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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第37話 最初の夜、微かな希望

 窓の外、凍土を舐めるように吹き荒れる夜風が、分厚い石壁に衝突しては獣のような低い唸りを上げている。

 北の最果て(ノワールクール)の冬は、沈黙さえも凍てつかせるほどに重い。


 東棟の客室、石組みの暖炉では薪が爆ぜ、不規則なリズム(・・・・・・・・)で火の粉を散らしていた。

 揺らめくオレンジ色の光が、壁に私の影を長く、歪に引き伸ばしている。


 私は、部屋の隅にある質素な木の机に向かっていた。

 その上には、昼間に城下町の広場で、指先の感覚を奪われながら採取してきた薬草が広げられている。


 雪を被った荒野の端で、枯れかけたそれを選び取った時の感触(・・)が、今も指の腹に残っている。

 指先が茎に触れた瞬間、そこから滲み出したのは、月光を煮詰めたような淡い光だった。


 死に瀕していた植物の繊維が、内側から脈打ち、瑞々しい緑(・・・・)を取り戻していく。

 それは、この世界における摂理(ルール)を無視した、あまりにも傲慢な生命の横溢。


 ……考えてはいけない。


 ヴァルモン家の血筋に流れる、深淵よりも暗く、あまりにも巨大すぎる魔力の奔流(・・)を。

 幼い私の背に、父が呪文と共に刻みつけた『封印(かせ)』の痛みを。


 王宮に張り巡らされた魔力の観測網は、蜘蛛の巣のように繊細で、鋭敏だ。

 私の「異常」がその糸に触れれば、ようやく手に入れたこの静寂(・・)は一瞬で霧散する。


 だから私は、魔法を捨て、物理的な重み(・・)を持つ薬学の知識に縋る。

 葉の裏にびっしりと生えた、白い産毛のような細い繊維。

 それは寒冷地を生き抜くための、この植物の武装(・・)だ。


 前世という名の残滓(・・)が、私の脳内でこの植物を「解熱と抗炎症の特効薬」として識別する。

 かつて、泥濘と鉄錆の匂いが混じり合う野戦病院で、幾千の()を繋ぎ止めていた、あの無機質な知識。


 私は乳鉢に葉と茎を放り込み、石造りの乳棒を握った。

 ゆっくりと、円を描くように重力をかけていく。


 ゴリ、ゴリ――。


 石と石が擦れ合い、植物の細胞が粉砕(・・)される音が、狭い部屋の空気を振動させる。

 手首に伝わる一定の抵抗。

 その単調な反復が、私の意識を現実の縁へと繋ぎ止めていた。


 物資が枯渇し、叫び声さえも凍りつくような絶望(・・)の中で、ただ機械的に手を動かしていたあの日々。

 感情を濾過(ろか)し、一滴の機能だけを抽出するような、あの冷徹な手つき。


 この世界に堕ちてからも、私はその虚無(・・)を再演してきた。

 ステラや使用人たちのために、闇に紛れて薬を調合する時、私は常に「透明」であろうとした。


 誰の記憶にも残らず、誰の感謝も受け取らない。

 それが、私がこの世界を壊さないための、唯一の作法(・・)だったはずだ。


 なのに、今夜、乳棒を握る指先が、わずかに重心(・・)を失っている。

 説明のつかない、微かな「迷い」が、薬草の青臭い匂いと共に鼻腔を突く。


『お姉ちゃん、お薬作ってるの? ぼくのお母さんも咳してるから、お薬ちょうだい!』


