表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/48

第41話 処方箋の筆跡と、特定された真実

 執務室を支配しているのは、重く、淀んだ沈黙だ。


 分厚い石壁が外界の咆哮を遮断し、部屋の境界を際立たせている。

 暖炉の中で爆ぜる薪の音だけが、時折、硬い沈黙に小さな亀裂を入れていた。


 マホガニーの机、その滑らかな銀面に並べられた数枚の羊皮紙。

 レオン・ノワールクールは、組んだ指の節々が白くなるほどの力感で、それらを凝視していた。


 揺れる炎が、彼の氷晶のような双眸に、不穏な影を落とす。

 一つは、王都の闇から届けられた、冷たい事実の断片。

 もう一つは、この領地で彼女――セレスティーヌが記した、生々しい呼吸(リズム)の記録。


『投薬後十五分、皮下微小血管の拡張……発汗。三十分で中枢温度の下降を確認』

 インクの染み込み方、ペン先の走る速度までもが、彼の脳内で一つの像を結んでいく。


 それは、貴族の令嬢が嗜む「文字」ではなかった。

 生死の境界線に指をかけ、引きずり戻す者だけが到達する、無機質な美学。

 一切の虚飾を剥ぎ取ったその筆跡は、戦場を駆ける軍医の命令書にも似た、鋭い質量を帯びている。


 レオンは、密偵が持ち帰った「証拠」を、ゆっくりと指先でなぞった。

 王立学園の片隅で、誰にも知られず置かれていた特効薬。

 下働きの子の枕元に、祈るように残されていた、冷徹なまでの正確な指示。


 二つの筆跡が、彼の網膜の上で重なる。

 寸分、違わなかった。


 インクの溜まり、末尾の跳ね、そして行間に漂う切実なまでの合理性。

 それは彼女が演じ続けている「傲慢な悪役」という皮殻の下に隠された、真実の骨格だった。


「……ふっ、」


 レオンの唇から、乾いた呼気が漏れた。

 それは溜息というにはあまりに重く、笑いというにはあまりに痛切な響き。


 彼女は、毒を撒いていたのではない。

 自分を呪い、罵倒する者たちの喉元に、そっと命の滴を注いでいたのだ。

 誰の記憶にも残らぬよう、透明な善意()として。


 指先が、羊皮紙の端をかすかに震わせる。

 深窓の令嬢が持ち得るはずのない、血と薬品の匂いがするほどの実戦的叡智。

 あの夜、彼女の唇から零れた、聞いたこともない異国の呪文。


 彼女は一体、何処を見て、何を引き換えてその力を手に入れたのか。

 だが、今の彼にとって、その謎はもはや刺棘ですらなかった。


 胸を抉るのは、もっと別の、泥濘のような感情だ。

 これほどの輝きを持ちながら、彼女は自ら泥を被る道を選んだ。

 誰一人として救われないはずの、完璧な破滅(ハッピーエンド)を描くために。


 使用人を守るために冷酷な主人を演じ、ステラを救うために暗殺者を気取った。

 その歪な献身が、レオンの心臓を、冷たい針で一突きにする。


『お前は、自分の価値がわかっていない』


 かつて自分が吐き捨てた言葉が、ブーメランのように戻り、自身の胸を切り裂く。

 価値を理解していなかったのは、誰だったのか。


 干渉を拒み、氷の檻に閉じこもっていたはずの自分が、今、一人の女の過去を血眼になって追っている。

 その滑稽なほどの執着に、彼は自嘲を禁じ得ない。


 けれど、もう、その手を離すことはできなかった。


 冷たくなっていく母の手を、ただ見つめることしかできなかった、あの凍りついた午後。

 無力という名の重罪を背負ったまま生きてきた彼にとって、彼女の孤独は、あまりに既視感のある地獄だった。


 たとえ彼女が、どれほど強固な虚構を纏おうとも。

 たとえ世界中が彼女を石でもてなそうとも。


 レオンは羊皮紙を束ね、それを机の引き出しに深く、重くしまい込んだ。

 鍵をかけるその音は、彼の胸の中で、確かな決意となって打ち込まれた。


 ***


 三日後の朝。

 世界は、白一色の静謐に塗り潰されていた。


 庭園の枯れ木は、雪という名の重石に耐えかねて、時折、軋んだ声を上げている。

 肺に吸い込む空気は、刃物のように鋭く、鼻腔の奥をツンと刺した。


 セレスティーヌは、厚手のローブに身を包み、ゆっくりと雪を踏みしめていた。

 ザクッ、ザクッ、と、自分の足音だけが、世界の解像度を保っている。


 三日間の軟禁という名の保護。

 熱にうなされていた時の浮遊感は消え、思考は冬の湖底のように澄み渡っている。


 領民たちの間に広がる、自分が調合した薬の効果。

 彼らが口にする「聖女」という言葉の、薄ら寒いほどの違和感。

 記録者である自分にとって、それはノイズでしかなかった。


「……これで、よかったはずよ」


 白く濁った息が、空中に溶けていく。

 自分は、この物語の余白に消えるべき存在。

 誰の記憶にも、爪痕一つ残さず、透明なまま物語を終える。

 それが、三十三年の前世と、十五年の今世を繋ぎ合わせた、彼女の矜持だった。


 背後で、雪を圧する音が響いた。

 自分よりも重く、圧倒的な存在感を伴った歩み。


 振り返るよりも早く、肌を刺す空気が、さらに硬度を増した。


 漆黒の外套をなびかせ、レオン・ノワールクールがそこに立っていた。

 背景の白を拒絶するような、絶対的な黒。


「……ごきげんよう、公爵様」


 セレスティーヌは、瞬時に微笑を装着した。

 頬の筋肉を数ミリ引き上げ、瞳に感情を透過させない、完璧な演技(テクニック)


