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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第38話 聖女と目撃者

 ノワールクール城の朝は、王都のそれよりもずっと早く、そして鋭い冷気とともに訪れる。


 カーテンの隙間から差し込む光は、温もりを削ぎ落とされた刃物のように鋭い。

 私は飾り気のない木のベッドで身を窄め、肺の奥まで侵入してくる凍てついた空気に、喉を小さく鳴らした。

 吐き出した息は白く、瞬時に霧散して、この部屋の静寂を可視化する。


 石床を叩く裸足の裏が、焼けるような冷たさに悲鳴を上げた。

 洗面台に溜まった水は、表面に薄氷を張らんとするほどに澄み渡っている。

 私は躊躇いを断ち切るように、その塊を両手ですくい上げ、顔を埋めた。


 衝撃が意識を白く染め上げ、網膜の裏側に火花を散らす。

 水滴が滴るまま、私は鏡の前に立った。

 そこに映るのは、かつて高慢(プライド)だけで編み上げた鎧を纏っていた、一人の女の残影だ。


 いつものように、指先で両頬の筋肉をなぞる。

 十五年間、幾千回と繰り返してきた儀式。

 口角を数ミリ引き上げ、瞳の光を奥へと押し込む。

 そうして完成するのは、一切の感情を遮断した――鋼の笑顔だ。


 これさえあれば、私は誰にも傷つけられず、誰の記憶にも残らない「透明な記録者(オブザーバー)」でいられた。

 だが、今朝の鏡の中の私には、決定的な不純物が混じっていた。


 引き上げたはずの口角が、微かな重みに耐えきれず、不自然に震えている。

 紫水晶の瞳の奥、暗い水底のような場所に、小さな灯火が揺らめいている。

 それは、昨日の記憶が私の中に残した、消し去ることのできない残留感(摩擦)だった。


『お前は、自分の価値がわかっていない』


 レオンの低い声が、今も耳朶に張り付いて離れない。

 それは言葉という形をした、心臓を直接握りしめるような重力だった。

 そして、あの小さな手の、温かな湿り気。

 私のローブを掴んだティムの指先から伝わってきた、生の拍動(リズム)


