第32話 婚約指輪を返す日
扉を閉めた瞬間、空気の重力が変わった。
慣れ親しんだ自室は、主を失うのを待つ剥製のように静まり返っている。
天蓋付きのベッドを覆うシルクのヴェールが、窓から入り込む微かな風に、幽霊の羽ばたきのような音を立てた。
磨き上げられたマホガニーの机。
そこには、私が昨日まで愛用していた万年筆が、持ち主の指の温もりを忘れた顔で転がっている。
この空間を構成するあらゆる「富」が、今は私を拒絶する異物に見えた。
クローゼットの奥から、数年前に仕立てたきりの暗い灰色のローブを引き出す。
指先に触れる生地のざらつきは、贅沢に甘やかされた肌を鋭く覚醒させた。
それは、これから私が歩む道の厳しさを予言する、乾いた質感だった。
鏡の前に立つ。
そこに映るのは、ヴァルモン公爵家という虚飾を纏った、一人の女の残像だ。
私は、自分の首筋で冷たい光を放つ真珠のネックレスに手をかけた。
金具を外すたびに、肌から不自然な重みが消えていく。
サファイアのピアスをトレイに置いた時、カチャリと響いた音は、私の輪郭を一つ削り取った音だった。
装飾を剥ぎ取るごとに、私は透明な「無」へと近づいていく。
小さな鞄に、必要最低限の着替えを押し込む。
指の隙間を、冷たい空気が通り抜けていった。
ここにあるのは、三十三年前の戦場で嗅いだ、硝煙の臭いに似た沈黙だけだ。
喉の奥で、苦いものがせり上がる。
それは言葉にならなかった後悔か、あるいは、ただの生理的な拒絶か。
私はそれ以上、鏡の中の自分を見ることをやめた。
廊下に踏み出すと、足音がいつもより高く、鋭く響いた。
壁に並ぶ先祖たちの肖像画が、冷徹な視線で私の背中を刺してくる。
拒絶は、音もなく私の全身を浸食していった。
正面玄関へと続く大階段は、果てしなく続く崖のようだった。
一歩下りるたびに、公爵令嬢としての命が、一段ずつ切り離されていく。
肺の奥が、冷たい水に満たされていくような錯覚を覚えた。
エントランスホールには、王宮の鉄の匂いが立ち込めていた。
整然と並ぶ近衛騎士たちの甲冑が、ランプの光を暴力的に反射している。
彼らが纏う空気は、慈悲を排除した法の結晶だった。
アルフレッドとマリーが、ホールの一角で凍りついたように立っていた。
彼らの顔面から血の気が失われ、その白い指先は主を失う恐怖に震えている。
私はあえて、彼らの瞳を正面から捉えることを避けた。
近衛騎士のひとりが、一歩前に出る。
硬い革靴が石床を叩く音は、処刑の宣告のように響いた。
「セレスティーヌ・ヴァルモン。刻限だ」
男の視線が、私の手に提げた貧相な鞄の上を滑る。
その瞳に浮かんだ蔑みが、冷たい風となって私の頬をなでた。
「……荷物は、本当にそれだけか? 」
「ええ。わたくしに相応しいものは、もう、これだけですわ」
私の唇は、滑らかな嘘を紡ぎ出した。
それは、完璧に調律された楽器のように、一点の揺らぎもない音だった。
私は左手をゆっくりと持ち上げ、その薬指を、右手の指先でなぞった。
そこには、王家の紋章が刻まれた大粒のダイヤモンドが居座っている。
それは、私の家族の命を繋ぎ止めるための、重すぎる楔だった。
指輪を引き抜こうとした瞬間、皮膚が金属を離すまいと抵抗した。
肉が、皮が、骨が、これまで私を定義していた唯一の盾を失うことに怯えている。
指先から伝わる振動が、心臓を直接揺さぶった。
――ズリ、と。
皮膚を摩擦する鈍い感触とともに、指輪が抜けた。
その瞬間、全身の血流が一度停止し、それから逆流を始めたような衝撃が走った。
視界の端が、一瞬だけ白く明滅する。
指に残された白濁した跡が、私の喪失を雄弁に物語っていた。
それは、かつてそこに愛や誇りがあったことを示す、痛々しい脱皮の痕だ。
私は震える指先を、もう片方の手で力任せに押さえつけた。
騎士の差し出した盆の上に、私はそれを静かに置いた。
コトリ、と。
その軽い音一つで、私の三十三年間の祈りは、ただの「返却物」へと成り下がった。
「アルベール殿下へ。これまでの、多大なるご厚情に……」
喉が、引き絞られるように狭まる。
私は、肺に残った全ての空気を使い、最後の微笑を顔面に貼り付けた。
