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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第30話 愛する家族を切り捨てるための、最後の嘘

 車輪が石畳を叩く規則的な振動が、座席のベルベットを透かして、私の背骨に硬い痺れを伝えてくる。


 王宮からの帰路。

 豪奢を極めたヴァルモン公爵家の馬車の中は、陽光を拒絶する重いとばりに包まれていた。

 そこは、吐き出す呼吸さえも白く凍りつくような、狭小な密室だ。


 私は、絹のドレスが擦れる音さえも恐れるように、隅の方で身を丸めていた。

 指先は感覚を失い、膝の上で組んだ両手は、まるで他人の肉体であるかのように無機質な振動を繰り返している。


『お前は、誰も傷つけたくなかったんだろう』


 脳髄の奥底で、あの男の声が、鐘のように低く、重く、鳴り響き続けている。

 レオン・ノワールクール。

 氷の海を湛えたようなあの瞳が、私の視界の裏側に焼き付いて離れない。


 私が前世という名の残滓から引き継ぎ、十五年の歳月をかけて編み上げてきた、完璧な防衛線。

 誰の記憶にも残らず、ただ景色の一部として消え去るための、緻密な構図(コンポジション)

 それを、彼はたった一言の暴露(ナイフ)で、跡形もなく引き裂いてしまった。


 私は、独りで奈落へ降りるはずだった。

 誰にも気づかれず、誰の心にも波紋を立てず。

 それこそが、私が愛する人たちに遺せる唯一の純白だったのに。


 なのに、彼にだけは、私の魂が流している血の音が聞こえていた。


「……ダメよ。しっかりしなさい。まだ、終わっていないわ」


 乾いた。

 自分の頬を叩いた音は、冷え切った車内に、場違いなほどの鋭さで響いた。

 白く凍りついていた頬に、無理やり熱が灯る。

 それは、自分という存在を、再び冷徹な部品へと引き戻すための儀式だった。


 王立学園での、あの凄惨な断罪(ショータイム)

