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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第23話 悪女の仮面と、静かなる疑念

 森の肺胞が吐き出す、湿った緑の息が旧校舎の裏手に淀んでいた。

 王立学園の華やかな喧騒は、幾重にも重なる石造りの壁と、手入れの放棄された針葉樹の枝葉に遮られ、ここまでは届かない。

 足元の腐葉土は、一歩踏み出すごとに粘りつくような抵抗を返し、マルグリット・セルヴァンの高価な革靴をじわりと沈ませる。


 彼女は、右手の指先で細い扇の骨をなぞっていた。

 象牙の冷たさが指腹に伝わり、その硬質な感触が、自身の心臓の拍動を一定の律動に繋ぎ止めている。

 目の前には、影に溶け込むようにして立つ男がいた。


 男の呼吸は浅く、衣擦れの音すら立てない。

 彼は懐から、数枚の羊皮紙を取り出した。

 乾燥しきった紙が擦れ合う音が、静寂の中で耳障りなほど尖って響く。

 差し出されたその紙を受け取ろうと手を伸ばしたとき、マルグリットの指先がわずかに震えた。


 それは恐怖ではない。

 獲物を追い詰める罠の、最後の一画を書き入れる瞬間の高揚だ。

 羊皮紙は、男の体温を吸って微かに生温かい。

 マルグリットは、その「偽りの言葉」が記された紙面へと、翡翠色の瞳の焦点を絞った。


 そこには、セレスティーヌ・ヴァルモンの流麗な筆跡が、緻密な悪意を伴って再現されていた。

 インクの溜まり、撥ねの鋭さ、行間のわずかな歪みまでもが、本人の呼吸を写し取ったかのように生々しい。

 ステラ・メルヴィユを――あの忌々しい平民の娘を、肉体的にも社会的にも葬り去るための計画書。


「……お見事ね」


 マルグリットの声が、湿った空気の中に染み込んでいく。

 彼女は左手に持っていたずっしりと重い革袋を、男へと投げ渡した。

 銀貨同士がぶつかり合う、鈍く、重厚な音が、袋の中で微かな余韻を引く。

 男の掌がその重量を受け止め、一瞬だけ手首の腱が浮き上がる。


「報酬よ。あなたのその技術、私以外には売らないことね。もしこの紙が、別の場所で芽を吹いたら……」


 言葉の語尾を濁し、マルグリットは男の目を射抜いた。

 脅迫は、直接的な言葉にするよりも、沈黙の層を厚くした方が鋭利に刺さる。

 男は音もなく深く一礼し、森の影へと吸い込まれるように消えた。

 後に残ったのは、かび臭い土の匂いと、マルグリットの掌に残る羊皮紙の重みだけだった。


 マルグリットは、自身の内側で何かが、冷たい氷の楔となって打ち込まれるのを感じていた。

 『人間は、誰もが利己的である』。

 その確信が、彼女の喉を渇かせ、同時に彼女の脊髄を支える唯一の支柱となっている。

 没落の影が差すセルヴァン侯爵家。父の焦燥に満ちた眼差し。

 父は、私を駒として使うつもりだ。侯爵家の再興のためなら、娘を売り渡すことさえ厭わない。私には、自らの手で未来を掴み取るしかない。


 それらすべてを振り払うには、他者の存在を資材として踏み台にするしかない。

 ヴァルモン公爵家の長女、セレスティーヌ。

 あの常に完璧な仮面を剥ぎ取り、泥の中に引きずり下ろす。

 そのための駒は、もう十分に盤上に揃っているのだから。


 ***


 翌日、王立学園の大教室。

 天井の高い空間には、埃の粒子が午後の陽光に透かされ、無数の極小の天体のように漂っていた。

 私は最前列の席で、背筋を一本の鋼の芯が通っているかのように伸ばし、座っている。

 アルベール殿下の体温が、触れていなくても右側の肌に予感として届く。


 だが、私の意識は、教室の最後方にある一点に固着していた。

 ステラ・メルヴィユ。

