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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第39話 氷雪の城と、秘密の看病

 凍てつく風が、石造りの隙間を縫って鳴いている。


 ノワールクール領の冬は、音を奪う白だ。

 王都の柔らかな雪とは違う、命を削り取るための硬質な結晶。

 それが絶え間なく城壁を叩き、獣の唸りに似た低音を響かせている。


 東棟の片隅、私の「檻」だけが、橙色の光を灯していた。

 暖炉の中では薪が爆ぜ、乾いた爆裂音を立てる。

 けれど、足元から這い上がってくる冷気は、火の粉さえも凍らせるほどに鋭い。


 机の上には、枯死したような色合いの薬草が積み上がっていた。

 雪に閉ざされる直前、指先の感覚を失いながら土から引き抜いた命の残滓。

 私はそれを手に取り、冷え切った乳鉢の中へと落とす。


 ゴリ、ゴリ……。


 無機質な音が、深夜の静寂に沈殿していく。

 乳棒を回すたび、硬い葉が砕け、青臭い香りが鼻腔を突く。

 それは生命の香りと、死の予感が混じり合った、奇妙な芳香だった。


「……あと、少し」


 唇を割って出た言葉は、形を成す前に白い霧となって消えた。

 喉の奥が焼けるように熱い。

 肺が冷たい空気を拒絶し、呼吸のたびに小さな火種が胸の中で爆ぜる。


 領民たちの顔が、暗闇の向こう側に浮かんでいた。

 ティムの真っ赤に腫れた指先。

 ミリーの、肺を絞り出すような激しい咳。

 彼らが縋るように差し出してきた両手の重みが、今も私の掌に残っている。


 感謝という名の、逃げ場のない劇薬。

 それは「透明な記録者」であろうとする私の肌を、無慈悲に焼き焦がしていく。

 彼らの記憶に私が刻まれることは、この世界の摂理(システム)に私が組み込まれることを意味していた。


 本当は、拒絶すべきだったのだ。

 彼らが私を聖女と呼ぶたび、私は自分を殺し、事務的な仮面を塗り固めた。

 けれど、私の右腕は、脳の命令を無視して乳棒を回し続ける。


 これは、本能だ。


 視界が不意に、歪んだ波紋を描いた。

 乳鉢の中の緑色が、ドロリとした赤黒い液体に変質していく。

 石造りの壁が消え、耳元で聞こえるのは吹雪の音ではなく、絶え間ない轟音だった。


 ――前世。

 あの、地獄の記憶。


 鼻を突くのは、薬草の香りではない。

 鉄錆の匂い。焼けた肉の臭気。そして、泥にまみれた死の気配。

 次々と運び込まれる「肉の塊」に、私はただ機械的に布を巻き、針を通していた。


 休めば、その分だけ沈黙が増える。

 感情を殺し、思考を剥離させ、ただの「縫合器(デバイス)」として機能しなければならなかった。

 あの時、私の魂は一度、完全に摩耗し尽くしたはずなのに。


「……っ、は、はぁ……」


 意識が現実の寒さへと、強引に引き戻される。

 乳鉢を握る指は、すでに感覚を失い、青白く透き通っていた。

 極限まで削り取った睡眠と、思考を停止させるための過労。


 世界が、ゆっくりと傾いでいく。

 重力という概念が、私を石床へと力強く誘っていた。

 崩れ落ちる瞬間、私が抱いたのは恐怖ではなく、冷ややかな充足だった。


 これで、ようやく。

 この「役割(ロール)」から、降りられる――。


 ガラン、と。

 乳棒が床を跳ねる音が、遠い世界の出来事のように聞こえた。

 そのまま、私の意識は底のない深淵へと、静かに没入していった。


 ***


 廊下を支配するのは、圧倒的な静だ。


 レオン・ノワールクールは、自らの気配を闇に溶かし、東棟を歩いていた。

 深夜の城内。本来なら主が訪れる時間ではない。

 けれど、彼の足は、吸い寄せられるようにその扉の前へと向かっていた。


 扉の隙間から漏れ出す、頼りない橙の光。

 そして、そこから聞こえてくるはずの、規則正しい「音」が消えていた。

 代わりに、心臓を直接掴まれるような、乾いた落下の音が鼓膜を震わせる。


「…………」


 レオンの指先が、オーク材の扉に触れた。

 躊躇は、一瞬にも満たない。

 彼が扉を押し開けた瞬間、部屋の中に滞留していた死の静寂が溢れ出した。


 床に横たわる、灰色の小さな影。

 それは、誇り高い公爵令嬢の成れの果てというには、あまりにも脆く、儚い。

 レオンは迷わず、その身体を腕の中に収めた。


 熱い。

 氷のように冷え切った部屋の中で、彼女の肌だけが、焔のように焼けていた。

 腕に伝わるその質量は、驚くほどに心もとない。


「セレスティーヌ……!」


 低く鋭い声が、冷えた室内に波紋を作る。

 彼女をベッドへ運び、毛布を幾重にも重ねるレオンの手は、自分でも驚くほどに渇いていた。

 漆黒の外套を脱ぎ捨て、洗面器の水を氷に変えんばかりの冷徹さで布を絞る。


 その時。

 高熱にうなされる彼女の唇から、震えるような言の葉が零れた。


「……おわり……もう、……たすかる……」


 レオンの手が、止まった。

 それは、この大陸のどの国でも使われていない、異質な響きを持った言語(コード)