 第一王子アルベール殿下の突き放すような声。

 マルグリットが浮かべていた、勝利者の汚濁に満ちた笑み。

 私は、稀代の毒婦として、すべてを奪われる権利を手に入れた。


 予定通り。すべては、私が計算し、導き出した完璧な結末。

 だが、最後の一片ピースが足りない。


 ヴァルモン公爵家からの、永久的な排除。


 私がこのまま「公爵令嬢」という看板を背負い続ければ、王家の怒りは連鎖する。

 愛する父を、母を、そしてまだ幼い弟妹たちを、私の汚辱に巻き込むわけにはいかない。

 私という異物(ノイズ)を、家系図という完成された記録から、外科手術のように切り離さなければ。


 馬車の車輪が、不意にそのリズムを変えた。

 邸宅の門をくぐる際の、特有の低い響き。

 私は深く、肺の底にある重いおりを吐き出すように息を吸った。


 震える指先で、乱れた銀糸の髪を梳く。

 そして、私は仮面を手に取った。

 レオンによってひび割れ、剥がれ落ちそうになっていた、あの分厚い微笑を。

 前世の記憶に刻まれた、プロの意地。

 それを、今は亡き誰かに捧げるように、再び顔へと張り付けた。


 馬車の扉が、恭しく開かれる。


 入り込んできた外気は、死者の手のように冷たかった。

 出迎えた御者や、使用人たちの沈痛な面持ち。

 彼らの視線に含まれる、やり場のない悲鳴を、私はすべて無機質な拒絶で塗り潰す。


「……お父様は、どちらにいらして?」


 その声は、自分でも驚くほど平坦で、温度を持たなかった。

 まるで、深い井戸の底から響いてくる、他人の声のよう。

 メイド長のマリーが、私の異質さに肩を震わせ、声を絞り出した。


「旦那様は……謁見室で、お嬢様を……」


 大理石の廊下を歩く、私の靴音。

 コツ、コツ、と。

 それは、静まり返った屋敷の中で、時を刻む秒針のような非情さで響いた。


 使用人たちの間には、すでに凶報が吹き荒れているのだろう。

 柱の陰で、震える手で祈りを捧げる少女がいた。

 私を、蔑むのではなく、慈しむような瞳で見送る老僕がいた。


 だが、私はそのどれも視界(レンズ)に入れない。

 焦点はただ一点。

 前方にそびえる、重厚なオーク材の扉。

 私は心を、一切の光を透かさない闇へと沈め、歩みを進めた。


 扉の前に立ち、私は一度だけ瞬きをした。

 それで、すべてを断つ。


 迷いなく、その重い扉を、死を招き入れるように押し開けた。


 広大な謁見室。

 高い天井から吊り下げられたシャンデリアの光が、磨き上げられた床に、残酷なまでの反射(ハイライト)を作っている。


 その上座に。

 ヴァルモン公爵家の現当主、ゲオルグ・ヴァルモンが立っていた。


 私と同じ、月光を宿した銀髪。

 一切の感情を濾過した、灰色の鋭い瞳。

 その威厳ある佇まいは、数多の戦場と政争を生き抜いてきた岩壁そのものだった。

 彼は無言で、私という罪を見下ろしていた。


「……お戻りになりましたか、お父様」


 私は足跡一つ残さないように歩み寄り、完璧な角度で膝を折った。

 ドレスの裾を摘む指先には、もはや震えはない。

 代わりに、そこには血の通わない、石像のような冷たさが宿っていた。


「王立学園での出来事、すでに聞き及んでおられることと存じます」


 顔を上げた私の唇には、計算され尽くした微笑が張り付いている。

 後悔も、恐怖も、ましてや救いを求める色など、微塵も存在しない。

 私はただ、故障した記録媒体のように、淡々と事実を羅列した。


「第一王子殿下より、婚約の破棄、ならびに学園からの放校。……そして、王都からの追放を命じられました」


 父は、沈黙という名の暴力で応えた。

 瞬き一つ許されない沈黙。

 その重圧が、私の肩を砕こうとする。

 だが、私はその痛みを快楽として受け入れ、言葉を重ねた。


「ステラ・メルヴィユさんへの陰湿な嫌がらせ。そして、彼女の命を狙った毒物の調合。……すべては、わたくしの醜い嫉妬が招いた必然にございます」


 私が自白を口にした瞬間、部屋の空気が、キィンと鳴るような緊張で震えた。


 私は、その震えを嘲笑うように、さらに微笑を深めた。


「王家に対するこの冒涜。公爵家の名誉を泥に沈める、取り返しのつかない大罪。……わたくしは、ヴァルモン家の名を継ぐ資格を、完全に喪失いたしました」


 私は再び、深く、地の底へ向かうように頭を下げた。


「どうか、お父様。わたくしを、この家から抹消してくださいませ。……わたくしという毒を、一刻も早く、ヴァルモン家から切り離していただきたいのです」


 これが、私の用意した、最後にして最大の虚偽(フィクション)


