第22話 その笑顔で、俺は傷ついた
大理石の床を踏みしめるたび、硬い踵の音が円筒状の廊下に反響する。
残響が耳朶を叩き、自分の輪郭を無理やり確認させられるような感覚。
午後二時の陽光は、高窓から斜めに差し込み、宙を舞う埃の粒を白く透かしていた。
その光の粒子一つ一つに、私の悪評が吸着しているのではないかと錯覚する。
前方から歩いてくる生徒たちの視線が、私の肌に触れる直前で鋭角に屈折した。
彼らが道をあける際、衣類が擦れる微かな音が、私を拒絶する障壁のように響く。
私は、口角を三ミリだけ引き上げた。
頬の筋肉は、冷えた陶器のように硬く、裏側で細かな亀裂が走っている気がする。
それでも、この完璧な仮面を維持しなければ、私の存在はこの空間の密度に耐えきれず霧散してしまうだろう。
婚約者であるアルベール殿下。
彼の翡翠色の瞳に宿る嫌悪は、今や物理的な重さを伴って私の肩を押し下げている。
彼がステラ・メルヴィユを庇うたび、世界は彼女を中心に再構築され、私はその縁へと追いやられる。
それでいい。
私は自分にそう言い聞かせ、肺の奥に溜まった澱んだ空気を、音を立てずに吐き出した。
撮影計画は順調だ。私はこの世界の外側に立つ、ただの観測者でなければならないのだから。
旧校舎へと続く渡り廊下。
空気の温度が、不意に一段階下がったのを感じた。
湿った石の匂いと、手入れの行き届かない蔦が放つ青臭い香りが鼻腔を突く。
前方、数十メートルの位置。
蜂蜜色の髪が、逆光の中でぼんやりとした輪郭を持って揺れていた。
ステラ・メルヴィユ。
彼女は私に気づくと、肺から空気が漏れるような音を立てて立ち止まった。
普段なら、彼女は小刻みに震えながら、視線を足元に落として通り過ぎる。
だが、今日の彼女の指先は、胸元で握りしめられたまま動かなかった。
琥珀色の瞳が、私の顔を――いや、私の仮面の奥を現像しようとするかのようにじっと見つめてくる。
一歩、彼女が足を踏み出した。
使い古された革靴が、石床の僅かな凹凸を拾って、鈍い摩擦音を立てる。
「……ごきげんよう、セレスティーヌ様」
声は震えていたが、湿った重みがあった。
私は立ち止まる。
私の身体を包む重力が、その瞬間だけ倍加したかのような錯覚。
「あら、ステラさん。わたくしに何か御用かしら?」
声帯を震わせる摩擦が、自分でも驚くほど冷たく、硬い。
「わたくしは今から図書館へ向かうところでしてよ。平民上がりのあなたとおしゃべりを楽しむような無駄な時間は、あいにく持ち合わせておりませんの」
言葉は、私の喉を通過する際に鋭い刃へと形を変えた。
それを放つたび、私自身の喉の粘膜が削り取られるような痛みが走る。
ステラは、弾かれたように肩を震わせた。
だが、彼女の足は後ろには下がらない。
「あの……、お怪我は、ありませんか?」
その問いが、私の鼓膜を通過して脳に届くまで、奇妙なタイムラグがあった。
「……は?」
予期せぬ言葉に、私の思考のピントが、一瞬だけ彼女の瞳の奥へと合わさる。
「最近、セレスティーヌ様のお顔色が優れないように見えて……。その、私なんかが申し上げるのはおこがましいと分かっているのですが、少し、無理をなさっているのではないかと……」
彼女の善意は、暴力的なまでの光となって私を射抜いた。
胃の底で、冷えた鉛が蠢くような感覚。
前世の記憶――瓦礫の隙間から、震える指先を私に伸ばした、あの子供の残像。
助けたい。そう願う心が、私の身体の内側から肋骨を叩いている。
だが、私が彼女の手を取れば、この世界を繋ぎ止めている秩序が崩壊する。
私はドレスの襞を、指先が白くなるまで強く握りしめた。
「……身の程をわきまえなさい」
私の唇は、私の意志を無視して、最も残酷な言葉を選択した。
