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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第27話 どうかこのまま、私を「冷酷な女」だと憎んでいて

 足の裏から、湿った冷気が這い上がってくる。

 磨き上げられた大理石の床は、鏡のように私の絶望を執拗に映し出していた。

 本来なら、甘い蜜菓子と薔薇の香りに満ちているはずの、学園祭の夜。


 だが、今この大広間に立ち込めているのは、焦ゲ付いた沈黙の匂いだ。

 Hundreds of eyes pierced my skin.

 呼吸をするたび、肺の奥に冷たい玻璃の破片が溜まっていくような錯覚。


 視線の質量が、両の肩に鉛のようにのしかかる。

 それは単なる悪意ではなく、自分たちが「正義」であると確信した者特有の、

 逃げ場のない熱を帯びた圧力(プレッシャー)だった。


 壇上に立つ第一王子アルベール殿下の唇が、微かに震える。

 その翡翠の瞳に宿っているのは、かつて私に向けられた慈しみではない。

 膿んだ傷口を凝視するような、隠しきれない嫌悪と、決定的な断断。


「……何か、言い残すことはないのか。セレスティーヌ」


 彼の声が、高い石造りの天井に跳ね返り、私の耳を削いでいく。

 氷の塊を喉の奥に押し込まれたような、硬質で、湿り気のない響き。

 私はゆっくりと瞬きをし、網膜に焼き付く光景を、一つひとつ焼き付けるように見つめた。


 私の足元にぶち撒けられた、数々の「証拠」とされる紙片。

 ステラ・メルヴィユへの誹謗が綴られた、私の筆跡に酷似した偽の手紙。

 指先に触れれば、インクの嫌な粘り気が肌に伝わってくるような気がした。


 そして、古い薬草学の研究室から「押収」されたという、濁った液体の入った小瓶。

 私が夜を徹して、指先を草の汁で緑に染めながら調合した、熱を下げるための薬。

 それは今や、王族を害するための「毒薬」という汚名(ラベル)を貼られ、惨めに転がっている。


 小瓶の表面に反射するシャンデリアの光が、私の瞳を鋭く刺す。

 あの薬を飲んで、熱が引いたと皺だらけの顔を綻ばせてくれた庭師の老人の顔。

 その記憶さえも、この広間の澱んだ空気の中では、罪の証として塗り潰されていく。


 王子の背後で、ステラが怯えたように彼の袖を指先で掴んでいた。

 その隣で、マルグリット・セルヴァンが、慈愛に満ちた聖女のような顔で彼女の肩を抱く。

 マルグリットの赤い唇が、一瞬だけ、歪な曲線()を描いた。


 それは、獲物を仕留めた猟師だけが浮かべる、静かな歓喜の形。

 彼女の指先に絡みつく、見えない蜘蛛の糸が見えるようだった。

 すべては彼女の意図した通りに、この惨めな茶番劇は幕を上げる。


「……申し上げることは、何もございませんわ」


 私の口から滑り落ちた言葉は、自分でも驚くほど乾燥していた。

 感情の濾過を終えた、純粋な無機物としての音。

 それは、アルベール殿下の胸に、最後の一撃として突き刺さった。


 彼が大きく息を吸い込む。

 その厚い胸板が、怒りという名の鞴によって大きく膨らむ。

 王位継承者としての、逃げ場のない宣告(ギロチン)が、ついに振り下ろされる。


「セレスティーヌ・ヴァルモン! その冷酷な沈黙こそが、お前の黒い心の証明だ!

 ステラ嬢への非道な行い、そして、この神聖なる学園で毒を弄んだ罪……。

 貴様のような醜悪な魂に、この国の未来を担う資格などない!」


 アルベール殿下の手が、真っ直ぐに私を指し示す。

 その指先の微かな震えが、彼自身の悲痛な葛藤であることに、私は気づかないふりをした。

 気づいてしまえば、私の顔に張り付いた仮面が、内側から爆ぜてしまうから。


「俺は、王家の名において、お前との婚約を白紙に撤回する!

