第33話 追放の道中、観測者の出現
王都を囲む石造りの巨壁が、煤けた車窓の向こう側へと、ゆっくりと、だが確実に遠ざかっていく。
装飾を剥ぎ取られた質素な馬車は、もはや王都の滑らかな舗装を忘れてしまったらしい。
郊外の、土と礫が剥き出しになった粗野な道へと差し掛かると、車輪は容赦なく石を噛み、その衝撃を背骨へと直接伝えてくる。
かつて背を預けていた、ヴァルモン公爵家の紋章が刻まれた豪奢な馬車。
何層ものクッションが重力を殺していたあの空間とは、もはや呼吸の質すらも異なっていた。
隙間だらけの窓枠から、秋の冷気が湿った刃のように忍び込んでくる。
私は、纏った暗灰色のローブの端を、指先の感覚が失われるほど強く掻き合わせた。
膝の上に置かれた、小さな革の鞄。
持ち出しを許されたわずかな着替えが、揺れるたびに中で寂しげな音を立てる。
それが、十五年間を「セレスティーヌ・ヴァルモン」として費やしてきた私の、質量のすべてだった。
「……終わったのね」
吐き出した言葉は、乾燥した車内の空気に吸い込まれ、車輪が立てる軋鳴の中へと霧散していった。
手のひらから零れ落ちたのは、地位や名誉といった、形ばかりの殻だけではない。
かつて私を愛していたはずの視線。
帰るべき場所にあった、あの柔らかな静寂。
それらすべてを、私は自らの意志で、裁断したのだ。
マルグリット・セルヴァンが張り巡らせた、稚拙で、それゆえに強固な陥穽。
私はその中心へと、自ら足を踏み入れた。
ステラ・メルヴィユへの憎悪を演じ、暗殺未遂という汚名を、まるで勲章のように胸に抱いた。
公爵家からの勘当。
第一王子アルベール殿下による、冷徹な宣告。
それらを、私は唇の端を吊り上げた「完璧な形」で受け入れた。
私が大罪人としてこの世界から退場すれば、物語の整合性は保たれる。
ステラは確かな庇護者を得て、幸福という名の完成へと向かうだろう。
使用人たちに処罰が及ぶことも、公爵家が泥に塗れることもない。
計画は、冷酷なまでに美しく、そして完結した。
『これで、いいのよ』
そう思考を巡らせるたびに、胸の奥底で、巨大な洞穴が口を開けていく。
そこからは、言葉にならない冷たい虚無が、拍動に合わせて溢れ出していた。
かつて、誰の前でも崩すことのなかった「鋼の微笑」。
それを維持するだけの、熱が、もう身体のどこにも残っていない。
視界の隅で、車壁に映る自分の顔を捉えた。
誰も見ていないこの薄暗い箱の中で、私は、ただの抜け殻になっていた。
笑うことすら忘れた、レベル4の空白が、そこにはあった。
前世。
血と消毒液の匂いが鼻腔にこびりついて離れなかった、あの野戦病院の孤独。
何千枚もの写真を残しながら、誰一人として私の内側に触れぬまま死んでいった、あの断絶。
今世でも、私は同じ袋小路に辿り着いてしまった。
誰にも愛されず、誰にも理解されず。
ただ「冷酷な毒婦」という記号だけを人々の記憶に刻み、一人で暗闇へと消えていく。
脳裏に焼き付いているのは、エドガーとエレーヌの、絶望に濡れた瞳。
「……ごめんなさい。ごめんなさい……」
膝に額を押し当て、両手で顔を覆った。
手のひらに伝わる肌の温度は、もはや死人のそれと変わらない。
涙は、出なかった。
泣くための回路は、ずっと以前に、凍結させてしまったから。
代わりに、魂が軋むような、鈍い痛みが絶え間なく心臓を苛み続けている。
これから向かうのは、北の国境に近い、冬に閉ざされた辺境だという。
この細い身体が、その過酷な沈黙にどこまで耐えられるだろうか。
知識はあっても、それを振るうための芯が、すでに折れかかっている。
私はその絶対的な絶望の底で、ただ揺れに身を任せるしかなかった。
