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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第31話 使用人たちの沈黙

 重厚な。

 あまりに重厚な、黒檀の扉が背後で閉まった。

 閂が落ちるような、硬質で容赦のない音が、鼓膜の奥でいつまでも反響を続けている。


 私は、冷たい大理石の壁に額を預けた。

 石の芯まで凍てついた温度が、皮膚を通じて脳の芯まで浸食してくる。

 肺の奥に溜まった澱んだ空気が、一度だけ、小さな震えとなって唇から漏れた。


 それは、言葉にもならない、ただの吐息だった。

 けれどその一息に、十五年間の体温のすべてが混ざっていた。

 私は、自分の指先から感覚が消えていくのを、他人事のように確認する。


 これで。

 これで、いい。

 壁の冷気が、焼けるように熱い思考を、強引に冷却していく。


 私は、ヴァルモン公爵家という「物語」から、切り離された。

 家系図という名の白紙に、私の居場所はもう、一滴の染みすら残っていない。

 学園でばら撒かれた、あの毒の香りが、この屋敷の静謐を汚すことはもうないのだ。


 父の、あの裂けたような声。

 母の、湿った重みを帯びた視線。

 弟たちの、何も知らない、眩しすぎる陽だまりのような笑い声。


 それらを、私は自ら切断した。

 鏡を割るように、鋭く、二度と元には戻らない角度で。

 彼らをこの泥沼から遠ざけるための、それが唯一の、そして最後の代償だった。


 私は、壁からゆっくりと額を離した。

 石の冷たさが、額に痣のような赤い痕を残している。

 震える両手を持ち上げ、自分の頬を、容赦なく、パチンと音が鳴るまで叩いた。


 ――衝撃。

 痺れるような痛みが、停滞していた血流を強制的に呼び起こす。

 私はその痛みを手がかりにして、表情の筋肉を、一つ一つ精密に配置し直した。


 口角は、慈悲すら感じさせない、完璧な弧を描く。

 紫水晶の瞳からは、一切の揺らぎと、湿り気を排除する。

 鏡の中に、誰も愛さず、誰にも愛されない人形が完成した。


 令嬢という名の羽衣を脱ぎ捨てた私に残ったのは、この硬い殻だけ。

 前世から持ち越した、感情を排した「記録者(オブザーバー)」としての、乾いた矜持。

 私は背筋を、鋼の芯を入れたように垂直に伸ばし、歩き出した。


 ――


 大理石の回廊の角を曲がった、その瞬間。

 私の世界が、物理的な摩擦を伴って、ぎりりと軋んだ。

 足が、目に見えない枷をはめられたように、石床に縫い付けられる。


 薄暗い回廊の両側に、列があった。

 この屋敷で働く、数十人もの使用人たち。

 彼らが、一言の私語もなく、葬列のような静寂の中で私を待ち構えていたのだ。


 最前列、白髪を厳格に整えた老執事アルフレッド。

 その隣で、エプロンの端をちぎれんばかりに握りしめているメイド長のマリー。

 その後ろには、かつて私が、深夜の静寂の中で調合した薬で、熱を下げた子供の親たちもいる。


 彼らの放つ呼気が、冷たい廊下の空気を不自然に温めている。

 その熱が、私の皮膚に抵抗感として纏わりついた。

 誰もが、今にも崩落しそうなほど、顔を歪めている。


 学園から届いた、悪意に満ちた断罪の知らせ。

 そして今、この奥の部屋で下された、絶対的な拒絶。

 その事実は、すでに沈殿物のように、この屋敷の底に溜まっていた。


「お嬢様……っ!」

 マリーが、喉の奥を掻き切るような声を上げた。

 彼女の目から溢れ出した雫が、石の床に落ち、小さな、けれど重い音を立てる。


「お待ちください、お嬢様! 私共は……私たちは、知っております! お嬢様が、あのような恐ろしい真似を、なさるはずがないことくらい!」

「そうです! お嬢様は、いつだって……私共のような草葉のような命のために……!」


 連鎖。

 一人の声が、堰を切ったように、周囲の沈黙を破壊していく。

 それは、私が必死に匿名というベールで隠し続けてきた、不器用な痕跡だった。


 私が深夜、誰にも見られぬように庭師の傷に塗った軟膏。

 匿名で下働きの少女に届けさせた、熱を冷ます煎じ薬。

 それらは、決して「毒物」などではなかったことを、彼らの身体が、その快復の記憶が証明していた。


 私がどれほど完璧に透明であろうとしても。

 彼らは、その不在の温もりを正確に感じ取り、心の奥底に澱のように溜め込んでいたのだ。

 それは、今の私にとって、計画を根底から覆しかねない、猛烈な重力だった。


 もし。

 もし、彼らが私のために、その忠誠を叫んでしまえば。

 マルグリットという、針のように鋭い合理主義者は、彼らをも「共犯」という名の天秤に掛けるだろう。


『ダメ。静かにしていて。あなたたちは、ただの背景でいなきゃいけないの』

 私の内側で、悲鳴のような声が響く。

 けれど、私の唇が形作ったのは、それとは真逆の、凍りついた拒絶だった。


 私は、顔に張り付いた仮面を、さらに研磨するように鋭くした。

 瞳の焦点をわざと曖昧にし、彼らという存在を、価値のない瓦礫のように見下ろす。


「……黙りなさい」


 その声は、自分のものとは思えないほど、乾いていた。

 廊下に、氷の柱が立つような衝撃が走る。

 マリーの肩が、びくりと跳ね、空間から一切の音が消失した。


「わたくしは、王家から廃棄を言い渡された大罪人よ。そして今、この家からも切り捨てられた。……ただの奉公人の分際で、これ以上関われば、あなたたちの首がどうなるか、理解できないほど愚かなのかしら」