 昼間、広場で出会った少年――ティムの、弾けるような声。

 その響き(・・)が、石壁に反射して脳裏を駆け巡る。


 私は今まで、徹底して「匿名の善行」という名の()を築いてきた。

 顔の見えない救済こそが、私を透明な記録者(レコーダー)として完成させるはずだった。


 恩義を売ることも、絆を結ぶことも、この物語の「ハッピーエンド」には不必要な不純物(・・)でしかない。


 だというのに、私は今日、自分の名を告げた。

「必ず薬を届ける」と、その小さな掌の温もりを無視できずに、約束をしてしまったのだ。


「……どうして、あんなことを」


 乳棒を動かす手が止まる。

 吐き出した吐息が、暖炉の熱に触れて、頼りなく揺れた。


 王都の連中は、私の貼り付けた完璧な微笑(・・・・・・)を、毒婦の余裕だと嘲笑った。

 領民たちは、私の中に潜むヴァルモンの影を恐れ、遠巻きに観察(・・)し続けている。


 それなのに、あの子供たちだけは。

 私の分厚い装甲(・・)を、あやすように軽く飛び越えてきた。


『なんか、すっごく冷たい顔してるね。笑ってるのに、全然笑ってないみたい』


 ティムが放ったその言葉は、どんな魔法の斬撃(・・)よりも鋭く、私の内側を切り裂いた。

 私の家柄も、背負わされた汚名も、彼らの前では無意味なノイズ(・・・・・・・・)に過ぎない。


 彼らが求めたのは「公爵令嬢」でも「毒婦」でもなく、ただそこに立ち、子供たちの言葉に耳を傾ける「一人の人間」としての私だった。


 三十三年の前世と、十五年の今世。

 半世紀近い時間をかけて積み上げた防衛線(・・・)が、あんな小さな、無垢な直感に屈してしまった。


 その滑稽な敗北(・・)の瞬間を。

 少し離れた場所から、息を潜めて見守っていた男がいた。


「……レオン・ノワールクール……」


 私はランプの炎を、吸い込まれるように見つめながら、彼の名を唇だけでなぞった。

 その瞬間、胸の奥を冷たい針(・・・・)で突かれたような感覚が走る。


 あの時、偶然に視線が絡み合った瞬間。

 彼はまるで、見てはいけない真実(・・)に触れたかのように、肩を震わせた。


 そして、酷く不器用に、逃げるようにして顔を背けた。

 銀灰色の髪の隙間から、彼の()が赤く染まっているのが見えた時、私の思考は一度、完全に停止した。


 感情を凍土に埋め、他者への関心を排した氷の公爵(フローズン・デューク)

 原作という名の預言書(・・・)に記された、冷徹な彼の肖像が、音を立てて崩れていく。


 彼がなぜ、私を王都の断罪(・・)から奪い去ったのか。

 この過酷な地に連れ去り、私を生かそう(・・・・)としているのか。


 あの辺境の茶屋で、彼が放った言葉――。

 拙く、それでいて拒絶を許さない(・・・・・・・・)ほどの力を持った、あの不器用な庇護。


 彼は見ていたのだ。

 大広間の中心で、私が自らその身に()を塗り、笑顔のまま死を待っていたことを。


 誰も傷つけたくないという、私の独りよがりな祈り(・・)の正体を、彼はその青い瞳で、真っ直ぐに射抜いていた。


 そして今日、城の書斎で。

 領地の荒廃を、数式のように淡々と報告する私に向けて、彼は言った。


『お前は、自分の価値がわかっていない』


 その言葉は、彼の喉の奥で、重く沈殿するように響いていた。

 私の価値(・・)