 彼女の机の上には、もはや「本」と呼ぶことすら躊躇われるほどの残骸が横たわっていた。

 引き裂かれた紙の繊維が、空気中の水分を吸って無惨に毛羽立ち、黒い泥水のような汚れがページを侵食している。


「まあ、なんてことでしょう」

「あんな汚れ、一生落ちませんわね」


 周囲の令嬢たちの声が、微小な振動となって私の鼓膜を叩く。

 それは情報の伝達ではなく、ただのノイズだ。

 ステラの指先は、自分の机の縁を白くなるほど握りしめていた。

 琥珀色の瞳が揺れ、まつ毛に溜まった涙が、今にも表面張力を失って決壊しようとしている。


 私の胃の底が、じわりと重くなる。

 前世で、瓦礫の中で泣く子供たちをレンズ越しに眺めていたときと同じ、あの鉛のような圧迫感。

 助けたい、と指先が疼く。

 だが、その衝動を、私は「セレスティーヌ」という役柄の冷たい檻の中に閉じ込めた。


 アルベール殿下が、椅子を鳴らして立ち上がる。

 彼の正義感が、ステラの涙に呼応して発火する。

 それでいい。これこそが、物語が本来辿るべき、美しい黄金比なのだから。

 私は、感情を完全に濾過した視線で、その光景を一度だけ一瞥した。


 昼休み。

 静まり返った教室に、一筋の光が差し込み、ステラの机を照らしていた。

 私は音を殺してその席へ近づき、破壊された教科書を手に取った。

 指先に触れる紙は湿っており、腐敗したような、あるいは鉄のような不快な臭いが鼻腔を突く。


 私は、自身の手を汚さないよう注意深く、懐から小さな玻璃瓶を取り出した。

 中に入っているのは、前世の暗室作業や機材の手入れで培った知識を元に、薬草学の裏庭から密かに精製した高純度のアルコールと、特殊な溶剤(ソルベント)の混合液だ。


 魔法という曖昧な力に頼るよりも、私にとっては、この化学反応(リアリティ)の方がずっと信頼に値する。

 私は清潔なハンカチの端をその液体で湿らせ、泥に塗れた紙の表面を、繊維を傷めない正確な角度で叩いた。

 インクを溶かさず、泥の粒子だけを浮き上がらせる、精密な洗浄(クリーニング)


 一秒、また一秒。

 汚れの層が、透明な液体の作用によって分解され、ハンカチへと吸い取られていく。

 やがて、私の手の中に残ったのは、汚れ一つない、新品同様の硬質な紙の束だった。

 私はそれを、一ミリの狂いもなく元の位置へと戻した。


 誰にも知られてはならない。

 この救済は、この世界において罪なのだから。

 私は、自身の体温が教科書に残らないよう、そっと風を操って熱を散らし、教室を後にした。


 ***


「……ステラ、どうしたの?」


 戻ってきたステラが、驚愕で言葉を失っている。

 その背後から、マルグリットが滑り込むように現れた。

 彼女の手は、ステラの震える肩を抱き寄せ、優しく、しかし確実に拘束している。

 マルグリットの視線が、一瞬だけ私の方を向き、すぐに机の上の教科書へと戻った。


「……嘘。これ、さっきまであんなに酷かったのに……」


 ステラの呟きは、浅い呼吸とともに霧散する。

 マルグリットは、その「奇跡」を、一瞬で「毒」へと変成させてみせた。

 彼女の翡翠色の瞳に、計算し尽くされた哀れみの色が浮かぶ。


「ステラ、離れて。これは……証拠隠滅よ」


 その言葉が、教室の空気の粘度を一気に変えた。

「証拠隠滅」という響きが、令嬢たちの間に、目に見えない波紋となって広がっていく。

 マルグリットは、怯えるステラをさらに強く引き寄せた。

 その指先は、ステラの制服の布地を、無意識に歪ませるほど強く握っている。


「あんなに酷かった汚れを、跡形もなく消すなんて。……魔法の痕跡すら残さないなんて、不自然だわ。これほど高度な技術を使い、しかも誰にも見られずに実行できるなんて……学園に、あの方以外に誰がいるというの?」