「わたくしの体調を気遣うなど、あなたがどのような立場にいるか忘れたのかしら?」
「王国最大の領地を持つヴァルモン公爵家の長女に対して、男爵家の分家ごときが同情を向けるなど、不敬にも程がありますわ。二度と、わたくしの視界に入らないでちょうだい」
言い終えるのと同時に、ステラの瞳から光が消失した。
溢れ出した大粒の涙が、彼女の頬を伝い、床に小さな点となって落ちる。
その音が、私の耳には爆音のように響いた。
右耳の奥で、キーンというホワイトノイズが走り出す。
視界の端が、急激に暗転し、コントラストが異常に高まっていく。
私は、右手の指先が痙攣するように動くのを感じた。
人差し指が、虚空で「シャッター」を切る。
カシャ、カシャ。
存在しないカメラの作動音が、私の脳内だけで虚しく反響する。
ストレスが臨界点を超え、私の身体は私を切り離し始めた。
「ご、ごめんなさい……申し訳ありません……」
ステラは顔を覆い、泣きながら走り去っていった。
遠ざかる彼女の背中が、私の視界の中で白く滲んで消えていく。
彼女が通り過ぎた後の空間には、彼女の涙の湿度が、重苦しい沈殿物のように残っていた。
私はその場に釘付けになったように、一歩も動くことができない。
指先はすでに感覚を失い、氷のように冷たくなっていた。
***
辿り着いたのは、地図からも忘れ去られたような北棟の裏庭だった。
石造りのベンチは、長年の雨風に晒されて表面がざらついている。
私はその上に崩れ落ちるように腰を下ろした。
冷たい石の感触が、薄いドレス越しに皮膚を突き刺し、現実を繋ぎ止める。
周囲には、誰の気配もない。
あるのは、風に揺れる木々のざわめきと、時折聞こえる鳥の羽ばたきだけだ。
私は、顔に張り付いていた筋肉の鎧を、ゆっくりと解いていった。
ピキリ、という幻聴と共に、口角が重力に従って垂れ下がる。
強張っていた頬が弛緩し、そこに溜まっていた疲労が一気に噴出した。
私は両手で顔を覆い、深く、長く、底のない呼吸を繰り返した。
「……もう、限界、だわ……」
自分の声が、自分の耳にさえも他人のもののように届く。
涙は出ない。ただ、胸の中央にぽっかりと開いた空洞を、冷たい風が通り抜けていくだけだ。
私は、自分が何者であるかさえ、わからなくなっていた。
――カサリ。
乾いた音が、静寂の幕を鋭く切り裂いた。
背筋に冷たい電流が走る。
心臓が、肋骨の内側を激しく打ち付け、肺を圧迫した。
私は反射的に立ち上がり、乱れたドレスを整えようとしたが、指が思うように動かない。
木漏れ日が作る複雑な影の中から、一人の影が浮き上がってきた。
銀灰色の髪。漆黒の制服。
そして、全てを見透かすような、氷の青を湛えた瞳。
レオン・ノワールクール公爵。
「あっ……」
声が、喉の奥で小石のように詰まった。
見られた。
この、剥き出しになった醜い素顔を。
私は慌てて、崩れた表情を再構築しようとした。
頬の筋肉を無理やり引き上げ、口角を固定する。
「……ご、ごきげんよう、ノワールクール公爵様」
声が微かに裏返り、空気を掴めずに散っていく。
「このような場所で、奇遇にございますわね。わたくし、少し風に当たりたかっただけですの」
私は精一杯の優雅さを装い、カーテシーを試みた。
だが、膝が笑い、重心が定まらない。
レオンは、無表情のまま立ち尽くしていた。
彼の視線は、私の顔面に張り付いた急造の仮面を、容赦なく透過していく。
風が、私たちの間を通り抜けた。
彼の纏う空気は、この裏庭のそれよりも密度が高く、冷たい。
私は、彼の青い瞳というレンズに、自分の醜態が定着していく恐怖に耐えていた。
沈黙。
それは単なる音の不在ではない。
何かが押し寄せてくる、巨大な質量の前兆だった。
「……公爵様?」
