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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第42話 初めての本当の笑顔

 鉛色の空から、ちぎれた綿のような雪が音もなく剥がれ落ちてくる。


 ノワールクール領の冬は、鋭利な刃物のようだった。

 吸い込むたびに肺の奥を薄く削り取っていくような冷気が、外套の隙間を狙って這い込んでくる。

 だが、その刺すような寒さすら、今の私にはどこか実体のない遠い出来事のように感じられていた。


 数日前、あの雪の庭園で。

 レオン・ノワールクールの大きな掌が、私の指先を強引に包み込んだ。

 あの時に伝わってきた、爆ぜるような熱の残滓が、今も皮膚の裏側で静かに脈打っている。


 それだけで。

 たったそれだけのことで、私が丹念に塗り固めてきた透明な世界は、いとも容易く崩落してしまった。


 厚い雲の下、凍てついた石畳を踏みしめて広場へと向かう。

 足裏に伝わる硬い感触が、以前よりもずっと、重い。

 自分がこの大地に、確かに質量を持って存在しているという事実に、目眩にも似た違和感を覚えていた。


 広場に足を踏み入れた瞬間、幾重もの視線が私を捉えた。


「――おはようございます、セレスティーヌ先生」


 不意にかけられた声に、足が止まる。

 目の前に立つのは、薪を背負った初老の男だった。

 彼は深く腰を折り、私に向けて敬意という名の重力を持った会釈を捧げる。


 つい先日まで、彼らの瞳の中にあったのは、私という異物への、剥き出しの嫌悪だった。

 私が通り過ぎる際、彼らは一様に息を止め、汚いものから逃れるように背を向けていたはずだった。


 だが、今、私の網膜に映るのは。

 使い込まれた手袋を脱ぎ、悴んだ手で私を拝むように見つめる、生々しい信頼の光だ。


「おはようございます。……足元が滑りますから、お気をつけて」


 喉から出た声は、自分でも驚くほどに、柔らかく、湿り気を帯びていた。

 これまでは、相手との間に分厚い氷の壁を立てるために、無機質な声を紡いできた。

 けれど今の言葉は、空気の中へと溶け込み、相手の体温に触れようとする熱を持っていた。


 男が去った後、私は自分の頬にそっと指を這わせる。

 筋肉が、かつてのような「防衛兵器」としての引き攣れを起こしていない。

 ただ、そこにあるべき自然な弾力を保ち、穏やかな輪郭を描いている。


 誰とも繋がらず、誰の記憶にも残らない「背景」であり続けること。

 それが私の祈りであり、同時に呪いでもあった。

 けれど、その呪縛は、あの男の指先から流れ込んだ熱によって、音もなく瓦解してしまったのだ。


 ――お師匠様!