 そんなものは、あの婚約破棄の瞬間に、()へと回帰したはずなのに。


 王子の婚約者という、金メッキ(・・・・)の施された肩書きも。

 王国の最大権力者としての、血塗られた(・・・・)名誉も。

 愛していた家族との、脆い(・・)絆も。


 私はあの日、左手の薬指に食い込んでいた指輪を外し、床に転がした。

 エドガーとエレーヌ、二人の弟妹に()を向けた時、私の人生は完結した。


 私の魂は、あそこで一度、木っ端微塵に砕け散っている。

 私はもう、物語という名の舞台(・・)の上にはいない。

 客席の隅で、ただ舞台が暗転するのを待つだけの、残像(・・)だ。


 だというのに。

 彼の視線が、彼の言葉が。

 私がようやく辿り着いた、心地よい絶望(・・)の底に、無理やり光を捩じ込もうとしてくる。


 私は乳鉢から、濃い緑色のペースト(・・・・)を匙で掬い上げた。

 それを、机に並べた小さな陶器の壺へと、一滴も零さぬよう丁寧に詰めていく。


 明日の朝。

 これをティムとミリーに、直接手渡す。


「名もなき善意」として、枕元に置いて逃げるのではない。

「セレスティーヌ」という、一人の薬師(・・)として。

 彼らの瞳を、その真っ直ぐな視線を見据えて。


「……怖い」


 吐き出した言葉が、静寂に飲み込まれていく。

 私は、誰かと繋がる(・・・)ことが、これほどまでに恐ろしい。


 誰かの人生に介入すれば、私は再び「実体(・・)」を持ってしまう。

 この世界の均衡(バランス)を乱す、予測不能な変数となってしまう。


 そして何より。

 誰かに必要とされることを、期待(・・)してしまう自分が、どうしようもなく恐ろしいのだ。


 私は立ち上がり、冷たい床を踏み締めて窓辺へと向かった。

 分厚いガラスの向こう。

 夜空を覆う雪雲の隙間から、氷のように鋭い星がいくつか、私を見下ろしていた。


 この城に到着した最初の夜。

 私はこの同じ窓から、ただ静かに()の訪れを待っていた。

 独りきりで消えていけることを、至福の救いだと信じて疑わなかった。


 だが、今の私の胸の中にあるのは、あの時のような澄んだ絶望ではない。

 心臓の、ちょうど裏側あたり。

 万年雪に覆われていた場所に、微かな()が灯っている。


「……ここでは、私は『悪役令嬢(・・・・)』でなくてもいいのよね」


 窓ガラスに触れた指先に、鋭い冷気が伝わってくる。

 ここには、私を裁く(・・)アルベール殿下もいない。

 私を踏み台にする(・・・・・・)ステラも、私を操る(・・)マルグリットもいない。


 彼女たちの幸福(ハッピーエンド)を演出するための、ノイズ(・・・)としての私を、もう演じ続ける必要はないのだ。


 トーマス長老に誓った通り、私はこの地で、ただの薬師(・・)として生きる。

 私の持つ、前世の血生臭い記憶さえ、誰かの痛みを和らげるための道具()になるというのなら。


 私は、匿名という名の逃げ道(・・・)を捨てたい。

 セレスティーヌという一人の女として、彼らに向き合いたい。


『お前は、自分の価値がわかっていない』


 レオンの声が、再び脳を打つ。

 彼が私を必要だと言った、その理由が同情(・・)であれ、利用(・・)であれ。


 彼は私を、見つけた(・・・・)

「誰の記憶にも残らない」という、私が私にかけていた呪い(・・)を、彼はその無骨な言葉で、いとも容易く解いてしまった。


「……報われなくていいと、思っていたわ」


 窓ガラスに映る、自分の顔を見つめる。

 そこには、王都で見せていた完璧な仮面も、絶望に凍りついた無表情もない。


 ただ、少しだけ困ったように眉をひそめ、けれど何かに(すが)ろうとしている、等身大の少女がいた。


「感謝なんて、いらなかった。ただ、誰も傷つけずに、静かに消えたかっただけなのに」


 独り言が、白く濁って消えていく。

 嘘だ。

 私はずっと、誰かに見つけてほしかった。


 私がここにいることを。

 私が息をし、血を流し、生きていることを。

 誰か一人でいいから、肯定(・・)してほしかった。


 そして今、私はあの不器用な男(・・・・・・)に見つけられたのだ。

 彼が差し出した「庇護(ひご)」という名の、不格好な傘の下。

 私は初めて、肺の奥まで空気を吸い込める感覚を知った。


「……ここでなら。私は、ここにいてもいいのかもしれない」


 それは、絶望の底で拾い上げた、あまりにも不確かな希望(・・・・・・)だった。


 私はもう、透明な記録者(レコーダー)ではない。

 この厳しいノワールクールの冷たい大地に爪を立て、自分の足で立ち、自分の手で誰かの痛みを癒そうとする、一人の人間だ。


 明日、子供たちに薬を渡す時。

 私は、どんな表情をすればいいのだろう。


 もう、完璧な微笑(・・)は作れない。

 ならば、引き攣っていても、不格好でも構わない。

 本当の自分の顔(・・・・・・・)で、彼らの好意を受け止めよう。


 暖炉の薪が、最期の光を放つように小さく爆ぜた。

 私は窓辺を離れ、机の上の薬壺を、両手でそっと包み込んだ。


 陶器の冷たい感触。

 その中に、私が込めた治癒(・・)という名の、確かな重みが詰まっている。


 ノワールクールの夜は、骨の髄まで凍えるほどに冷たい。

 だが、今の私の心臓には、これまでの孤独な人生には一度も宿らなかった、静かな脈動(・・)があった。


 明日が来るのが、少しだけ、待ち遠しい。

 そんな、当たり前すぎて忘れていた感情を抱きながら、私はランプの火を吹き消した。


 冷たく厳しい辺境の地で。

 透明な記録者(レコーダー)としての私は死に、一人の人間としての新しい生が、静かに産声(・・)を上げようとしていた。

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