 自ら望んで、勘当を願い出る。

 父が迷うことなく、合理的な判断として私を切り捨てられるように。

 家族を守るための供物として、私は自らまな板の上に這い上がったのだ。


 ***


 ゲオルグ・ヴァルモンは、足元で伏している長女を、静かに、そして絶望を込めて見つめていた。


 彼女の微笑は、あまりにも完璧だった。

 あまりにも美しく、そして……あまりにも死に近かった。


 指先一つ、眉根一つ動かさない、その鉄壁の自制心。

 だが、ゲオルグには見えていた。

 娘のドレスの裾を握りしめる、その小さな手の甲。

 血管が浮き上がり、爪が肉に食い込むほど白く強張っている、その真実を。


『ヴァルモン家は、王家の記録を担う家だ。個を捨てて、全体を俯瞰せよ』


 かつて、幼い彼女に自分が授けた呪い。

 代々「観測者」として、感情という名のノイズを削ぎ落とし、世界の均衡を記録し続けてきた家の業。

 ゲオルグ自身もまた、その業に焼かれ、合理性という名の鎖に縛られて生きてきた。


 だが、目の前の娘は、その教えをあまりにも純粋に、あまりにも残酷な形で結実させてしまった。


 彼女は今、魂を削りながら嘘をついている。

 嫌がらせも、毒薬の調合も。

 すべては、彼女が「悪役(ヒロイン)」という泥濘に身を投げ、このヴァルモン家を、そして愛する者たちを無傷で救い出すための、狂気的なまでの自己犠牲なのだ。


 ゲオルグは、背後に回した両手を、掌に血が滲むほど強く握りしめた。


 ここで彼女を抱きしめ、「すべて分かっている」と告げられたなら、どれほど救われるだろうか。

 だが、彼の喉を塞ぐのは、当主としての冷徹な責務だった。


 王家が、王子の名において公式な裁定を下した。

 ここで公爵家が彼女を庇えば、それは王権への明白な叛意となる。

 最悪の場合、内戦の火種となり、何千、何万という民の血が流れるだろう。


 そして何より、娘自身が、それを拒絶していた。

 彼女は今、自らの存在理由(アイデンティティ)を賭けて、この茶番を演じ切ろうとしている。

 父親である自分がその仮面を剥ぎ取ることは、彼女の決死の覚悟を、ただの無駄死へと貶める行為に他ならない。


『……俺は、父親として、お前を殺す道しか選べないのか』


 胸の奥で、決して表には出せない慟哭が、津波のように荒れ狂っていた。


 共犯的な見守り。

 彼女が自ら選んだ地獄を、最も特等席で眺め続け、その背中を押してやる。

 それが、ヴァルモン公爵家当主として彼に許された、唯一の残酷な慈悲だった。


 ゲオルグは、奥歯が砕けるかと思うほど強く噛み締めた。

 左手の親指が、肘掛けの重厚な革を抉るように押し込まれている。

 喉の奥が、熱い鉄を飲み込んだように焼けつき、呼吸は浅く、鋭い痛みとなって肺を突き刺した。


 部屋を支配する、鉛のような沈黙。

 窓の外から、不意に鳥の羽ばたきが聞こえた気がした。


 やがて――ゲオルグは、その重い唇を、震わせながら開いた。


「……わかった」


 それは、絞り出すような、ひび割れた声だった。

 いつもの厳格な威厳はどこにもなく、ただ、一人の男としての悲鳴が、微かに混じり合っている。


「セレスティーヌ。お前の望み通り……本日をもって、お前をヴァルモン公爵家から勘当する」


 自分自身の心臓に、一寸の狂いもなく刃を突き立てるような一言。

 彼はその激痛に耐えながら、宣告を完成させた。


「お前はもはや、わが家の人間ではない。二度と、この家の敷居を跨ぐことは許さない」


 ***


「……わかった」


 父の口から発せられた、その低く掠れた音。

 それは、私が予期していた「断罪」ではなく、どこか祈りに近い響きを孕んでいた。


 一瞬、私は思考の迷路に迷い込み、父の灰色の瞳を仰ぎ見た。

 しかし、すぐにその意識を、冷たい闇へと引き戻す。


『ああ。お父様は、私の不始末に、これほどまでに憤っておられるのね』


 父の微かな震えを、私は「当主としての烈火のごとき怒り」だと定義した。

 それでいい。そうでなくてはならない。

 父は、ヴァルモン家という完成された記録を守る、無謬の管理者なのだから。


「セレスティーヌ。お前の望み通り……本日をもって、お前をヴァルモン公爵家から勘当する」


 その言葉が、謁見室の冷たい空気を振動させた瞬間。

 私を繋ぎ止めていた、最後の一本の鎖が、ガシャンと音を立てて断ち切られた。


 終わった。

 すべてが、私の描いた通りの終局(エピローグ)へと。


 これから、どれほどの汚泥を浴びようと。

 どれほどの孤独に、この身を焼かれようと。

 その火の粉が、この屋敷の静謐を乱すことは、もう二度とない。


 私の「撮影計画」は、この上なく美しく、そして残酷に完結した。


「……今まで、ありがとうございました。お父様」


 私は、仮面の下で歪もうとする表情を、強靭な意志で封じ込めた。

 レベル1の、一切の不純物を含まない、美しくも空虚な微笑。

 それを、私の遺影として彼に残すために、今までで最も優雅な礼を捧げた。


 もう二度と、彼を「お父様」と呼ぶことは叶わない。


 それでも、胸の奥底。

 そこには、銀色の陽光が差し込む庭で、父に抱き上げられた記憶が、消えない火種として残っていた。

 彼らを無傷で守り抜いたという重みだけが、空っぽになった私の魂を、辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。


 私は顔を上げ、踵を返した。

 振り返れば、すべてが瓦解してしまうことを知っていたから。


 父は、私の背中を見送ったまま、石像のように動かなかった。


 ギィ……。

 重い音を立てて、扉が開く。

 廊下へ足を踏み出し、背後で扉が完全に閉まった、その瞬間。


「……っ、」


 膝の力が、砂の城が崩れるように抜け落ちた。

 壁に縋りつき、石の冷たさに額を押し当てる。


 顔に張り付いていた微笑みが、耐えきれぬ質量に押し潰され、音を立てて崩壊していく。

 家族との縁を、自らの手で切り裂くという行為。

 それは、想像を絶する痛みとなって、私の内臓を掻き回していた。


 私は、何者でもなくなった。

 名も、家も、帰るべき場所も。

 すべてをこの部屋に置いて、私は透明な亡霊へと成り果てた。


「……これで、いいの。これで……」


 震える唇が、自分に呪詛のように言い聞かせる。


 しかし、その果てしない孤独の淵で。

 またしても、あの氷のように深い青い瞳が、脳裏を支配するように現れた。


『迷惑だと思うなら、なぜお前は一人で全てを背負おうとする』


 レオン・ノワールクール。


 私が独りで闇に消えようとする、この完璧な構図を。

 彼だけが、その鋭利な理解で許そうとしない。


 私の「孤独な聖域」に土足で踏み込み、その奥にある醜い本音を引きずり出そうとする彼の存在が。

 逃げ場のない重力のように、私の全身に絡みついてくる。


 私は、壁に顔を埋めたまま、誰にも聞こえない、嗚咽とも呼べない音を漏らした。


 これから私は、この屋敷の門を出て、本当の暗闇へと、独りで歩き出さなければならない。


 その果てしない無の道を。

 私は、ただ壊れた人形のような笑顔のまま、歩き続けることしかできないのだ。


 背後に残した扉の向こう側に、私の心臓を置き去りにしたまま。

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