 マルグリットの指が、教室の前方――私の背中を指し示す。

 私は、それを背中で感じていた。

 視線の圧力。

 無数の針が、私の項を、背骨を、ドレスの薄い布越しに突き刺してくる。

 喉の奥に、鉄のような味がした。


 だが、その悪意の包囲網の中で、ステラだけが違った反応を見せていた。

 彼女は、自分を抱きしめるマルグリットの手を見つめていた。

 震えるマルグリットの指先。

 その指先から伝わってくる、あまりにも激しい熱。


「……マルグリット?」


 ステラの声は、これまでになく静かだった。

 それは、嵐の前の、不自然なほどの凪に似ていた。

 マルグリットは、ステラの琥珀色の瞳が自分を真っ直ぐに射抜いていることに気づき、一瞬だけ瞬きを止めた。


「どうして、あなたはそんなに確信しているの? セレスティーヌ様がやったって……」


「それは、あなたを守りたいからよ。ステラ、あの方は……」


「でも」


 ステラは、マルグリットの言葉を、柔らかく、しかし断固として遮った。

 彼女は、自分の机に置かれた教科書へと手を伸ばした。

 指先が紙に触れる。

 ステラの表情が、微かに、しかし決定的に変わった。


 丁寧に修復されたばかりの紙。

 そこには、かすかに鼻を突くような鋭い薬品の残り香があった。

 それは冷たく、透明で、どこか懐かしい……。

 ステラは、かつて自分が孤立していたとき、誰かが密かに置いていった「花」の匂いを、その教科書から感じ取っていた。


「マルグリットの手、すごく熱いわ」


 ステラが、マルグリットの手首をそっと握りしめた。

 その接触に、マルグリットの身体が、一瞬だけ石のように硬直した。

 物理的な抵抗。

 ステラの柔らかな掌が、マルグリットの皮膚の下にある焦燥を、むき出しに暴き出そうとしている。


「ステラ、私は……」


「怖いのね。あなたが、一番怖がっているみたい」


 ステラの言葉は、マルグリットの心臓の最も深い場所にある、空洞へと吸い込まれていった。

 マルグリットの脳裏に、没落しゆく屋敷の、暗く沈んだ廊下の光景がフラッシュバックする。

 父の罵声。冷えたスープ。

 利用しなければ死んでしまう、という強迫観念。


 彼女の身体は、ステラの優しさに触れて、悲鳴を上げていた。

 筋肉が矛盾する命令を受け、微細に痙攣する。

 守りたい、と、壊さなければ、が、一つの身体の中で激しく衝突し、熱を産生している。

 マルグリットは、乱暴にステラの手を振り払った。


「……なによ。私を疑うのね? せっかく、あなたのことを思って言っているのに!」


 その声は、鋭く、高く、そしてあまりにも空虚だった。

 マルグリットは、自身の指先が、今、何を求めているのか自分でもわからなくなっていた。

 ステラを抱きしめ直したいのか。それとも、その澄んだ瞳を、今すぐ潰してしまいたいのか。


 私は、その不協和音を、ただ静かに聞き続けていた。

 ステラの中に蒔かれた「疑念の種」は、まだ小さな双葉に過ぎない。

 だが、その根は、マルグリットが築き上げてきた完璧なシナリオの亀裂へと、確実に潜り込んでいる。


 教室の時計が、刻一刻と、残酷なほど正確なリズムで時を刻んでいた。

 一秒、一秒。

 見えない重力が、私たち三人――悪役と、ヒロインと、暗躍者――を、一つの破滅という特異点へと引き寄せていく。


 私は、机の下で、自分の膝を強く押さえつけた。

 指先の感覚が失われるほどに。

 そうしなければ、今にも立ち上がり、あの二人を構図から引き剥がしてしまいそうだったから。

 喉の奥に溜まった未発話の言葉が、苦い沈殿物となって、私の中に降り積もっていく。


 夕暮れの光が、教室の床に長い、蜂蜜色の影を落とし始めた。

 光の中に舞う埃は、もはや天体ではなく、燃え尽きようとする火の粉のように見えた。

 物語は、加速していく。

 誰の意志も届かない、その事象の地平線の向こう側へと。


 マルグリットは、唇を噛み締め、ステラから目を逸らして自分の席へと戻っていった。

 その足取りは、いつもの優雅さを欠き、何かに耐えるように重い。

 ステラは、一人残された机の前で、静かに教科書を胸に抱いた。


 彼女の目には、もはや涙はなかった。

 ただ、そこには確かな残留感があった。

 セレスティーヌが残した微かな熱と、マルグリットが放った激しすぎる熱。

 その二つの熱の狭間で、ステラは、自分だけの「正解」を、血の滲むような思いで探し始めている。


 私は、その光景を、レンズ越しではなく、剥き出しの生の知覚で受け止めていた。

 胸腔が、膨張と収縮を繰り返す。

 痛いほどに、酸素が冷たい。

 私は、背筋を伸ばしたまま、ただ、ゆっくりと、深く、呼吸を繰り返した。


 次に訪れる破綻の予感。

 それは、空気の重みとなって、私の肩の上に、静かに、しかし確実に降り積もっていた。

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