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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第26話 憎悪の的として、最も美しく退場するために

 靴の裏が、微かに粘りつくような感覚を拾う。


 石畳にこぼれた果実酒の残滓か、あるいは誰かが落とした甘味の破片か。

 王立学園を彩る極彩色の天幕の下、騒乱は熱を帯びた澱となって足元に溜まっていた。


 鼓膜を叩く楽団の調べは、私の耳に届く前に湿った空気に吸い込まれていく。

 すれ違う背中の数だけ、視線の摩擦が肌を削った。

 扇を広げる乾いた音、ひそひそと這い回る声の礫。


 私の周囲だけが、真空のように音が死んでいる。

 完璧に固定された口角は、もはや自らの意志とは無関係な硬直と化していた。

 背筋を伸ばすたび、背骨の一つひとつが軋みを上げて抗議する。


 大広間へ続く大理石の廊下は、今日に限ってひどく長く、底冷えがした。

 手に握りしめた召集令状が、体温を奪ってじっとりと湿っていく。

 指先の感覚が、紙の縁をなぞるたびに削り取られるような錯覚。


 王の病、王子の摂政、そして届いた王命。

 それらの言葉は、記号として頭を通り過ぎるだけで、重さを持たない。

 ただ、胃の奥で冷たい石が転がるような、確かな異物感だけがそこにあった。


 重厚な扉の前に立つ。

 左右に控える衛兵の鎧が、鈍い銀光を放って私を拒絶した。

 鼻腔を突くのは、磨き上げられた金属の冷たい匂いと、微かな汗の饐えた残り香。


 開かれた瞬間の風に、数百人分の呼吸(ノイズ)が混ざる。

 それは、巨大な獣の肺腑に足を踏み入れるような、圧倒的な質量の移動だった。

 熱気が、剥き出しの項をじわりと濡らす。


「……セレスティーヌ・ヴァルモン公爵令嬢、入堂」


 事務的な声が、静まり返った空間に波紋を広げる。

 足を踏み出す。

 数百の視線が、目に見えない針となって私の皮膚に突き刺さった。


 会場を埋め尽くす貴族たちの円陣。

 その中心に、逃げ場のない断罪台(ステージ)が用意されている。

 一段高い壇上に立つ第一王子(アルベール)の姿が、逆光の中で黒く沈んでいた。


 彼の翡翠色の瞳は、かつて私を映した時の熱を完全に失っている。

 そこにあるのは、ただ平坦で、救いようのない絶望だけだった。

 その眼差しに射抜かれた箇所が、焼けるように熱い。


 彼の背後、花の萎れたような弱々しさで肩を震わせる娘。

 ステラ・メルヴィユ。

 守られるべき「弱さ」という名の特権を、彼女は全身で体現していた。


 そして、その肩を抱くように寄り添うマルグリット・セルヴァンの唇が、わずかに歪む。

 磨き抜かれた真珠のような歯が、唇の隙間から覗く。

 その亀裂を見た瞬間、私の指先が、小さく跳ねた。


「……ごきげんよう、アルベール殿下。わたくしに、何か御用でしょうか」


 膝を折る。

 布地が擦れる音だけが、不気味なほど鮮明に響いた。

 一切の揺らぎを排したカーテシー。


 それは、自分を静物(オブジェ)へと作り替えるための儀式だった。

 ドレスの重みが、今はただ、私を地面に繋ぎ止めるための重石として機能している。

 思考を止め、呼吸を浅く、心臓の鼓動さえも遠い音へと追いやる。


「セレスティーヌ・ヴァルモン。お前がこれまで犯してきた、数々の不徳を……今ここで、白日の下に晒す」


 王子の声は、私の心臓を素通りして、背後の壁にぶつかって砕けた。

 その響きの薄っぺらさが、かえって事実の強固さを際立たせる。

 反論を許さぬ、出来上がった物語の、これが序章なのだ。


 大広間の隅、太い柱の影に、影のような男レオン・ノワールクールが立っていた。

 彼は動かない。

 ただ、冬の湖のような瞳で、こちらを見つめている。


 私と目が合ったわけではない。

 彼は、私の顔に張り付いた「笑み」の裏側を、ただ静かに検分していた。

 その視線だけが、重く、粘り気を持って私の肌に絡みつく。


 周囲の者たちにとって、今の私は傲慢な悪女(ヴィラン)に過ぎない。

 だが、彼だけが、私の喉元で脈打つ過剰な生存本能を見透かしている。

 逃げ出したいという反射を、強引に抑え込んでいるせいで生じる、筋肉の不自然な隆起を。


