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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第40話 嘘が下手ですね、公爵様

 肺の奥底に溜まった、重く濁ったおりを吐き出すような吐息。


 意識の輪郭をふちどるのは、湿った羊毛の重みと、鼻腔をくすぐる煤けた薪の匂いだった。

 深い水底で鎖に繋がれていたような長い夜が、ゆっくりと剥がれ落ちていく。


 まぶたの裏側に、雪雲を透かしたような頼りない光が差し込んでいた。


「……っ」


 指先を動かそうとすれば、関節の節々が、錆びついた歯車のようにきしむ。

 だが、昨夜まで脳髄を焼いていたあの苛烈な熱は、今はもう、潮が引くように消え去っていた。

 ただ、嵐が過ぎ去った後の湿った地面のような、虚脱感だけが身体の隅々に居座っている。


 ゆっくりと身を起こす。

 視界が微かに揺れ、石造りの部屋の冷たい空気が、肌を薄く削り取るように触れた。


 暖炉の中では、真新しい薪が爆ぜている。

 赤々とした火の粉が、規則的なリズムで闇の残滓を食んでいた。

 散乱していたはずの薬草の葉脈や、ひび割れた乳鉢は、影のように静かに机の端へ退けられている。


 そして、視界の端。

 ベッドの傍らに置かれた、使い古された木製の椅子。


 そこには、持ち主の体温を記憶しているかのような漆黒の外套が、沈黙を守ったまま掛けられていた。

 レオン・ノワールクールのものだ。


 生地の奥深くに染み付いた、冬の風と、微かな硝煙、そして氷の匂い。

 それが、この部屋の停滞した空気の中に、異質な質量を伴って存在していた。


「……本当に」


 私は、震える指先をベッドの脇に置かれた洗面器へと伸ばした。

 水の表面には、冷え切った冬の朝日が、歪な円を描いて浮かんでいる。


 固く絞られた布。

 それが、昨夜、私の額に何度も当て直されたであろうという事実は、言葉よりも重く、私の胸を圧迫した。


 氷の公爵れおん・のわーるくーる

 人々がその名を口にするだけで、背筋を凍らせるという冷酷な支配者。

 その男が、名もなき罪人であり、使い捨ての道具に過ぎない私を。

 ただ、一晩中。


 脳裏に、熱の渦中で聞いた、あの岩肌を削るような不器用な声が響く。


『お前が倒れたら、俺が困る』


 それは、合理という名の鎧で塗り固められた、ひどく稚拙な嘘だった。

 労働力が欲しいだけならば、代わりの薬師はいくらでもいる。

 身の回りの世話ならば、訓練された使用人がいくらでも控えている。


 なのに、彼は自らこの狭い部屋に留まり、外套を脱ぎ、沈黙という名の看病を私に与えた。


「……どうして」


 自分の掌を見つめる。

 血管の青い筋が透けて見える、頼りない肉の塊。


 私は、この世界の物語から零れ落ちるべき存在だった。

 誰にも触れられず、誰の記憶にも刻まれず、ただ透明な背景として霧散すること。

 それだけが、私の贖罪であり、唯一の救いであったはずなのに。


 彼が私に与えるこの温かな毒は。

 私の凍りついた輪郭を、暴力的なまでの熱で溶かし始めていた。


 ――コン、コン。


 木材を叩く、控えめな音が静寂を断ち切った。

 空気が微かに動き、部屋の扉が音もなく開く。


「……お目覚めですか、セレスティーヌ様」


 入室してきたのは、銀の髪を整えた、石像のように無表情な家令だった。

 彼の手にある銀のお盆からは、濃厚な牛脂の香りと、焼きたての麦の匂いが、湯気とともに立ち上っている。


「……ええ。お騒がせいたしました」


 私は反射的に、顔の筋肉を調律しようとした。

 口角を数ミリ引き上げ、瞳の焦点をわずかに逸らす。

 誰も踏み込ませないための、鉄壁の微笑(仮面)