 私は机の上に置かれた、陶器の小壺を見つめた。

 昨夜、深夜までかかって練り上げた、緑色のペースト。

 薬草をすり潰すたびに立ち込めた、苦くも清涼な香りが、まだ部屋の隅に澱んでいる。


 今までの私は、夜闇に紛れて、誰にも気づかれぬよう「改変(ノイズ)」を処理してきた。

 感謝の言葉は、私の計算を狂わせる不吉な雑音でしかなかったからだ。

 だが、今日は違う。


 私は、太陽の光の下を歩き、自らの存在を曝け出すことになる。

 セレスティーヌという、肉体を持った一人の薬師として。


「……大丈夫。これは、ただの契約履行。彼が私に与えた、役割なのだから」


 自分自身に言い聞かせる言葉は、驚くほど空虚に響いた。

 私は分厚い灰色のローブを羽織り、その重みで肩を落ち着かせる。

 薬の入った鞄を胸元で抱え込むと、革の硬い感触が、わずかに私の焦燥を鎮めてくれた。


 城門を抜けると、朝靄が領民たちの生活の気配をぼんやりと包み込んでいた。


 城下町の広場は、早朝の寒気にもかかわらず、どこか熱を帯びている。

 薪を積んだ荷車が石畳を軋ませる音、市場を設営する槌音。

 だが、私がその空間に足を踏み入れた瞬間、それらの音は断ち切られた。


 潮が引くような静寂。

 代わりに押し寄せてきたのは、数百の瞳が放つ、針のような忌避の視線だった。


「……あいつだ」


「関わるな、呪われるぞ。王都から追放された毒婦だ」


 潜めた声が、湿った風に乗って耳に届く。

 彼らにとって、私は依然として美しい毒でしかない。

 触れれば枯れ、見つめれば病む。そう信じられている呪物なのだ。


 私はその視線を、皮膚の上を滑る冷たい雨のように受け流した。

 淡々と、広場の隅にある共同井戸へと歩を進める。

 そこは、昨日、私が「一人の人間」として見つめられた場所。


「あ、お姉ちゃん! 」


 凍てついた空気を切り裂いて、澄んだ声が響いた。

 人混みの合間から、茶色い髪を揺らして駆け寄ってくる小さな影。

 ティムだ。その後ろには、金髪を跳ねさせたミリーも続いている。


「ティム、戻りなさい! 近寄っちゃダメよ! 」


 直後、悲鳴に近い叫びが上がり、一人の女性が飛び出してきた。

 彼女は激しく肩を揺らし、苦しげな咳を漏らしながら、子供たちを自分の背後に隠蔽(パッキング)した。


 女性の顔は、寒さと病によって、乾いた土のような色をしていた。

 剥き出しになった鎖骨が、呼吸のたびに痛々しく上下する。

 ゼイ、ゼイ、という、肺の奥で濡れたガラスを擦り合わせるような不吉な音。


 彼女は、死を目前にした小動物のような目で、私を睨みつけた。

 その瞳に宿っているのは、自分への恐怖ではなく、子を守ろうとする本能の光だ。


「お、お願いです……。子供たちには、何もしないでください! 」


 周囲の領民たちが、遠巻きに円を作る。

 それは、見えないバリケードだった。

 私が指一本動かしただけで、彼らは一斉に爆発(パニック)を起こすだろう。


 私は足を止めた。

 彼女の怯えを正しく計測(トレース)し、その恐怖の波長に干渉しないよう、声を低く抑える。

 感情を殺し、ただ「事実」を伝えるための道具として、喉を使う。


「……驚かせてしまい、申し訳ありません。わたくしは、公爵閣下よりこの領地の薬師として任命されました、セレスティーヌと申します」


 私は鞄から、陶器の小壺と、丁寧に包まれた薬草を取り出した。

 指先が、鞄の革と擦れて小さな音を立てる。


「昨日、ティムからお母様の容態を伺いました。これは、肺の熱を鎮め、呼吸を楽にするためのものです」


「く、薬……? 」


 女性の瞳に、困惑という名の濁りが混じる。

 彼女は私の手にある薬と、私の顔を、何度も往復するように見つめた。


「王都の罪人が、なぜ、私たちに……? それに、そんなただの草が、魔法よりも効くはずが……」


 無理もない。

 高価な魔力を注ぎ込んだ魔薬(ポーション)こそが正義とされるこの世界で、地に這う草の効能を知る者はいない。

 だが、私にはわかっている。

 この植物の繊維の中に眠る、熱を食らい、炎症を抑え込む論理(ロジック)が。


 私は一切の躊躇いを捨て、彼女の懐へと一歩踏み込んだ。


「――触れますよ」


 彼女が拒絶の声を上げるより早く、私はその細い首筋に指を添えた。

 ビクリと、彼女の体が拒絶(リアクション)を示す。

 だが、私はその震えを無視し、指先から伝わってくる情報を収集した。


 速すぎる脈動。

 皮膚の下で燻っている、不快な熱。

 リンパの腫れが、私の指を押し返してくる。

 令嬢としての優雅さなどそこにはない。ただ、病魔という名の敵を分析する、冷徹な作業。


「……夜になるたび、喉の奥が焼けるように痛み、意識が遠のくはずです。このままでは、冬の盛りを越すことはできません」


 私の宣告に、女性は息を呑んだ。

 それは、彼女自身が誰にも言えずに抱えていた、死の予感(予言)そのものだったからだ。


「この乾燥した葉を、熱湯で煮出してください。香りが立ち上ったら、ゆっくりと時間をかけて飲むこと。そして、この軟膏は、眠る前に胸元へ。……三日後には、その不快な雑音は消えます」