 アルベールが一歩、壇上を降りる。

 革靴が床を叩く音が、私の頭蓋の内側に響いた。

 その一歩ごとに、大広間の酸素が希薄になっていくような錯覚を覚える。


「ステラ嬢の机に仕込まれた毒痒草。あれは、お前の仕業だな」


 答えを求めているのではない。

 彼は、自らが信じる正義を、ただ空間に定着させているだけだ。

 私が深夜、温室で指先を真っ黒に染めながら作った薬のことなど、誰も知らない。


 その薬を届けた際、彼女の部屋から聞こえていた楽しげな笑い声。

 それと引き換えに、私の手のひらに残った、草の汁による鋭い痛み。

 今も、掌の皮一枚隔てた奥底で、その疼きが脈打っている。


「……否定は、いたしませんわ」


 声が、自分のものではないように遠く感じられた。

 沈黙という名の重石を、一つずつ丁寧に積み上げていく。

 弁明は、この美しく整えられた物語(ハッピーエンド)を汚すノイズでしかない。


 マルグリットが、勝ち誇ったように数枚の羊皮紙を掲げる。

 それは、私の筆跡を完璧に模倣した、悪意の招待状。

 インクの掠れ具合、独特のハネ、それらすべてが私という存在を否定していた。


「ご覧ください、殿下。これが、彼女が取り巻きに送った指示書ですわ」


 マルグリットの指先が、紙の縁をなぞる。

 その、わずかに震える爪先に、隠しきれない愉悦が宿っている。

 紙の擦れる乾いた音が、静寂の中で耳障りに響いた。


 私は、視線を少しだけ上方にずらした。

 豪華なシャンデリアから零れ落ちる光の粒が、埃とともに舞っている。

 それを、心のカメラで切り取る。


 カシャ、という音のないシャッターが、脳内で鳴った。

 思考を、記録へと変換する。

 私は今、この場にいる当事者ではない。


 悲劇的な結末を記録し続ける、肉体を持たないレンズなのだ。

 そう思わなければ、肺が、空気を吸い込むことを拒否してしまいそうだった。

 肋骨の檻に閉じ込められた心臓が、ひどく冷たい。


「……それだけではない。これを見ろ」


 アルベールの合図で、騎士たちが重々しい木箱を運び込む。

 蓋が開かれ、中から現れたのは、無数のガラス瓶だった。

 私が、領民たちのために深夜の薬学室で作り溜めた、ありふれた常備薬。


 瓶の中で揺れる液体が、シャンデリアの光を浴びて不気味な色に染まる。

 それは、かつて私が救おうとした命の象徴だった。

 だが、ここではそれは、ただの不浄として扱われる。


「劇薬……! これほどの毒を隠し持っていたのか!」


「恐ろしい、なんて恐ろしい毒婦……」


 聴衆の間に、さざなみのような嫌悪が広がる。

 それは毒ではない。

 熱で浮かされた子供の額を冷やすための、苦いけれど優しい、ただの薬だ。


 言いかけようとして、喉が閉まった。

 私が真実を言えば、協力してくれた庭師やメイドたちが、共犯者として引きずり出される。

 彼らの穏やかな生活が、公爵令嬢の道楽によって壊されてしまう。


 沈黙は、もはや義務だった。

 私は、ただ微笑みを深くする。

 口角を吊り上げる筋肉が、限界を超えて細かく震える。


 皮膚の下で、無数の虫が這い回っているような不快感。

 吐き気が胃の入り口までせり上がり、それを鉄の味とともに飲み込む。

 私の世界は、音を立てて崩れ去ろうとしていた。


「さらに、決定的な証人を」


 マルグリットの声が、トドメを刺すように響いた。

 引き出されたのは、我が家で働く、うら若きメイドの娘だった。

 彼女の膝が床に激しく叩きつけられ、鈍い音が広間に響く。


 彼女の顔は、死人のように白かった。

 ガタガタと震える肩、床に擦り付けられた額。

 その姿から、彼女がどのような脅迫を受けてここに来たのかが、嫌というほど伝わってくる。


 彼女の指先は、恐怖で紫色に変色していた。

 その手が、かつて私に手渡してくれた温かい茶の香りを、私はふと思い出す。

 あの日の湯気の白さと、今のこの、凍りついた広間の対比。


「……お許しください、殿下……! わたくし、見てしまったのです……」


 彼女の声は、涙で湿って、粘りつくような響きを持っていた。

 語られる偽りの証言。

 夜な夜な毒を練り、呪いの言葉を吐く私という虚像(モンスター)