***
陽光が西の空へと逃げ込み、影が長く、鋭く伸び始めた頃。
馬車は、街道沿いの寂れた茶屋の前で、吐息をつくように止まった。
「馬を休ませる。……降りろ、貴様もだ」
近衛騎士の、研がれた刃のような声が響く。
扉が乱暴に開かれ、冷気がなだれ込んできた。
「……はい。ありがとうございます」
私は、縋るように鞄を抱き締め、土の匂いがする外へと降り立った。
秋の夕暮れの風は、王都のそれよりも密度が濃く、肌を刺す。
茶屋は、年月を重ねてひび割れた木の柱と、煤けた天井に支配されていた。
土間に置かれた粗末な長椅子。
店主の老夫婦は、私を連行してきた騎士たちの威圧感に、怯えたように目を伏せた。
私は、部屋の最も暗い隅。
光の届かない場所にあるテーブルに、音を立てずに腰を下ろした。
出された白湯を、震える両手で包み込む。
温もりは、陶器の厚みを透かして、ようやく指先に届く程度だった。
ふと、あの断罪の日の光景が、不意に、鮮烈な閃光となって脳裏を焼いた。
『お前は、誰も傷つけたくなかったんだろう』
心臓が、ひどく醜く脈打った。
木のマグカップの中で、白湯が小さな波紋を立て、私の指を濡らす。
レオン・ノワールクール。
私が精巧に築き上げた、自己犠牲という名の結界。
それを、彼はたった一言で、無惨に、そして正確に穿った。
あの、すべてを凍りつかせるような、深い青の瞳。
彼は、私が悪女などではないことを。
ただ怯え、誰かを守るために震えている、一人の子供であることを。
暗闇に沈もうとする私を、あの言葉だけが、呪いのように現世へと繋ぎ止めている。
「……もう、会うことも、ないのに」
白湯の湯気を見つめ、自分に言い聞かせるように、言葉を零した。
彼は、王国の最果てに座する、孤高の公爵。
そして何より、私の持つ知識において、唯一記述が存在しない「空白」そのもの。
なぜ彼が私の本質に触れたのか、その理由はわからない。
けれど、私はもう追放者だ。
物語から切り離された断片に、彼が干渉する理由など、どこにもないはずだ。
私の世界に刻まれた、致命的なヒビ。
それも、やがて降り積もる忘却の雪に埋もれ、消えていく。
そう、信じていた。――その時だ。
茶屋の、湿って重くなった木の扉が、悲鳴を上げるように開かれた。
一気に流れ込んだ風が、店内の埃を巻き上げ、ランプの炎を狂わせる。
「なんだ……こんな場所に、誰が」
騎士の一人が、不審を露わにして剣の柄に手をかけた。
だが、次の瞬間。
その身体が、落雷に打たれたように硬直した。
「こ、公爵閣下……っ!?」
震える声に弾かれ、私は、ゆっくりと扉の方へと顔を向けた。
そこに立っていたのは、夜の静寂をそのまま人型に切り出したような、一人の青年。
夕日の残滓を背負ったその輪郭は、あまりにも鋭く、そして重い。
銀灰色の髪が、薄暗い店内で、鈍い月の光を宿している。
漆黒の外套は、周囲の光をすべて飲み込み、そこに虚空が存在するかのような錯覚を抱かせた。
レオン・ノワールクール。
彼が、ゆっくりと土間を踏みしめる。
一歩ごとに、茶屋の温度が一段ずつ、確実に下がっていくのがわかった。
騎士たちが、慌てて椅子を蹴立て、地を這うような礼を取る。
レオンは、その様子を一瞥すらすることなく。
ただ無表情のまま、その青い深淵で、隅にうずくまる私を正確に射抜いた。
――ドクン。
肋骨を内側から叩き割るような、激しい衝撃。
逃げなければならない、と本能が叫んでいた。
この男の前にいれば、私の「孤独」という名の鎧が、粉々に砕かれてしまう。
けれど、恐怖という名の重力が、私の四肢を床に縫い付けていた。
完璧な笑顔を張り付ける余裕すら、残されていない。
私はただ、射すくめられた小鳥のように、彼を見上げることしかできなかった。