 私は彼女の強張った手に、小壺を押し付けた。

 土を捏ねたような陶器の冷たさが、彼女の体温を奪っていく。


「魔法のような即効性はありません。ですが、これはあなたの身体そのものを、再び構築(リビルド)します。……信じるかどうかは、あなた次第です」


 私はそれだけを告げ、唇の端をわずかに持ち上げた。

 それは笑顔と呼ぶにはあまりに不器用で、ひどく脆い、一人の少女の表情だった。


「……ありがとう、お姉ちゃん! 」


 ティムの声が、緊張しきった空気を粉砕した。

 彼は母親の腰に抱きつきながら、私に向かって精一杯、小さな手を振る。


「……お大事に」


 私は短く一礼し、逃げるようにその場を去った。


 背中に突き刺さる視線の質が、変化していくのを感じる。

 それは純粋な恐怖から、理解不能なものを見る困惑(ラグ)へ。

 そして、ほんのわずかな、芽生えたばかりの期待へと。


 私は、自分の顔と名で、世界に触れてしまった。

 もう、透明な背景(モブ)には戻れない。


 だが、冷たいローブに包まれた私の胸の奥には、今までに感じたことのない、確かな重み(質量)が宿り始めていた。


 ***


 それから数週間の時間は、瞬きをする間もなく過ぎ去っていった。


 空は厚い鉛色の雲に閉ざされ、ノワールクール領は本格的な冬の支配(ドミネーション)下に入った。

 だが、城下町の空気は、以前のような腐敗(ヘドロ)した絶望感から脱却しつつあった。


 広場から、あの乾いた咳の音が消えたのだ。


 ティムの母親は、私の処方から三日目、自らの足で井戸まで歩いてきた。

 その光景は、領民たちにとって、どんな高位魔法よりも雄弁な事実(エビデンス)となった。

 私を「毒婦」と呼んでいた声は、いつしか「先生」という響きに置き換わっていった。


 私は、城の東棟に与えられた客室に、籠もりきりで作業を続けた。

 そこはもう、ただの寝所ではない。

 乾燥した薬草の匂いが染み付き、常に何かが煮える蒸気が立ち込める、命の工房(アトリエ)だ。


 高価な魔力付与薬(ポーション)は必要ない。

 凍てついた大地でじっと耐え忍んでいた、名もなき根や葉。

 それらを適切な温度で抽出し、比率を調整する。

 前世で培った、泥にまみれた戦場での知恵(タクティクス)が、この極寒の地で牙を剥く病魔を、一つずつ確実に屠っていく。


 私は夜通し、処方箋を書き続けた。

 一人ひとりの症状、顔色、生活環境。

 それらを記憶の記録(アーカイブ)から引き出し、最適な解答を導き出す。


 その結果は、町を満たす「色彩」となって現れた。

 青白かった子供たちの頬に、林檎のような赤みが差し。

 絶望に落ち窪んでいた老人たちの瞳に、春を待つ光が戻る。


「……本当に、治ってしまったんだな」


 ある午後のことだ。

 私が広場の石段に座り、届いたばかりの薬草を選別していると、一人の老人が歩み寄ってきた。

 領民たちのまとめ役である長老、トーマスだ。


 彼は私の数歩手前で足を止めると、ふと、不思議そうに周囲を眺めた。


「先生……妙なこともありますな。先生がここにおられると、足元の草花まで、なんだか瑞々しく見える」


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 指先が、薬草の茎を強く握りしめる。


 ……意識してはいけない。

 私の内側に眠る、ヴァルモン家の肥大した魔力(バグ)

 それが、私の無意識の呼吸に合わせて、周囲の生命力を活性化(ブースト)させている。

 王宮の観測網に悟られぬよう、隠し続けてきた私の呪い。


 トーマスは、私の動揺に気づく様子もなく、深く、深く腰を折った。

 その頭頂部にある薄い髪が、冬の陽光に晒される。


「セレスティーヌ様……。いえ、セレスティーヌ先生」


「……長老。頭を上げてください。わたくしは、ただ、取引に応じているだけです」


 私は乾いた声で、彼を突き放そうとした。

 だが、トーマスが顔を上げた時、その瞳に溜まっていた涙が、私の言葉を遮った。


「いいえ。あなたは、私たちの希望です。王都の連中が何を言おうと、私たちにとっては、あなたこそが……暗闇を照らす『聖女様』だ」


「聖女……っ」


 その響きは、私の内側にある、最も鋭い場所(トラウマ)を突き刺した。


 私は聖女などではない。

 家族を捨て、妹を操り、真実を隠蔽してここまで逃げてきた、卑怯な悪役令嬢(ヴィラン)だ。

 自分の保身のために、彼らを利用しているに過ぎないというのに。


 だが、周囲に集まってきた領民たちの瞳は、私の自己嫌悪などお構いなしに、熱を帯びていた。


「先生のおかげで、孫の熱が下がりました! 」


「この手を見てください! 先生の薬で、もう痛みもしない! 」


 次々と投げかけられる、言葉という名の礫。

 それは、前世で私が誰にも届けることができずに抱えたまま死んだ、不器用な生への執着

 それが今、この極寒の地で、他者の命を繋ぐ糸となって結実していた。


 透明な記録者でいるための防波堤が、音を立てて崩れていく。

 誰かの記憶に残ることは、その人の人生の重荷を背負うことだ。

 一度触れてしまえば、もう二度と、あの孤独な安全圏には戻れない。


 怖い。

 期待されることが、頼られることが、愛されることが、何よりも恐ろしい。


 だが。

 私の名を呼ぶ彼らの声が。

 差し出された、土で汚れた感謝の手が。

 私の凍りついた魂を、不遜なほど温かく溶かしていくのを、私は拒むことができなかった。


「……わたくしは……」


 完璧な笑顔を作ることも、冷淡な言葉を吐くこともできず。

 私はただ、剥き出しの自分という輪郭を晒したまま、立ち尽くした。


 その時だ。


 強烈な質量を持った視線を感じ、私は弾かれたように顔を上げた。


 広場を遥か下方に見下ろす、城のバルコニー。

 そこには、漆黒の外套を羽織り、凍てつく風を真っ向から受け止めている青年がいた。


 レオン・ノワールクール。


 彼は、微動だにせず、氷のような青い瞳でこちらを見つめていた。

 距離はある。だが、その瞳に宿る引力は、広場の喧騒を飛び越えて、私の心臓を正確に射抜いた。


 彼の眼差しには、侮蔑も、同情も、打算もない。

 ただ、『お前は、そこに存在している』という事実を、無慈悲なほど正確に目撃する光。


 ドクン。


 胸の奥で、重い鉄の扉が開くような音がした。

 私がここにいてもいいのだと。

 誰かの記憶に、その醜い爪痕を刻んでもいいのだと。

 彼がただそこに立ち、私を見ているというだけで、私の存在がこの世界に強く固定されていく。


 私は、彼から目を逸らすことができなかった。

 吹き抜ける冬の突風が、私のローブを激しく翻す。


 私の分厚い孤独の氷は、領民たちの温かな涙と。

 そして、レオンという、たった一人の「目撃者」の存在によって。

 音を立てて、確実に、崩壊しようとしていた。


 扉の向こう側にある、新しい光。

 それが私を焼き尽くすものだとしても、私はもう、その熱から逃げることはできない。

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