「――心からの感謝を、お伝えくださいませ」
言い切った瞬間、味覚が失われた。
口の中には、ただ虚無の味が広がっている。
騎士は盆を奪うように受け取ると、顎で出口を示した。
彼らの目に映る私は、己の恥を理解せぬ、血も涙もない木偶に過ぎない。
それでいい。私はそう、自分を説得し続けた。
玄関の重い扉が開くと、王都の夕闇が雪崩のように流れ込んできた。
空は、内出血を起こしたかのような、赤黒い色に染まっている。
風は、私の薄いローブを容赦なく切り裂こうと襲いかかった。
一歩、外へ踏み出す。
その時、視界の隅で、バルコニーの影に潜む小さな命が、私の網膜を叩いた。
エドガーと、エレーヌ。
エドガーの握りしめた小さな拳は、白く、硬い意思を宿している。
エレーヌの頬を伝う涙は、夕日に照らされて、残酷なほど美しく輝いていた。
二人の放つ熱い視線が、私の心臓を焼き焦がしそうになる。
今すぐ、その涙を拭ってやりたい。
その小さな肩を抱きしめ、真実という名の毒を、全て飲み込んでやりたい。
けれど、私の身体は、一ミリの揺らぎも見せることを許さなかった。
私は二人に向かって、ゆっくりと右手を挙げた。
それは、祝福でも別れでもなく、ただの断絶を示す動作。
私の指先は、秋の枯葉よりも冷たく、そして軽かった。
『さようなら』
声にならない呪文が、胸の内で弾けた。
それは二人の未来を、私という汚泥から引き離すための、最後の一撃だった。
エドガーの身体が、ビクリと跳ねる。
私はその反応を視界から追放し、前方の石畳だけを見つめて歩を進めた。
一歩ごとに、彼らの温もりが遠ざかり、私の内側は空洞になっていく。
屋敷の巨大な鉄門が、私の背後で悲鳴を上げた。
ギィィィ、という金属の擦れる音は、私の過去という物語を封殺する葬送曲だ。
ガシャン、という終止符が、王都の空に高く響き渡った。
門の外に待つ馬車は、色褪せた木材と、埃を吸い込んだ革の匂いをさせていた。
それは王都の華やかさとは無縁の、ただの箱だった。
私はその箱に、自らの魂を詰め込むべく足を踏み入れる。
乗り込む直前、冷たい突風が吹き抜けた。
その風の中に、あの人の青い視線が混じっているような気がした。
レオン・ノワールクール。
私の完璧な設計図を、その鋭い眼差しだけで無に帰した男。
彼が放った言葉の質量は、今も私の肺の奥に、鉛のように沈み込んでいる。
それは、消したくても消えない、異物としての熱だった。
『お前は、一人で全てを背負おうとする』
脳内で再生されるその声が、私の脊髄を、不自然な震えで満たす。
誰も見つけなかった私の「正体」を、彼はたった一言で現像してしまった。
恐怖だった。
そして、その恐怖と同じだけの、激しい呼吸の欲求があった。
孤独な暗闇の中で、彼の瞳だけが、私に人間であることを強いている。
「……もう、会うことはないわ」
私は、凍りついた喉からその言葉を絞り出した。
それは、自分自身を繋ぎ止めていた、最後の鎖を断ち切るための儀式だった。
馬車の扉が、重く閉じられる。
外界の光が遮断され、私は狭い密室の闇に閉じ込められた。
馬車の揺れが、身体の芯にある平衡感覚を、ゆっくりと狂わせていく。
車輪が石畳を叩く規則的なリズム。
それは、私の存在が世界から摩耗されていく音だ。
窓の外を流れる王都の夜景は、もう二度と、私の肌に触れることはない。
膝の上で握りしめた両手は、死人のように冷たくなっていた。
指先を動かそうとしても、自分の意思がそこまで届かない。
私はただ、形だけを保った空の器として、そこに座っていた。
暗闇の中で、私の意識はゆっくりと液状化していく。
幸せになるべき人々。
守られるべき、明るい未来。
その構図を完成させるために、私はこの奈落を自ら選んだ。
私の魂が千切れ、粉々になって飛散していく感触すら、今は心地よい痺れのようだった。
誰の記憶にも残らない、透明な死。
私は暗闇の中で、一度だけ深く、震える呼吸を吸い込んだ。
肺の奥に、冬の冷気が深く、鋭く突き刺さる。
私はその痛みを、ただ一つの生の証として抱きしめた。
馬車は、王都の境界を超えていく。
私は、一滴の涙も流さぬまま、静かに、「私」が消えていくのを見つめていた。




