解」の形ではない。

 けれど、胸の奥底。かつて凍土だった場所から、じわりと滲み出した何かが、表情を押し上げている。


「……ひどい顔」


 独り言が、冷えた室内に小さな波紋を作る。

 それは、世界を拒絶するための呪文ではなく、今ここに自分が存在することを確かめるための鼓動のようだった。


 私は、暗い茶色のワンピースに袖を通した。

 使い古された布地の、ざらついた質感が肌に馴染む。

 その上から、重い灰色のローブを羽織り、私は部屋を出た。


 ***


 城下町を包む空気は、尖った氷の粒を含んでいるようだった。

 石畳を踏みしめる靴音が、乾いた響きを立てて広場へと吸い込まれていく。


 かつての私は、この道を歩く時、自分の存在を景色の一部へと翻訳していた。

 誰の視線も捉えず、誰の意識にも引っかからない、無機質な点として。


 だが、今の私には、領民たちの放つ熱が、物理的な圧力となって押し寄せてくる。


「セレスティーヌ先生、おはようございます! 今朝は一段と冷え込みますね」


 声をかけてきたのは、パン屋の親父さんだ。

 彼の大きな手から立ち上る、焼きたての小麦の香りと、生命力に満ちた呼気。

 それが、私の周囲の空気をわずかに揺らす。


「先生、昨日いただいたお薬のおかげで、孫の熱がすっかり下がりました」


 老婆の震える手が、私のローブの袖をそっと引く。

 その指先の乾いた感触。私に向けられた、濁りのない、真っ直ぐな感謝の質量。

 それは、王都で浴びせられた罵声よりも、ずっと重く、私の身体に沈殿していく。


「おはようございます。ぶり返さないよう、白湯をたくさん飲ませてあげてくださいね」


 私の口から滑り出た言葉は、かつてのような「冷たい壁」ではなかった。

 相手の懐に入り込み、その体温を確かめるような、不器用な接触。


 配薬所のテントに入ると、乾燥した薬草の、むせ返るような青臭い匂いが鼻を突いた。

 助手のリリーが、大鍋の前に立ち、必死に木べらを動かしている。


「おはようございます、セレスティーヌ様! 今日こそは、完璧な煎じ液を……! 」


「ええ。でもリリー、火加減を間違えれば、薬草はただの炭になるわ」


 火にかけられた大鍋から、蒸気が立ち上る。

 その湿り気を帯びた熱気が、私の頬を湿らせる。

 リリーの真剣な横顔、薪が爆ぜる音、薬草が放つ苦い芳香。


 それらすべてが、私という存在を、この現在という地点に強く繋ぎ止めていた。


 かつて、自分が透明な記録者であろうとした日々。

 誰の人生にも関与せず、フレームの外側で孤独を飼い慣らしていた自分。

 それが、まるで遠い異国の、質の悪い絵画のように感じられた。


 私は今、この土地の泥や、人々の吐息や、焦げ付いた薬草の匂いの中に、確かに埋没している。

 それは、かつて恐れていた「物語の崩壊」ではなく。

 一人の人間として、世界と摩擦を起こしながら生きるという、ひどく贅沢な疲労感だった。


 ***


 陽が傾き、空が深い群青へと染まり始める頃。

 城へと戻った私は、自室の扉を開けた瞬間、その異物に足を止めた。


 部屋の中央。

 殺風景なテーブルの上に、場違いなほどの気品を湛えた箱が置かれていた。

 純白の箱に、月光を反射するような銀色のリボン。


「……お戻りになられましたか、セレスティーヌ様」


 影の中から現れた家令の声に、私の肩がわずかに跳ねる。


「これは……? 」


「公爵閣下より、セレスティーヌ様への贈り物でございます」


 贈り、物。

 その言葉の響きが、耳の奥で不自然に反響する。

 私は、吸い寄せられるように箱へと近づいた。


 銀色のリボンを解く。

 滑らかな絹の感触が、指先を滑り落ちていく。