 さらに、お前をこの王立学園から放校し、王都からの永久追放を命じる!」


 婚約破棄。そして、追放。

 その言葉が放たれた瞬間、大広間の空気が、一気に沸騰した。

 押し殺されていた罵声が、堰を切ったように溢れ出し、私を呑み込んでいく。


「当然だ! あんな毒婦、生かしておくだけでも慈悲というものだ!」

「ヴァルモン公爵家の面汚しめ! さっさと視界から消え失せろ!」

「ステラ様がどれほど怯えていたか、お前はその凍り付いた瞳で見えていなかったのか!」


 四方八方から降り注ぐ言葉の礫。

 頬を、首筋を、胸を、見えない刃が際限なく刻んでいく。

 床がゆっくりと傾き始め、視界の端から色彩が剥がれ落ちていく感覚。


 ああ、この光景を私は知っている。

 前世。

 耳を突き破るような爆鳴と、視界を覆い尽くす灰色の塵。


 崩落する建物の下で、私はただ、手元にあった重いカメラのシャッターを切り続けた。

 死の瞬間(シャッターチャンス)を捉えるために。

 恐怖を、レンズという名の(シールド)で遮断するために。


 ――カシャ、カシャ。


 右手の指先が、ドレスの襞の中で、無意識に虚空を叩く。

 そこにはない架空のボタンを、何度も、何度も。

 極限のストレスが、私の身体を「記録者」へと強制的に変貌させていく。


 私は、私を罵る群衆を、一つの「構図(フレーム)」として処理し始めた。

 彼らの怒りは、ただの露出過多(オーバー)な白い光。

 彼らの蔑みは、被写界深度(ピント)のズレた背景の汚れ(ノイズ)に過ぎない。


「……っ、お嬢様……!!」


 その時、広間の端で、裂けるような悲鳴が上がった。

 それは、学園の裏方として呼び出されていた、我が家の使用人たちの声だった。

 最前列にいたメイド長のマリーが、今にもこちらへ駆け出そうと身を乗り出している。


 彼女の目は、涙で真っ赤に腫れ上がっていた。

 彼女の隣では、白髪の老執事アルフレッドが、拳を血が滲むほど握り締めている。

 彼らは知っている。私が夜な夜な、誰のためにあの薬を煮出していたかを。


「殿下、お待ちください! お嬢様は、お嬢様は……ッ!」

「黙れ! 使用人の分際で、この場を何と得る!」


 騎士が、強引にマリーの肩を掴み、冷たい床に押し倒した。

 アルフレッドが彼女を庇おうとして、騎士の剣の柄で胸を突かれる。

 老いた身体が、無惨に床を滑っていく。


 私の心臓が、大きく跳ねた。

 肺に溜まったガラスの破片が、一斉に胸の内側を切り裂く。

 私の「完璧な記録」に、致命的な異物(ノイズ)が混入した。


 ダメよ。

 あなたたちは、そこにいて。

 私の視界(フレーム)の中に、入ってこないで。


 私が「悪」でなければならない。

 私が一人で、この憎悪をすべて背負って去らなければ。

 そうしなければ、ヴァルモン家は、あなたたちは、マルグリットの牙にかけられる。


 私は、震える足を踏み出し、倒れた二人の方へゆっくりと首を巡らせた。

 そして、顔に張り付いていた微笑を、一瞬にして剥ぎ取った。


 絶対的な零度の、支配者の視線。


「……不愉快ですわ。身の程をわきまえなさい、犬ども」


 私の声は、広間の熱狂を一瞬で凍結(フリーズ)させた。

 アルフレッドの瞳が、驚愕に見開かれる。

 彼は見た。私の鋭い視線の奥にある、血を流すような「拒絶」の真意を。


 ここで私を庇えば、あなたたちの首が飛ぶ。

 ここで私を愛せば、あなたたちの家族が路頭に迷う。

 だから、私を軽蔑して。今すぐ、私を心から捨てて。


