第29話 仮面が砕け落ちる刻
扉が閉まり、馬車の中に、絶対的な静寂が訪れた。
車輪が石畳を叩く規則的な振動だけが、私の背骨を、硬い物質のように叩き続けている。
豪奢なベルベットの座席。使い慣れたはずのその感触が、今はひどく他人の皮膚のように、不快な質量を持って肌に纏わりついてくる。
私は、暗い車内の隅で、膝を抱えるように身を丸めた。
「……っ、ふ……」
肺の奥に溜まっていた熱い空気が、掠れた音を立てて漏れ出した。
指先が、ドレスの絹を破らんばかりに握りしめている。
感覚を失っていた右手の指先が、不意に、激しく拍動を開始した。
――カシャ。
――カシャ、カシャ。
そこにはない架空のシャッターを、私の指は執拗に刻み続ける。
記録しなければ。
この絶望を。この孤独を。
私が「私」でなくなる、この決定的な瞬間を。
けれど、ファインダーは、もう何も映そうとしなかった。
レンズという名の防御壁は、あの男の一言によって、修復不可能なほど粉々に打ち砕かれてしまったのだ。
『お前は、誰も傷つけたくなかったんだろう』
「やめて……」
自分の声が、他人のそれのように湿って響いた。
両手で顔を覆う。
指の間から、熱い雫が溢れ出し、冷え切った頬を伝っていった。
涙。
前世で、瓦礫の下に一人取り残されたあの時でさえ。
今世で、冷酷な公爵令嬢として自分を殺し続けた十数年間でさえ。
一度も、こぼすことを許さなかった不純物。
それが、どうしようもないほどの決壊を起こし、私の内側を焼き尽くしていく。
私は、誰も、傷つけたくなかった。
マルグリットの醜い野心も。
アルベールの未熟な正義感も。
ステラの、汚れを知らぬ純粋さも。
それらすべてを、整合性という名のパズルの中に嵌め込み、私はただ、一人の大罪人として消えようとした。
それなのに。
あの男だけは、私の真実を、その指先で引き摺り出した。
「どうして……っ」
嗚咽が、止まらない。
十五年間、ひび割れ一つなく張り付いていた「完璧な笑顔」が、音を立てて崩壊していく。
鏡の破片が心臓に突き刺さり、そこから剥き出しの感情が溢れ出していた。
私は、私を愛してくれた父を捨てた。
私を頼ってくれた使用人たちを足蹴にした。
それはすべて、彼らを無傷で遺すための、私の精一杯の愛だった。
なのに、今は。
その愛さえも、単なる呪詛のように私を苛んでいる。
馬車は、王都の夜を切り裂き、ヴァルモン公爵邸へと向かう。
その先に待っているのは、父からの公式な裁定だ。
勘当。そして、追放。
私はもはや、何者でもなくなる。
名前も、未来も、帰るべき場所も。
その暗闇への恐怖を、私は「記録者」としての冷徹さでねじ伏せてきたはずだったのに。
今はただ、暗い森の中を彷徨う子供のように、震えることしかできない。
「……レオン、様……」
掠れた唇が、無意識に、あの氷の公爵の名を紡いだ。
それは救いを求める声ではない。
私の世界を、完璧な記録を、めちゃくちゃに壊してしまった男への、戦慄のこもった呟きだった。
馬車が大きく揺れ、私の身体は冷たい壁に打ち付けられた。
その打撃の痛みが、かえって心地よかった。
意識が、遠のいていく。
涙で滲んだ視界の先、車窓から見える夜空には、ただ深淵のような暗闇が広がっていた。
物語は、ここから未定へと。
仮面を失った一人の少女の、本当の質量を持った地獄が、今、幕を開けようとしていた。