 しかし、身体は裏切った。

 熱に浮かされた後の筋肉は、鉛のように重く、ただ弱々しく唇を震わせることしかできない。


「閣下が、食堂でお待ちです」


「……わかりました。すぐに」


 家令の視線が、一瞬だけ私の顔を掠めた。

 そこに同情があったのか、あるいは蔑みがあったのか。

 今の私には、それを読み解くための質量が残っていなかった。


 ウールのワンピースを纏い、鏡の前に立つ。

 映し出されたのは、光を吸い込むような蒼白な肌と、ひどく不安定に揺れる紫水晶の瞳。

 それは、これまでの私が必死に維持してきた「完璧な虚像」の、残骸のような姿だった。


 ***


 冷たい石廊下を、心音だけを引き連れて歩く。

 食堂の扉は、巨人の口のように重々しく私を待ち受けていた。


 中に入ると、まず目に飛び込んできたのは、高く設計された天井から差し込む、冷徹なまでの光の柱だ。


 長いオーク材のテーブル。

 その最奥に、一人の男が座っていた。

 漆黒の外套を脱ぎ、白いシャツの襟元をわずかに緩めたレオン。


 彼は手元の羊皮紙に目を落としたまま、銀の匙を動かしている。

 その所作の一つ一つが、完成された舞台の一幕のように、無駄なく、そして冷たい。


 私が歩みを止めると、彼はゆっくりと顔を上げた。


 底知れない、青い瞳。

 それは、私の肺から空気を力ずくで奪い去るような、絶対的な沈黙を伴っていた。


「……動けるようになったのか」


 低い声。

 振動が、床を伝って私の足裏を刺激する。


「はい。公爵様の慈悲のおかげで、快方に向かいました。この度は、多大なるご迷惑をおかけしたこと、深くお詫び申し上げます」


 私は、スカートの端を握りしめ、完璧な角度で膝を折った。

 彼との間に、越えられない国境を築くための、冷たい礼節。


 だが、レオンは私のその「完璧な演技」に、不快そうに眉根を寄せた。


「座れ。そして、流し込め」


「……は?」


「病み上がりの身体を立たせておくのは、時間の無駄だ。スープが冷めれば、それはただの泥と同じだ。食え」


 顎でしゃくった先には、黄金色に輝くコンソメと、白く湯気を上げるパンが置かれていた。


 私は、彼の圧倒的な圧に押されるように、向かいの席に腰を下ろした。

 銀の匙が陶器の縁に触れ、カチリと硬質な音が響く。


 レオンは再び書類に視線を戻したが、その指先は動いていない。

 私がスープを一口、嚥下するたびに。

 彼の視線の端が、微かに揺れ、私の喉元の動きを検品するように追っていた。


 静寂が、部屋の温度を一段階下げた。


 彼は知っている。

 私が誰のために泥を被り、誰のために一人で泣き、誰のために自分を廃棄しようとしていたのかを。


 その事実が、私の内側で鋭い楔となって、心臓の鼓動を早めさせる。


「……公爵様」


 堪えきれず、私は震える声を放った。

 その一言が、静止した空間に、取り返しのつかない波紋を広げる。


「昨夜は……その、看病をしていただいたと。わたくしのような者に、そこまでしていただく理由は……」


 レオンは、羽ペンを置いた。

 ギィ、という乾いた音が、私の背筋を叩く。


「勘違いするなと言ったはずだ。俺は、合理的な判断をしたに過ぎない。お前に死なれては、領内の薬の供給が滞る。それは、俺にとっての損失だ」


 また、その言葉だ。

 岩石のように硬く、そして今にも崩れそうなほどに歪な嘘。


 王国最年少で公爵位を継ぎ、無数の陰謀を切り抜けてきた男が。

 これほどまでに、言葉の裏側を隠し通せないはずがない。

 彼が今、どれほど自分自身の信条をねじ曲げ、不器用な正当化を行っているか。


 その「不自然さ」が、あまりにも愛おしく、そして切なく。


「……ふふ」


 不意に、喉の奥から、乾いた笑いが零れ落ちた。

 それは、仮面を維持するための技術的な笑顔ではなく。

 コントロールを失った魂が、吐き出した産声だった。


 レオンの肩が、弾かれたように硬直した。


「……何がおかしい」


 不機嫌さを装った声。だが、その青い瞳には、隠しきれない動揺が走っている。


 私は、匙を置き、彼を真っ直ぐに見つめた。

 潤んだ瞳の奥で、彼の困惑を、一滴も漏らさずに受け止める。


「……公爵様は、嘘が下手でいらっしゃいますね」


 空気が、一瞬で凝固した。


 王国最年少の公爵。

 氷の支配者。

 その彼に向かって、このような不敬を口にするなど、以前の私なら考えられなかった。


 だが、彼の看病という名の温もりに触れた後の私は、もう「透明な記録者」として完結することはできなかった。


「なんだと?」


「公爵様が、どれほど非合理な行動をとられているか。ご自分でお気づきにならないのですか? 大罪人を、城の主が自ら夜通し看病するなど……どのような口実を並べても、それはただの願いでしかありませんわ」