レオンは私の目の前まで来ると、音を立てずに、長椅子にその身を預けた。
漆黒の布地が擦れる音が、沈黙の中で、不吉なほど鮮明に響く。
テーブルを挟んで、絶対零度の沈黙が、私を押し潰しにかかる。
遠巻きに眺める騎士たちの呼吸が、ひどく遠く感じられた。
「……なぜ」
喉の奥が張り付き、ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「なぜ……ここに、いらっしゃるのですか……公爵様」
体裁を保とうとする私の虚勢は、その一言だけで、脆くも崩れ去っていた。
震える指先を隠すこともできない。
レオンは、微動だにせず、私を観測し続けていた。
汚れ、薄汚れた灰色のローブ。
血の気を失った、青白い頬。
それらを、彼は一つずつ、冷徹に現像していく。
やがて、彼は深く、音を立てずに息を吐き出した。
その双眸に宿る冷たさは、しかし、私の心を射抜くほどに鋭利だった。
「勘違いするな」
低く、地を這うような響き。
その言葉が、私の耳朶を冷たく打った。
「俺は、お前を助けに来たのではない」
「……え?」
「俺の領地であるノワールクールは、過酷な寒冷地だ。常に怪我や病が絶えんが、腕の立つ薬師が、決定的に不足している」
レオンは、テーブルに片肘をつき、私との距離を、物理的に、そして精神的に詰めた。
「深夜の温室。お前が密かに、誰にも知られず調合していた、あの軟膏。……お前が、表沙汰にできない高度な知識を持っていることは、既に調べがついている」
呼吸が、完全に停止した。
私の「善行」という名の、透明な足跡。
彼はそれを、すべて暴いていたのだ。
「王命による追放先など、どうせ野垂れ死ぬだけの場所だ。ならば……俺の領地へ来い」
彼の声には、温もりなど、欠片も含まれていないように聞こえた。
あくまで、利害と冷徹に基づいた要求。
「お前がいないと、俺の領地の民が困る。……俺は、お前のその力を買いに来ただけだ」
それは、あまりにも無骨で、あまりにも明白な、虚飾の言葉。
王国最年少の公爵が。
その絶大な権力を持つ彼が、薬師一人を雇う金や伝手に困るはずがない。
ましてや、断罪されたばかりの「罪人」を領地に引き入れる。
それがどれほど、彼自身の立場を危うくするか、わからないはずがないのだ。
それなのに、彼は、馬を駆り、この街道を追ってきた。
『お前は、誰も傷つけたくなかったんだろう』
あの時、彼が投げかけた言葉が、再び、私の心臓を激しく揺さぶる。
彼は、私が、孤独という名の奈落へ落ちることを、拒んだのだ。
「……公爵、様……」
私は、テーブルの端を、指が白くなるまで握りしめた。
視界が、不自然な歪みを見せ始める。
怖い。
この男の指先一つで、私の築き上げた「透明な結末」が、無残に壊されていく。
けれど、その絶望的な恐怖の裏側で。
冷え切り、機能を失っていたはずの私の胸が。
かつてないほどに、激しく、熱い拍動を刻み始めていた。
『私を、見つけてくれた』
光を拒み、誰の目にも触れぬよう、暗闇へと沈もうとした私を。
彼だけが、その深い青で見つけ出し、強引に、引き戻そうとしている。
「……」
私は、言葉を失ったまま、彼の瞳をじっと見つめ返していた。
外を吹き荒れる風が、茶屋の古い窓を、ガタガタと打ち鳴らし続けている。
誰の記憶にも残らずに終わるはずだった、私の孤独な物語。
それは、レオン・ノワールクールという、たった一人の観測者の手によって。
今、予測不能な、未知の質量へと書き換えられようとしていた。
心臓を締め付ける、鋭い戦慄。
そして、狂おしいほどの救済。
二つの熱に引き裂かれながら、私はただ、目の前の彼から、目を逸らすことができなかった。




