第24話 命を救うための薬が、私を殺す猛毒になる日
石造りの壁が、外の世界の熱を徹底して拒絶している。
王立学園の最奥、湿った土の匂いが立ち昇る別棟。
扉を開けると、肺の奥がわずかに収縮するような、乾燥した草木とアルコールの飽和した空気が喉に張り付いた。
西日に照らされた埃の粒子が、重力に逆らうように停滞している。
貴族の子弟たちが纏う、鼻を突くような香水の残滓はない。
ここにあるのは、植物が死に際に見せる、苦く、重い沈黙だけだった。
私は、作業台に置かれた粗い石肌の乳鉢に向き合う。
乳棒を握る右手の掌に、ずっしりとした石の質量が伝わってきた。
銀影草の繊維は、見た目よりも遥かに頑強だ。
一突きするごとに、植物の細胞が弾ける小さな振動が手首の骨を叩く。
乳棒を回す。石と石が噛み合い、ザリ、ザリと鼓膜の奥を掻くような音が響く。
緑色の汁液が染み出し、指先にわずかな粘り気を与えた。
この粘り、この抵抗こそが、生の執着だ。
かつて、泥濘の中で兵士たちの千切れた四肢を繋ぎ止めていた頃。
無機質な魔法の光では届かない、細胞の悲鳴を、私はこの指の腹で知覚してきた。
「……あと、三滴」
スポイトの先を見つめる。
視界が、透明な液体の微かな震えだけに固定される。
周囲の風景が周辺視野へと退き、焦点は一滴の重みだけに絞られた。
液体が、ガラスの縁で膨らみ、表面張力の限界を迎える。
ゆっくりと、永遠にも似た時間をかけて、それは乳鉢の底へと落ちた。
波紋が広がり、植物の苦い香りが一気に鼻腔を突き抜ける。
それはかつて、ファインダー越しに覗いた「決定的な瞬間」と同じ鋭利さを持っていた。
私は、ただの記録者だ。この劇薬が、誰の呼吸を止め、誰の痛みを救うのか。
棚に並ぶ無数の小瓶が、夕闇の中で鈍い光を返してくる。
解熱、消炎、そして――麻痺。
ラベルのない透明な瓶には、私の意図とは無関係な「事実」だけが詰まっている。
ステラの手に、匿名で届けた軟膏。
一晩で炎症が引いた後の、彼女の皮膚の滑らかさを思い出す。
代わりに私の周囲から、体温が失われていった。
廊下ですれ違うたび、アルベール殿下の視線が、私の皮膚を薄く削ぎ落としていく。
氷の公爵の言葉が、今も胃の底で冷たい鉛のように沈殿している。
『……その笑顔で、俺は傷ついた』
鏡を見ずともわかる。今の私の頬は、意志とは無関係に吊り上がっている。
表情筋が、冷え切ったワイヤーのように私の顔を固定しているのだ。
右手の震えを、左手でねじ伏せる。指先が白くなるほど、強く。
私は、笑わなければならない。
この完璧な構図を守るために。
この手に付着した緑色の汚れが、やがて私を絞め殺す縄になるとも知らずに。
***
夕刻。
学園の裏道は、枯葉の堆積が歩くたびに不快な音を立てる。
マルグリット・セルヴァンは、その音すらも自身の伴奏であるかのように、優雅に歩を進めていた。
彼女の赤毛は、沈みゆく太陽を吸い込んで、凝固した血のような色を放っている。
目の前で、一人のメイドが地面の砂利に膝を突き、肩を小さく上下させていた。
メイドの視線は、マルグリットの靴の先に付いた、小さな泥の塊に釘付けになっている。
「そんなに、呼吸を詰めなくてもいいのよ」
マルグリットの声は、上質な絹のように滑らかだった。
扇がゆっくりと開かれ、微かな沈丁花の香りが、湿った土の匂いを塗り潰す。
「あなたには、守るべきものがたくさんあるのでしょう?」
マルグリットは、扇の端でメイドの顎を、物理的な荷重を伴って持ち上げた。
逃げ場を失ったメイドの瞳に、マルグリットの無機質な笑顔が転写される。
「東の村。病で伏せった母親。そして、まだ固いパンも噛めない幼い弟」
言葉の一つ一つが、見えない楔となってメイドの身体を地面に縫い付けていく。
メイドの喉が、嚥下を拒絶するように不自然に動いた。
「セレスティーヌ様が、夜な夜な怪しい薬を練っているのを見た……」
マルグリットは囁く。
「ただ、そう口にするだけで、あなたの家族の食卓には、温かいスープが並ぶわ」
メイドの唇から、言葉にならない掠れた音が漏れた。
空気そのものが、彼女の意志を拒んでいるかのように、肺に入っていかない。
マルグリットの指が、メイドの頬を、蛇が這うような冷たさで撫でた。
「嘘は、真実よりも美しく、そして合理的でなければならないの」
彼女の脳内では、すでに幾千もの駒が、最適な位置へと配置されていた。
セレスティーヌが積み上げた薬瓶。それは、毒という名の「物語」に書き換えられるのを待っている。
アルベール殿下の正義感は、すでに十分な予熱を終えている。
あとは、この怯えた少女の一言を投下すればいい。
一滴の触媒が、全てを劇薬へと変えるように。
「……やります。何でも……おっしゃる通りに」
メイドが絞り出した声は、自らの存在を削り取った残骸のようだった。
「ええ。賢い選択ね」
マルグリットは扇をパチンと閉じ、背を向けた。
彼女の足取りは、先ほどよりも微かに軽やかだった。
世界は、支配されることを望んでいる。
他者の弱さを糸として、美しい織物を編み上げる。
そこには、セレスティーヌが抱いているような「記録者」としての矜持など微塵もない。
あるのは、泥の中に咲く花を、自分の足で踏みにじることへの、確かな手応えだけだ。
夕闇が、学園を黒く塗り潰していく。
あの日、深夜の廊下を密かに歩いたセレスティーヌの足音。
その不在の響きが、今やマルグリットの策略という実体を持って、研ぎ澄まされていた。
王宮の尖塔が、空を刺す黒い指のように見えた。
断罪の日は、もう、そこまで来ている。
誰にも知られず、静かに煮詰められた「悪意」が、溢れ出す瞬間を待っていた。