 レオンは、言葉を失った。

 開いたままの唇が、微かに震え、何かを言いかけては飲み込む。

 そして、逃げるように視線を斜め下へと逸らした。


「……お前にだけは、言われたくない」


 低く、少しだけぶっきらぼうな響き。


「お前の、あの貼り付いた気味の悪い笑顔に比べれば、俺の嘘など、子供の遊びのようなものだろう」


 心臓を、鋭い針で突かれたような痛みが走る。

 そうだ。

 私は、嘘の結晶だ。

 誰も傷つけないために、自分を消し去るための完璧な嘘。


「……それは」


 言い淀む私に、レオンは再び、射抜くような視線を向けた。

 その瞳は、もはや私を突き放してはいない。

 むしろ、私の奥深くに潜む、虚無の泥を掬い上げようとしている。


「昨夜、お前は熱にうなされながら、聞いたこともない音を口にしたな」


 全身の血の気が、一気に引いていく。


「この国の言葉ではない。だが、それは……ひどく、安らかな場所を求めているような響きだった」


 私の前世。

 彼には決して知られてはならない、この世界の理から外れた、決定的な矛盾。

 彼はその断片を、熱に浮かされた私の唇から、正確に拾い上げていた。


「公爵様、わたくしは……」


「言いたくないなら、口を閉じろ」


 彼は、私の言葉を冷徹に遮った。

 だが、その拒絶は、私を守るための壁でもあった。


「お前がどこから流れてきて、何を背負っていようと、俺には関係ない。俺が拾い上げたのは、今ここにいる、お前という人間だ」


 言葉の一つ一つが、重いつちとなって、私の胸の氷を粉砕していく。


「二度と、一人で倒れるまで自分を削るな。そんな無意味な消耗は、俺の領内では許さん」


 それは、慈悲という名の、あまりにも横暴な救いだった。


 私は、言葉を失い、ただ目の前の男を見つめ続けた。


 かつて。

 前世で、私は誰の記憶にも残らず、ただの数字として処理され、消えていった。

 だから、今世でも同じであるべきだと思っていた。


 誰にも関わらず、誰にも愛されず、ただ透明なまま、役目を終える。


 なのに。


 この冬の吹き荒れる果てで。

 不器用な嘘しかつけない、この傲慢な男に。

 私は決定的に、見つけられてしまったのだ。


「……承知いたしました。公爵様」


 震える唇を噛み締める。

 視界が、不意に歪んだ。


 顔を上げた時。

 私の頬には、もう、あの完璧な笑顔はなかった。


 涙を堪えるために醜く強張り、唇を震わせ、今にも崩れ落ちそうな。

 十七歳の少女としての、あまりにも無防備な生身の顔。


「……これからは、適度に休息をとります。領民のため、そして……これ以上、公爵様に嘘をつかせないためにも」


 微かに、本当に微かに微笑む。


 レオンは、その表情を目にした瞬間、弾かれたように肩を揺らした。

 そして、耐えきれなくなったように顔を背ける。


「……減らず口を叩く余裕があるなら、さっさと胃に収めろ。……冷める」


 窓の外では、鋭い北風が、城の石壁を叩き続けている。


 だが。

 喉を通るスープの熱と、暖炉から伝わる火の匂い。

 そして何より、私の前に座る男の、圧倒的な存在感。


 それが。

 私の死にたがっていた魂を、今、強引にこの世界へと繋ぎ止めていた。


 私は、透明な記録者であることを。

 少しずつ、そして決定的に、諦め始めていた。


 この城で。

 彼という名の重力に引かれながら、生きていくこと。


 それがもたらす未知の恐怖よりも。

 今、彼が私に向けている、あの不器用な静寂の方が。


 何よりも、強く。

 私の心臓を、生へと打ち鳴らし始めていた。

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