 けれど、視界の隅で、あの看病の夜の記憶が明滅(フラッシュバック)する。

 冷たい水に浸されたタオルの感触。

 視線を泳がせていた、彼の不器用な横顔。


 わずかに、口角が震えた。

 完璧だったはずの笑顔が、湿った紙のように脆く綻び始める。


「体調は、どうだ」


「おかげさまで。明日からは、また薬師としての……役割(パーツ)に戻りますわ」


 事務的な声音。

 だが、レオンはその距離を殺した。


 雪を蹴散らし、彼女の聖域(パーソナルスペース)へと土足で踏み込んでくる。

 目前に迫る、銀のボタンと、微かな白檀の香り。


 彼は無言で、懐から数枚の羊皮紙を取り出した。

 それを、突きつける。


 セレスティーヌの視線が、そこに吸い寄せられた。

 瞬間、心臓が跳ね上がり、喉の奥で爆ぜた。


 全身の毛穴が、一斉に閉じるような寒気が走る。

 そこに並んでいたのは、見紛うはずもない、自分の魂の癖。


「王都から、興味深い土産話が届いた」


 レオンの声は、低く、地面を這うような振動を伴っていた。

 冬の空気が、彼の言葉を媒介にして、重く冷たく、彼女の肺を押し潰す。


「ステラ・メルヴィユを救った、名もなき薬のメモ。……ヴァルモン家の使用人を救った、深夜の指示書」


 耳の奥で、高周波の悲鳴(ノイズ)が鳴り響く。

 視界の端が黒く染まり、雪の白さが、不気味なほどに際立っていく。


「筆跡の擦れ、数分単位の容体予測。……この異常なまでの精度。普通の令嬢に、これほどの真似ができると思うか?」


 レオンの青い瞳は、もはや彼女を射抜く矢ではなかった。

 それは彼女の魂を絡め取り、引きずり出す、底なしの淵だった。


「……答えろ。ステラを助けたのも、名もなき死を食い止めたのも、お前なんだろう」


「……っ!」


 ドレスの裾を握りしめる指先が、ガチガチと音を立てて震え始める。

 隠しようのない、身体の告白。


 セレスティーヌは、必死に顔の筋肉を制御しようとした。

 笑わなければ。

 嘲笑い、否定しなければ。


「何を……仰っているのか。わたくしは、あの場で、皆に……蔑まれた……悪女……」


 言葉が、千切れた糸のように空中に散る。

 引き攣った口角は、もはや笑顔の形を成していなかった。

 それは、痛みに耐える死に損ないの痙攣に等しい。


「……なぜ」


 掠れた声が、肺の底から絞り出される。


「なぜ、そこまで……。わたくしは、捨てられた……罪人ですのに。放っておいて……下されば、綺麗に消えられたのに……!」


 彼女が築き上げてきた、完璧な孤独。

 誰にも触れられず、誰にも理解されず、暗闇の奥で摩滅していくはずだった自己犠牲。

 その聖域を、彼は土足で踏み荒らし、光の下へと引きずり出したのだ。


 レオンは、一瞬だけ目を細めた。

 その瞳の奥に、烈火のような激しさと、壊れ物を扱うような慈しみが混濁する。


 そして、彼はその一言を、彼女の胸の真ん中に叩きつけた。


「知りたかった。お前のこと|・()()()()()()()()()()()()


 世界から、音が消えた。


「お前が何を恐れ、何を守るために、そんな不細工な嘘を吐き続けているのか。それを知らなければ、俺は……俺でいられなかった」


 それは、白旗を掲げるような敗北宣言だった。

 冷徹な公爵が、初めて見せた、生身の渇き。


 見つけられてしまった。

 記録者として、透明な存在であり続けようとした彼女の(コア)を。

 彼は、その指先で、確かに捉えてしまったのだ。


「……やめて……っ」


 セレスティーヌの顔から、最後の装飾が剥がれ落ちた。

 後に残ったのは、剥き出しの、震えるだけの、幼い魂。


「これ以上……入ってこないで……! 私が犯人でいいの。私が、独りでいれば……誰も傷つかない……それが、一番……」


「お前が傷ついているだろうが!」


 レオンの咆哮が、冬の空気を震わせた。

 彼は一歩踏み出し、彼女の肩を、逃がさないように掴んだ。


 分厚い外套越しでもわかる、彼女の小ささ。

 折れてしまいそうなほどに細い肩が、彼の掌の中で、小鳥のように震えている。


「自分を悪役に仕立てて、世界を欺き……お前は、いつまで独りで死に続けるつもりだ。……もう、俺の前でそんな真似はさせない」


 その手の熱。

 手袋越しに伝わってくる、彼の心臓の鼓動(リズム)

 それは、彼女がずっと拒絶し、けれど心の深淵で焦がれていた、他者の質量だった。


 報われなくていい。

 独りでいい。

 そう言い聞かせてきた強がりが、彼の温もりに触れた瞬間、氷塊のように砕け散っていく。


 セレスティーヌは、彼の手の中で、ただがたがたと震え続けた。

 声を出すことも、逃げ出すこともできず、ただ、雪の上に落ちる自分の涙の音を聴いていた。


 透明だった彼女の輪郭が、彼の熱によって、鮮明な血の色に染まっていく。

 それは、取り返しのつかない、生への引き戻しだった。


 降りしきる雪の中で、二人の影だけが、逃れようのない重力を帯びて、そこに存在していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