 蓋を開け、丁寧に敷き詰められた薄紙を払った瞬間、私は反射的に息を呑んだ。


 そこに横たわっていたのは、夜そのものを切り取ったような、深い群青色の塊。


 王都の社交界で見た、軽薄なレースや、虚飾に満ちた宝石を散りばめたドレスではない。

 この北の地の、厳しい冬に耐えうるだけの厚みを持った、最高級のベルベット生地。

 その表面を撫でれば、指先が生地の中に沈み込むような、圧倒的な密度の触感。


 胸元には、雪の結晶を模した銀糸の刺繍が。

 派手さはないが、光の角度によって、まるで冬の星座が瞬くように、静かに、強く、輝きを放っている。


 箱の底には、純白の毛皮のケープと、私の足に馴染むよう計算された革の靴。

 それらはすべて、一人の女性が、冷たい風に身を震わせることのないようにと願う、誰かの意志の結晶だった。


「閣下自ら、生地の色から意匠に至るまで、細かくご指定になられました」


 家令の言葉が、私の鼓動を加速させる。


 彼は、知っているのだ。

 私が今まで、灰色のローブを纏い、自分を消し去ることで自分を守ってきたことを。

 そして。

 私が、かつて王子の婚約者として「役割」を纏わされていた時の、あの空虚な重みをも。


 このドレスは、重い。

 けれど、それは私を縛り付けるための重りではなく。

 私という存在を、この世界に繋ぎ止めるための錨のような重みだった。


「……公爵様は、どちらに? 」


「書斎にいらっしゃいます」


 私は返事もそこそこに、部屋を飛び出した。

 厚いローブの裾が、廊下の壁に擦れる音。

 自分の足音が、いつもよりずっと、確かな重量を持って石床を叩いている。


 ***


 重厚なマホガニーの扉の前に立ち、私は一度、肺の空気をすべて吐き出した。

 震える指先で、扉を叩く。


「入れ」


 中から響いたのは、いつもの、低く、冷徹な響き。

 けれど今の私には、その声の裏側に潜む、不器用な震えが、肌を刺すように伝わってきた。


 部屋の中は、暖炉の火が爆ぜる音と、ペンが紙を走る音だけが支配していた。

 レオンは机に向かい、山積みの書類をさばいている。

 燭台の火が、彼の銀灰色の髪に、鋭い光と深い影を落としていた。


 私が机の前に進み出ても、彼は視線を上げない。

 ペン先が、規則正しく紙を削る音だけが続く。


「……部屋に戻ったか」


「はい。あの……公爵様。お部屋に届いていた、あの品ですが……」


 私が切り出すと、彼はようやく、羽ペンを置いた。

 インクの、わずかに酸っぱい匂いが鼻を突く。


 レオンは、ゆっくりと背もたれに身体を預け、氷のような青い瞳を私に向けた。

 その瞳の中に、私が映っている。

 それは、私が最も恐れ、そして最も渇望していた、他人という鏡。


「来月、領地の冬の光祭りがある。お前には、領民の命を救った薬師として、同席してもらう」


 彼は腕を組み、突き放すような口調で言葉を継いだ。


「そのみすぼらしい灰色のローブでは、ノワールクール公爵家の体裁に関わる。式典にふさわしい衣服を、事務的に用意したまでだ」


 また、だ。

 彼はいつも、こうして「体裁」や「義務」という名の厚い鎧を、言葉に纏わせる。

 もし本当に事務的なものであれば、あんなにも私の肌に馴染む色は、あんなにも私の身を守るための厚みは、必要ないはずなのに。


 かつての私なら、その鎧を尊重し、私もまた無の仮面を被って、礼を述べて立ち去っていただろう。

 けれど、昨夜。

 彼が私の仮面を壊したのだ。

 ならば、私も彼のその拙い防壁を、そのままにはしておけない。


 私は、自分の胸元。ローブの上からでも伝わってくる、激しい鼓動を指先で押さえた。