耐えきれず、私がさらなる嘘を重ねようと口を開いた、その瞬間。
レオンが、一歩、間合いを詰めた。
彼の靴が土を踏む音が、私の心臓の鼓動と同期する。
「お前は、誰も傷つけないように笑っているが」
低く、重い声だった。
その言葉に含まれる真実の質量に、私の呼吸が止まる。
なぜ、知っている。私がこの嘘の笑顔で、何を守ろうとしているのかを。
「……何を、仰っているのか、わかりかねますわ。わたくしは、ただ――」
弁明しようとした唇が、激しく震え始めた。
指先がドレスを掴み、生地が悲鳴を上げるように軋む。
レオンは、私の瞳を射抜いたまま、視線を逸らさなかった。
彼は一度、深く目を閉じた。
その瞬間の沈黙は、これまでの人生で経験したことのないほど、濃密で、苦しいものだった。
世界から音が消え、ただ彼の存在だけが、私の意識の全てを占拠する。
再び彼が目を開けたとき、その青い瞳には、怒りでも軽蔑でもない、耐え難いほどの痛みが宿っていた。
「――その笑顔で、俺は傷ついた」
心臓を直接指で弾かれたような、鋭い衝撃。
私の脳内にあった全てのフレームが、一瞬で露出オーバーとなって真っ白に吹き飛んだ。
私は目を見開き、ただ彼の姿を視界に収めることしかできなかった。
レオンはそれ以上、何も語らなかった。
彼はきびすを返し、迷いのない足取りで去っていく。
遠ざかる彼の背中が、私の網膜に残像として焼き付き、離れない。
靴音が完全に消えた後、私は再び、音のない裏庭に取り残された。
***
どれほどの時間が経過しただろう。
私は、自分の足の裏が地面に吸い付いているような、奇妙な重力を感じていた。
『――その笑顔で、俺は傷ついた』
彼の言葉が、空気の振動となって今も肌を刺し続けている。
私が、彼を傷つけた。
完璧に、誰も介入させずに終わらせるはずだった私の物語に、彼が自ら亀裂を入れた。
「……あ、……っ」
私の中で、何かが音を立てて崩壊した。
顔面に張り付いていた偽りの皮膚が、粉々に砕け散っていく。
頬は垂れ下がり、目元は力が抜け、私はどうやって「表情」を作ればいいのかを完全に忘失した。
戦場でも、転生後でも、死守し続けてきた最後の防衛線。
それが、彼のたった一言の質量によって、跡形もなく押し潰された。
指先が、狂ったように震えている。
私はその震えを止める術を持たず、ただ自分の身体が裏切っていくのを眺めることしかできない。
彼は、私の正体を見破ったのではない。
私の痛みそのものを、自分の身体に転写してしまったのだ。
底知れない恐怖が、足元から這い上がってくる。
シナリオが壊れる。私が築いてきた孤独な均衡が、彼という引力によって無惨に歪められていく。
だが、その恐怖の裏側で。
私の冷え切った心臓の奥底が、自分でも驚くほどの熱を帯び始めていることに気づいてしまった。
『彼だけが、私の本当の姿を見つけてくれた』
誰の記憶にも残らず、ただ消えていくことを願っていたはずの魂が。
彼の深い青い瞳に映し出された瞬間、初めて実在という重みを獲得してしまったのだ。
「……はじめて、……」
掠れた声が、風に溶けていく。
私は彼が恐ろしい。
私の嘘を暴き、剥き出しの私を引きずり出した彼が、死ぬほど恐ろしい。
けれど。
彼が去った後の冷たい空気の中に、微かな寂寥と、抗いようのない救いを感じている自分を、もう否定することはできなかった。
次に来るのは、決定的な破滅への崩落かもしれない。
それでも、私はもう、以前と同じように笑うことはできないだろう。
崩れかけた素顔のまま、私はいつまでも裏庭に立ち尽くしていた。
石造りのベンチの上に、陽光が落とす影の形が少しずつ伸びていく。
私の足元には、描かれなかった感情の断片が、目に見えない重りとなって降り積もっていた。




