表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/75

第29話 仮面が砕け落ちる刻

 扉が閉まり、馬車の中に、絶対的な静寂が訪れた。


 車輪が石畳を叩く規則的な振動だけが、私の背骨を、硬い物質のように叩き続けている。

 豪奢なベルベットの座席。使い慣れたはずのその感触が、今はひどく他人の皮膚のように、不快な質量を持って肌に纏わりついてくる。


 私は、暗い車内の隅で、膝を抱えるように身を丸めた。


「……っ、ふ……」


 肺の奥に溜まっていた熱い空気が、掠れた音を立てて漏れ出した。

 指先が、ドレスの絹を破らんばかりに握りしめている。

 感覚を失っていた右手の指先が、不意に、激しく拍動を開始した。


 ――カシャ。

 ――カシャ、カシャ。


 そこにはない架空のシャッターを、私の指は執拗に刻み続ける。

 記録しなければ。

 この絶望を。この孤独を。

 私が「私」でなくなる、この決定的な瞬間(シャッターチャンス)を。


 けれど、ファインダーは、もう何も映そうとしなかった。

 レンズという名の防御壁は、あの男の一言によって、修復不可能なほど粉々に打ち砕かれてしまったのだ。


『お前は、誰も傷つけたくなかったんだろう』


「やめて……」


 自分の声が、他人のそれのように湿って響いた。

 両手で顔を覆う。

 指の間から、熱い雫が溢れ出し、冷え切った頬を伝っていった。


 涙。

 前世で、瓦礫の下に一人取り残されたあの時でさえ。

 今世で、冷酷な公爵令嬢として自分を殺し続けた十数年間でさえ。

 一度も、こぼすことを許さなかった不純物。


 それが、どうしようもないほどの決壊を起こし、私の内側を焼き尽くしていく。


 私は、誰も、傷つけたくなかった。

 マルグリットの醜い野心も。

 アルベールの未熟な正義感も。

 ステラの、汚れを知らぬ純粋さも。


 それらすべてを、整合性という名のパズルの中に嵌め込み、私はただ、一人の大罪人(ピース)として消えようとした。

 それなのに。


 あの男だけは、私の真実(ネガ)を、その指先で引き摺り出した。


「どうして……っ」


 嗚咽が、止まらない。

 十五年間、ひび割れ一つなく張り付いていた「完璧な笑顔」が、音を立てて崩壊していく。

 鏡の破片が心臓に突き刺さり、そこから剥き出しの感情が溢れ出していた。


 私は、私を愛してくれた父を捨てた。

 私を頼ってくれた使用人たちを足蹴にした。

 それはすべて、彼らを無傷で遺すための、私の精一杯の愛だった。


 なのに、今は。

 その愛さえも、単なる呪詛のように私を苛んでいる。


 馬車は、王都の夜を切り裂き、ヴァルモン公爵邸へと向かう。

 その先に待っているのは、父からの公式な裁定(ギロチン)だ。

 勘当。そして、追放。


 私はもはや、何者でもなくなる。

 名前も、未来も、帰るべき場所も。


 その暗闇への恐怖を、私は「記録者」としての冷徹さでねじ伏せてきたはずだったのに。

 今はただ、暗い森の中を彷徨う子供のように、震えることしかできない。


「……レオン、様……」


 掠れた唇が、無意識に、あの氷の公爵の名を紡いだ。

 それは救いを求める声ではない。

 私の世界を、完璧な記録(ドラマ)を、めちゃくちゃに壊してしまった男への、戦慄のこもった呟きだった。


 馬車が大きく揺れ、私の身体は冷たい壁に打ち付けられた。

 その打撃の痛みが、かえって心地よかった。


 意識が、遠のいていく。

 涙で滲んだ視界の先、車窓から見える夜空には、ただ深淵のような暗闇が広がっていた。


 物語は、ここから未定(ノイズ)へと。

 仮面を失った一人の少女の、本当の質量を持った地獄が、今、幕を開けようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