 私は、彼女の伏せられた瞳の奥にある、絶対的な恐怖を読み取った。

 東の村に住む、彼女の両親。

 マルグリットの手が、すでにそこへ伸びていることを。


 それは、抗いようのない暴力の重みだった。

 言葉という名の弾丸が、私の輪郭を削り取っていく。

 私は私でなくなり、人々に望まれる通りの「悪女」へと鋳造されていく。


『……あなたの負けよ、セレスティーヌ』


 マルグリットの視線が、音もなく私の鼓膜を撫でた気がした。

 彼女は知っている。

 私が、自分のために他人を犠牲にできない、愚かな欠陥を持っていることを。


 その欠陥こそが、私という人間の核であり、同時に致命傷(アキレスけん)だった。

 周囲の罵声が、物理的な圧力となって押し寄せてくる。

 空気が重い、ひどく重い。


 まるで、大広間全体が深い水の底に沈んでいくような、強烈な浮遊感と圧迫。

 耳の奥で、キーンという高い音が鳴り響く。

 視界の端から、色が失われていく。


「……言い逃れはできないぞ、セレスティーヌ。お前のその冷酷な本性は、王国に災いをもたらす」


 アルベール殿下の宣告。

 それは、私の社会的な死を意味していた。

 だが、私の意識は、もはやその言葉の意味(内容)を捉えてはいない。


 ただ、自分の右手の人差し指が、ドレスのひだの中で小さく動いていることに気づく。

 一回、二回。

 カシャ、カシャ。


 音のない動作。

 目の前の光景を、感情を通さずに記録するだけの、無機質な反応。

 そうすることでしか、私は私の心を、この崩壊から守ることができなかった。


 足の指先から、冷たさが這い上がってくる。

 床の大理石を流れる冷気が、ストッキングを透過して、骨まで浸食していく。

 私は、ただ立っていることさえも、一つの重労働(ミッション)へと変わっていた。


『……これで、いい』


 心の中で、誰かが囁いた。

 私がすべての悪意を飲み込めば、メイドの家族も、ステラの未来も、守られる。

 汚れのない物語のために、私というシミを消し去る。


 それが、私の選んだ役割(ロジック)だった。

 自己犠牲という名の、独りよがりな傲慢。

 私は、その濁った快楽に、ただ静かに身を浸す。


 私は、震える指先を必死に隠し、完璧な笑顔のまま、静かに目を閉じる。

 瞼の裏に焼き付いたのは、怒りに震える王子の顔でも、勝ち誇るマルグリットの顔でもない。

 ただ、不自然なまでに白い、ステラの震える肩だった。


 そして。


 柱の影から私を見つめ続ける、レオンの青い瞳。

 その瞳の中にだけ、私が隠した痛みの破片が、微かに反射しているような気がした。

 彼だけが、私の墓碑銘を読み解いている。


 大広間の重い静寂が、私の肩にのしかかる。

 次は、追放(フィナーレ)の言葉を待つだけだ。

 私の鼓動は、誰にも届かないリズムを、暗闇の中で刻み続けていた。


 遠くで、カラスが鳴く声が聞こえたような気がした。

 窓の外、夕暮れに染まった空が、最後の一筋の光を失おうとしている。

 私の時間もまた、ここで一度、完全に停止する。


 肺の奥に溜まった古い空気を、音を立てずに吐き出した。

 それは、私の名前を捨て、ただの抜け殻へと成り果てるための、最後の手続きだった。

 唇に残った紅の味が、ひどく金属的で、不味かった。


 アルベールの口が、ゆっくりと動く。

 世界から色が抜け、音だけが膨張していく。

 彼の喉仏が動くのを、私はただ静止画(フレーム)のように見つめていた。


「セレスティーヌ・ヴァルモン。お前を――」


 その続きの言葉が、広間の壁に反射して増幅される。

 私は、その衝撃に耐えるべく、奥歯を噛み締めた。

 耳の奥で、また、カシャ、とシャッターが鳴った。


 これで、すべては記録された。

 私の人生という名の、美しくも無惨な記録映画(フィルム)の、一区切りだ。

 あとは、この身体を、運命という名の風に預けるだけ。


 風が吹いた。

 広間のカーテンが、不気味な形にしなり、空気をかき回す。

 その風に混じった香水の甘い香りが、私の鼻腔を、最後になぞった。


 絶望は、思っていたよりもずっと、無機質なものだった。

 私はただ、暗闇の中へと、ゆっくりと沈んでいく。

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