 アルフレッドの顔が、苦悶に歪んだ。

 彼は、震える手でマリーの肩を抱き寄せ、深く、深く、床に頭を擦りつけた。

 その背中が、音もなく泣いているのが分かった。


「……失礼いたしました。ヴァルモン公爵家……元、令嬢……」


 彼の絞り出すような声が、私の中に残留る、最後の一滴の人間性を削り取っていく。

 それでいい。

 これで、この光景から不純物は消えた。


 私は再び、アルベール殿下へと向き直る。

 彼もまた、私の冷酷な振る舞いに、最後の一欠片の未練を断ち切ったようだった。

 彼は、私から目を逸らし、隣にいるステラの小さな手を強く握った。


 ハッピーエンドの、完成。

 主役たちは結ばれ、悪女は排除かれる。

 これ以上の完成された終止符を、私は他に知らない。


 ***


 大広間の最後方。

 太い大理石の柱が落とす、濃い影の中に、その男はいた。


 レオン・ノワールクール。

 彼は組んだ腕を解くこともなく、ただ静かに事の顛末を見届けていた。

 彼の瞳は、群衆が放つ熱狂(ノイズ)には一切反応せず、中央に立つセレスティーヌの、その微細な変化だけを捉えていた。


『……狂っているな』


 レオンは、奥歯の奥で、苦い言葉を噛み潰した。

 周囲の者たちは、彼女の傲慢さに憤っている。

 王子は、彼女の冷酷さに絶導している。


 だが、レオンの異常なほど鋭い直感は、別の「真実」を現像き出していた。

 自らの身を火だるまにしながら、大切なものを守ろうとする、あまりにも不器用で、破滅的な自己犠牲。


 セレスティーヌ・ヴァルモン。

 お前は今、この場所で、誰よりも激しく血を流しながら、自ら刃の上に立っているのか。


 アルベールが、放校の証書を床に投げ捨てる。

 セレスティーヌは、それを拾おうともせず、背筋を伸ばしたまま、出口へと歩き出した。


 群衆が、モーセの海のように左右に割れる。

 彼女が通るたび、汚物を避けるように人々が身を引く。

 その空白の道が、今の彼女の孤独の質量を雄弁に物語っていた。


 彼女が重い扉の前にたどり着く、その直前。

 柱の陰、彼女の耳元にだけ届くような、絶対零度の吐息が流れた。


「――お前は、誰も傷つけたくなかったんだろう」


 その言葉は。

 セレスティーヌが十五年の歳月をかけて築き上げた、完璧な防壁を。

 独りで地獄へ降りるために塗り重ねた、氷の城壁を。

 いとも容易く、そして無残なまでに貫き通した。


 セレスティーヌの指先が、扉の取っ手の上で死人のように凍りつく。

 背中を向けたまま、彼女の小さな肩が、見てもいない化け物に怯えるように一度だけ跳ねた。


 だが。

 彼女は振り返らなかった。

 震える指先に、血が滲むほどの力を込めて扉を押し開ける。


 背後に残されたのは、物語から異物(ノイズ)が消えたことによる、歪な歓喜(ノイズ)だけだった。


 レオン・ノワールクールは動かなかった。

 今ここで手を差し出すことは、彼女の覚悟を安っぽく汚す行為に他ならない。


 だが、彼の瞳だけは、彼女が扉を閉めるその一瞬まで、彼女の背中に突き刺さっていた。

 それは救済でも慈悲でもない、地獄の底まで見届けるという、凄絶な「観測」だった。


 扉が閉まり、レオンは一人、闇に溶けるようにその場を去った。


 ――お前が一人で完成させたその筋書き(ネガ)、俺が全て塗り替えて(リライト)やる。


 その誓いだけを、冷たい心臓の奥に刻み込んで。

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