 広場の片隅、雪除けの布がかけられた配薬所に、一際明るい声が響いた。


 リリーが、薬草の詰まった麻袋を抱えて駆け寄ってくる。

 彼女が踏みしめる雪の音が、小気味よいリズムを刻んでいる。

 リリーの頬は寒さで赤らみ、その瞳は、冬の太陽よりも真っ直ぐな輝きを放っていた。


「これ、仕分け終わりました! 例の根っこも、泥を綺麗に落としてあります!」


 差し出された麻袋から、湿った土と、苦みの強い香気が立ち昇った。

 それは、生命が土の下で冬を耐え抜くための、濃密な匂い。


「……ありがとう、リリー。助かるわ」


 私は麻袋を受け取り、その重みを両手で受け止める。

 ずっしりと、私の腕に食い込む感覚。

 それはかつて私が忌み嫌った、絆という名の不自由な重みによく似ていた。


「お師匠様。なんだか、今日の先生、とっても……」


 リリーが、首を傾げて私を見つめる。


「……とっても、何?」


「いえ、なんだか美味しそうだなって。あ、変な意味じゃないですよ! ほら、焼きたてのパンみたいな、柔らかい感じがしたんです!」


 リリーの無邪気な例えに、私の胸の奥で、小さな気泡が弾けた。

 それは笑いというにはあまりに脆く、けれど確かな振動だった。


「聖女のような薬師など、買い被りすぎよ、リリー」


「いいえ! 皆、言っています。先生が来てから、この町の死の臭いが消えたって」


 リリーは誇らしげに胸を張り、再び作業へと戻っていく。

 彼女の背中を見送りながら、私はふと、自分の手を見つめた。


 薬草の汁で汚れ、爪の間には黒い土が入り込んでいる。

 王都にいた頃の、絹のようになめらかな、けれど何の意味も持たなかった手。

 今のこの手は、泥に汚れ、寒さに晒され、けれど誰かの命を繋ぎ止めるための、泥臭い質量を宿している。


 『許可』が、欲しかったのだ。


 あの人が、私に与えたのは、知識でも権力でもなかった。

 ただ、この世界で呼吸をし、他者の熱に触れてもいいという、剥き出しの存在証明。


 私はもう、透明な物語の記録者ではない。

 そのことに気づいた瞬間、背負っていた見えない鎧が、さらさらと砂になって崩れていくのを感じた。


 ――。


 正午を過ぎた頃、風が少しだけ凪いだ。

 薄い陽光が、銀世界の表面を頼りなく撫でる。


 配薬所の前に、二つの小さな影が飛び込んできた。


「セレスティーヌお姉ちゃん!」


 ティムとミリー。

 二人の子供たちが、雪を撥ね除けながら、私に激突するように抱きついてくる。


 不意の衝撃に、身体がよろめく。

 彼らの小さな掌から伝わる、野性味すら感じさせる激しい鼓動。

 鼻を突くのは、冷たい雪の匂いと、日向に干した布団のような、懐かしい温もりの匂いだ。


「ティム、ミリー。転ばなかった?」


 私が膝をついて彼らの目線に合わせると、ミリーがもじもじと、背中に隠していた手を差し出した。


「……これ。お母さんと、作ったの」


 彼女の小さな、赤くひび割れた両手の中に。

 冬の風雪に耐えて咲く、名もなき白い小花が編み込まれた花冠があった。


 不器用な、歪な輪。

 ところどころ茎が折れ、茶色い樹液が滲んでいる。

 けれど、その花の白さは、私の汚れた心を射抜くほどに鮮烈だった。


「……っ」


 視界が、一瞬で白濁した。


 かつて、ヴァルモン公爵邸の片隅で。

 弟のエドガーが差し出してくれた、あの野花の記憶。

 あの日、私は彼の純粋さを、氷の言葉で蹂躙した。


『……このようなゴミを、わたくしに触れさせないで』


 あの時、エドガーの瞳から光が消えた瞬間を。

 彼の手から零れ落ちた花の、あまりに無機質な音を。

 私は一度たりとも、忘れたことはなかった。


 愛を受け取ることは、誰かを絶望させることだと思っていた。

 私が誰かの心に残ることは、物語という名の構図を汚すことだと、信じて疑わなかった。


 けれど、目の前のミリーは。

 私の紫水晶の瞳を真っ直ぐに見つめ、ただ期待に頬を染めている。


「……ありがとう。とても、綺麗だわ」


 私は震える指先で、その花冠を受け取った。

 冷たい花びらが指に触れた瞬間、そこから心臓に向かって、言いようのない痛みが走った。

 それは、氷が溶ける時に発する、断末魔のような痛み。


「お姉ちゃん、被って!」


 ティムが、私の背中をせかすように押す。

 私はためらい、けれど抗いきれず、ゆっくりとその小さな輪を、自らの銀髪の上に乗せた。


 重い。

 たった数輪の花の重みが、私の首筋に、ずっしりとした枷のようにのしかかる。

 それは、この世界に繋ぎ止められた者の、幸福な重力だった。


「わぁ……! 綺麗! お姉ちゃん、本物のお姫様みたい!」


 子供たちが、跳ねるように歓声を上げる。

 その声は、凍てつく冬の空気を震わせ、波紋となって広がっていく。


 私は、自分が笑っていることに気づいた。


 相手を突き放すための、冷徹な微笑ではない。

 自らを保護するための、鉄壁の仮面でもない。


 内側から溢れ出す熱に、筋肉が、皮膚が、魂が、抗うことなく従った結果。

 ただ、そこにあるべき形として結ばれた、真実の表情。


 三十三年の前世と、十五年の今世。

 その途方もない歳月を経て、ようやく私は、自分の素顔を見つけた。


 視界の隅で、漆黒の影が動いた。


 広場から少し離れた、並木道の入り口。

 そこに、あの男が立っていた。


 レオン・ノワールクール。

 彼は腕を組み、彫刻のように不動の姿勢で、こちらを見つめていた。

 その瞳の奥にある青は、雪の白さに反射して、かつてないほど深く、鮮やかに研ぎ澄まされている。


 視線が、爆音とともにぶつかった。


 逃げようとは思わなかった。

 私は花冠を乗せたまま、彼の方を真っ直ぐに見据え、そして――。

 さらに深く、彼に向けて微笑んで見せた。


『あなたに見つかったおかげで、私は今、ここにいます』


 そんな、喉を焼くような告白を込めて。


 その瞬間。

 鉄の自制心に守られていたはずの、彼の貌が劇的に崩れた。


 彼は大きく目を見開き、まるで毒矢でも受けたかのように身体を強張らせた。

 そして――。


 バサッ、と。


 彼は乱暴な動作で、羽織っていた外套の襟を掴み上げた。

 顔の半分を力任せに覆い隠し、フイ、と、子供のように顔を背ける。


 隠しきれない横顔。

 その耳朶から首筋にかけて、鮮血のような赤みが、雪原に溢れた火のように広がっていくのが見えた。


「……ふふっ」


 私の唇から、抑えきれない音がこぼれた。

 それは次第に、身体全体を揺らす大きな律動となって溢れ出す。


「あはは……っ、あはははは!」


 声を上げて笑う。

 空気が、肺の奥まで入り込み、全身の細胞を洗浄していく。


 あの、他者に一抹の関心すら持たず、凍てついた理知だけで生きている「氷の公爵」が。

 私の笑顔ひとつに、あんなにも無様に、人間らしく狼狽えている。


 その事実が、たまらなく愛おしく、そして滑稽だった。


「お姉ちゃん? どうしたの?」


 ティムが不安そうに私のローブを引く。

 私は笑い声を噛み締め、彼の小さな、温かい手を力強く握り返した。


「ううん、何でもないの。ただ……ここが、あまりに温かい場所だから」


 逃げるように城へと続く道へ歩き出す、彼の広い背中。

 その足取りが、いつになく急ぎ足で、不器用に乱れている。


 透明な記録者でいることを、私はもう辞めた。

 誰の記憶にも残らず、物語の余白に消えるという、安易な逃避はもう選ばない。


 私はここで。

 泥を噛み、雪に凍え、そして誰かの熱に焦がれながら。

 一人の、救いようのないほど生臭い「人間」として生きていく。


 頭上で、名もなき花が微かな香りを放った。

 その微細な重みこそが、私が今この世界で、決定的に刻んでいる傷痕だった。


 降り続く雪は、もう、私の輪郭を消すことはできない。

 私という質量は、今この瞬間、この冷たい大地を確かに陥没させているのだから。


 私はもう一度、彼の去った方向を見つめた。

 冬の空気が、かつてないほど、甘く感じられた。

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