 けれど、その音節には、魂を抉り取るような祈りが込められていた。


 彼女は、今、どこにいる。

 王都から追放された傷だらけの少女が見ているのは、どのような地獄なのか。

 自分を悪として切り捨て、他者を守るためだけに自らを削り続ける、その狂気。


「お前は……一体、何者なんだ」


 問いかけは、夜の闇に吸い込まれていく。

 レオンは椅子を引き寄せ、彼女の傍らに腰を下ろした。

 額の布を取り替え、熱を帯びた指先が、微かに震えているのを彼は見逃さなかった。


 父の教え――観測者(オブザーバー)であれという冷徹な掟。

 それが、彼女の浅い呼吸を聞くたびに、砂の城のように崩れていく。

 彼は、初めて知った。

 誰かの体温が、これほどまでに己を乱すことを。


 窓の外では、吹雪が城壁を噛み砕かんばかりに咆哮している。

 けれど、この四角い空間だけは、時間の流れが沈殿していた。

 レオンは一晩中、その青白い顔に刻まれた「苦痛」を、黙って見つめ続けていた。


 ***


 ……重い。

 まぶたの裏側が、糊で張り付いたように動かない。


 意識が混濁した沼の中から、ゆっくりと這い上がる。

 肺に流れ込んできたのは、いつもの冷気ではなく、微かな薪の香りと、聞き慣れない衣擦れの音だった。


「……っ」


 まぶたをこじ開けると、視界の端に、あり得ない色彩が映った。

 漆黒の闇を纏わない、白いシャツ姿の男。

 レオン・ノワールクールが、私のすぐ隣で、深い青い瞳を私に向けていた。


「……目覚めたか」


 その声は、驚くほど近く、そして低い。

 私は反射的に身体を動かそうとしたが、全身の節々が錆びついた鉄のように軋み、悲鳴を上げた。

 思考が追いつかない。なぜ、彼がここに。なぜ、夜が明けている。


「……公爵、様……なぜ……」


 貼り付けようとした仮面が、上手く作れない。

 頬の筋肉が強張り、出来上がったのは、ただの醜い歪みだった。

 彼はその「失敗」を、逸らすことなく見つめ続けている。


「勘違いするな」


 レオンの声は、相変わらず冷徹で、無感情だった。

 けれど、彼が差し出してきた大きな手は、私の額を覆う布を、信じられないほど優しく整える。


「……貴重な労働力に死なれては、領主として困るだけだ」


 それは、あまりにも稚拙で、美しい嘘。

 一人の罪人のために、辺境を統べる公爵が不眠で寄り添う理由など、どこにもない。

 洗面器の中に浮かぶ布。幾度も取り替えられたであろう跡。


 私は、震える唇を噛み締めた。

 誰にも見つからず、透明な背景として消えていくことが、私の選んだ結末(シナリオ)だった。

 誰の記憶にも残らず、ただの事象として処理されるはずだったのに。


「……ご迷惑を。わたくし、は……もう、動けます……」


 逃げるようにベッドから這い出そうとした私を、彼の熱が止めた。

 肩に置かれた手のひらが、驚くほど厚く、そして温かい。


「――寝ていろ」


 それは、抗うことを許さない、強固な拘束。

 けれど、その言葉の裏側には、これまで誰からも与えられることのなかった、重力があった。


「これは、命令だ」


 レオンは私から視線を外し、椅子に深く腰掛け直した。

 その横顔には、一晩中死と向き合っていた者だけが持つ、濃い疲労の色が滲んでいる。


 私は、彼の手の温もりが残る肩を抱きしめ、再び毛布の中に沈み込んだ。

 胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。

 それは、私が十五年かけて築き上げた、孤独という名の防壁だった。


『見つけて、ほしくなかった……』


 声にならない思いが、熱い滴となってまぶたの裏に溜まる。

 私は、完璧な笑顔を、ついに放棄した。

 ただ、少しだけ歪んだ素顔のまま、静かに呼吸を繰り返す。


 窓の外、吹雪はまだ荒れ狂っている。

 けれど、この部屋を満たす、不器用で、それでいて重い静寂が。

 私の魂を、今この瞬間の、残酷なほど温かな現実へと繋ぎ止めていた。


 私は、透明であることを、初めて後悔した。

 彼の手が、私の境界線を、あまりにも鮮やかに蹂躙してしまったから。

 この温かさを知ったからには、もう、私は薬師として生きるしかない。この領地で、この人々と共に。

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