 私は一人一人の顔を、解剖するようにゆっくりと見渡した。

 視線の圧力だけで、彼らの喉を締め上げる。

『これ以上喋れば、あなたたちの平穏を、私がこの手で破壊するわ』


 言葉にしない脅迫。

 私が冷酷な暴君として振る舞うこと。

 それが、彼らを王宮の執拗な追及から守る、唯一の防壁なのだ。


 使用人たちは、私のその鋭利すぎる笑顔の奥にある、決定的な空洞を見つめていた。

 誰一人、言葉を返さない。

 ただ、肩を震わせ、耐えきれない摩擦に身を焼かれるようにして、咽び泣き始めた。


 彼らは、気づいてしまったのだ。

 私が、彼らのために、自分の名誉の最後の一片までを泥の中に投げ捨てようとしていることに。

 その自己犠牲という名の、残酷すぎる愛の形に。


 その時。

 老執事アルフレッドが、ゆっくりと、沈殿した空気の中を泳ぐようにして前に進み出た。

 彼の深い皺には、何十年もの歳月が刻んだ、重い影が落ちている。


「……お嬢様」

 その声は、掠れていたけれど、驚くほど強固だった。


 彼はかつて、私の完璧な造り笑いを見つめ、「なぜ笑っておられるのですか」と問うた男だ。

 私の防衛線の脆さを、彼は誰よりも早く察知していた。


 アルフレッドの瞳には、私が隠し続けてきた孤独と。

 そして、今まさに奈落へ飛び込もうとする私の絶望を、すべて包み込むような、深い慈しみがあった。


 私は、その視線に、ほんの一瞬だけ陥落しそうになった。

 喉の奥が熱くなり、仮面の端が、蜜蝋のように溶け出しそうになる。

 けれど、私はそれを、一瞬の沈黙で食い止めた。


「……アルフレッド。今まで、世話になったわね。でも、もういいのよ」

 私は、極北の風のような声で告げた。


 あなたたちの想いは、もう十分に私の重荷になった。

 だから。だから、どうか私を忘れて、無傷でいて。

 私は、誰の物語にも残らない、透明な記録者(オブザーバー)にならなければならないのだから。


 私のその言葉に、アルフレッドは深く、魂を折り畳むようにして頭を下げた。

 マリーも、他の者たちも、もう私を止めようとはしなかった。

 彼らはただ、絶望的な無力感という名の海に沈みながら、私が遠ざかっていくのを見送るしかなかった。


 私は再び背筋を伸ばし、死後の世界へ向かうような足取りで、彼らの間を通り抜けた。


 ――


 自室へと続く、さらに深淵のような回廊へと足を踏み入れた、その時。

「セリア、待って――!」


 背後から響いたのは、叫びというよりは、悲鳴だった。

 私の全身の毛穴が、一斉に閉じるような悪寒が走る。


 振り返る必要はなかった。

 母、イザベラ・ヴァルモンの声だ。

 廊下の奥から、シルクのドレスを悲鳴のように擦れさせ、駆け寄ってくる足音が聞こえる。


 母は、知っていた。

 私の「完璧な笑顔」が、ただの出血を止めるための包帯に過ぎないことを。

 私が孤独という荒野を歩いていることに気づきながらも、彼女は公爵夫人という役割の歯車に、その身を預けていた。


 共犯的な見守り(コンプリシティ)

 娘の摩耗を理解しながら、家の利益という名の秤を優先した自分を。

 母は今、剥き出しの後悔となって、私にぶつけようとしているのだ。


 私は、足を止めた。