 そして、彼の瞳から一切、視線を外さずに問いかける。


「……あのドレスは、単なる体裁のためだけに、選ばれたものには見えませんでした」


 レオンの眉が、僅かに跳ねる。


「公爵様。これは……わたくしへの『好意』として、受け取ってもいいのですか? 」


 静寂。

 時が止まったかのような、重密な真空。

 暖炉の薪が、パチン、と大きく爆ぜた。


 レオンの指先が、机の上でピクリと動く。

 彼は一度、私から視線を外した。

 そして、何かに耐えるように拳を握り、吐き出すような声で言った。


「……好意以外に、何がある」


 その声は、低い地鳴りのようでもあり。

 あるいは、ようやく決壊した、凍土の下の奔流のようでもあった。


 ドクン。

 肋骨の裏側で、命の塊が激しくのたうつ。

 彼が、認めたのだ。

 誰にも関心を持たず、ただ冷徹な公爵として生きてきた彼が。

 私という、一人の歪な女を、自らの領域へと引き入れることを。


 目を逸らした彼の耳朶が、微かに朱色に染まっている。

 その変化が、私の心臓をさらに強く、甘く、締め付ける。


 私がずっと恐れていた、「誰かに見られること」。

 それは、かつては裸で戦場に立たされるような屈辱だった。

 けれど今。

 彼に見つめられ、彼に存在を認められたこの瞬間。

 私を包み込んだのは、生まれて初めて感じる、暴力的なまでの安堵だった。


 透明である必要はない。

 ノイズとして消える必要もない。

 私は、ここに、血の通った一人の女として、彼に観測されている。


 顔の筋肉が、勝手に解けていくのがわかった。

 もう、調整する必要などない。

 目元が熱く潤み、口角が自然な、緩やかな曲線を描く。


「……ありがとうございます、レオン様。わたくし、とても……とても、嬉しいです」


 私が、一片の嘘も混じらない、魂の底からの微笑みを向けると。

 レオンは、まるで強烈な光を浴びたかのように、ハッとして私を凝視した。

 そして、弾かれたように再び顔を背け、片手で乱暴に口元を覆った。


「……その顔を、他の奴の前で安易に見せるな。いいな」


「えっ? 」


「命令だ。……下がれ。仕事が溜まっている」


 低く、震える声。

 指の間から覗く彼の頬が、隠しきれない熱を帯びている。

 その不器用な拒絶が、あまりにも愛おしく。

 私は、喉の奥から込み上げてくる笑い声を、もう抑えることができなかった。


「ふふっ……はい。それでは、失礼いたしますわ」


 私は、かつてないほど軽やかな所作で、淑女の礼をした。

 膝を折るその瞬間、ドレスの重みではなく、自分の身体の重みが、心地よい手応えとして伝わってくる。


 書斎を後にし、扉を閉める。

 冷たい廊下に出たはずなのに、私の身体は、内側から燃え上がるような熱に支配されていた。


 自分の胸に、両手を当てる。

 心臓が。

 これまで一度も感じたことのない、強烈な摩擦と衝撃を伴って、生を謳歌していた。


 私はもう、透明なノイズではない。


 彼が贈ってくれた、あの深い群青色のドレスを纏い。

 彼の隣で、冷たい冬の風を、確かな肌の実感として受け止める。

 その未来を想像するだけで、視界が鮮やかに、眩暈がするほどの密度で塗り替えられていく。


 報われなくていいと思っていた、灰色の世界。

 そこに、彼という名の質量が、決定的な傷痕と、永遠の色彩を刻み込んでしまったのだ。


 私は、廊下を歩き出す。

 一歩、踏み出すごとに。

 私の物語は、透明な記録から、血の通った現実へと、重く、沈殿していった。

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