 けれど、決して視界を後ろへは向けなかった。


 もし今、振り返って母の涙を見てしまえば。

 私がここまで積み上げてきた、冷酷な虚像は一瞬で崩壊する。

 子供のように泣きじゃくり、彼女の胸の温もりに、すべてを放棄して縋ってしまうだろう。


『お母様、怖い。暗闇が、私を飲み込もうとしているの』

 そんな、本音という名の毒を吐き出せば、母は私を引き留める。

 それは、私が命を懸けて守った「家族の無傷」という構図を、根底から破壊する。


 だから、私は、振り返らない。

 私は前方の、何もない虚無を見つめたまま、声の質量だけを精密に調整した。

 一切の未練を削ぎ落とした、平坦で、鋭利な音。


「……母様。お別れは、簡潔にしましょう。さようなら」

 それは、親愛を葬るための、弔辞だった。


 背後で、母の足音が、断崖絶壁で止まったかのように途絶えた。

「……っ、セリア……ごめんなさい、私……私は――っ」


 母の声は、それ以上形を成さなかった。

 その場に崩れ落ちる、重い絹の音。

 肩を震わせ、吐き出すような嗚咽が、暗い廊下の壁に跳ね返り、私の背中を打擲する。


 彼女は、理解しているのだ。

 自分には、私を止める権利も、資格もないことを。

 愛していながら、保身という沈黙を選んだという、絶対的な罪悪感。

 その痛みが、私の背中に、取り返しのつかない傷痕を刻んでいく。


「……気をつけて」

 それが、母から贈られた、最後の遺言だった。


 私はその言葉を、背中の皮を剥ぐような摩擦と共に受け止め、再び歩き出した。

 遠ざかる母の泣き声を、私は一度も、網膜に焼き付けることはなかった。


 ――


 冷たい大理石の廊下に、私のヒールが刻む鼓動だけが響く。

 これで。

 本当に、すべての回路が断たれた。


 私は、私を愛した人々との間に、自ら巨大な断層を刻んだのだ。

 愛する家族も、忠実な使用人たちも、もう私の「物語」の枠組みの中には存在しない。

 私は完全に、剥き出しの個となり、透明な大罪人として、この地から消失する。


 誰も傷つかず、誰も不幸にならない。

 犠牲を私一人に集約させた、完璧な終幕。


 だというのに。

 私の鼓膜の奥では、母の嗚咽でも、使用人の叫びでもなく。

 あの男の、低く、密度の高い振動が、いつまでも止まなかった。


『お前は、誰も傷つけたくなかったんだろう』

 レオン・ノワールクール。


 あの、すべてを凍結させるような、青い瞳。

 私が一人で泥を被り、完璧に塗り潰したはずの真実を。

 彼はその視線一つで、鮮やかに現像してしまった。


 見つけられてしまった。

 私の孤独を、私の卑怯な自己犠牲を。

 その恐怖と、心臓の奥で小さく、けれど確かに灯った安堵が、私の内側で激しく衝突し、熱を上げている。


 私は、ドレスの裾を、爪が折れるほど強く握りしめた。

 震えようとする指先を、筋肉の硬直だけで、力ずくで抑圧する。


 やがて訪れる、光すら届かない放浪の道へ。

 私は、誰の記憶にも残らない、透明な記録者(オブザーバー)として。

 完璧な仮面を張り付けたまま、ただ一人、質量のない暗闇へと歩みを進めていった。

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