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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第21話 胸が締め付けられる理由

 ヴァルモン公爵邸の、西側に位置する私の居室。

 指先が、彫刻の施された重厚なオーク材の扉に触れる。

 金属製のレバーハンドルは、私の体温を嘲笑うかのように無機質な冷気を掌に伝えてきた。


 カチリ、と。

 噛み合った金属が、世界を遮断する音を立てる。

 鍵を回す、わずかコンマ数秒の抵抗。その摩擦が、私の指の骨を微かに震わせた。


 その瞬間、私の全身を支えていた不可視の支柱が、音を立てて折れた。

 背中が扉の木目に擦れ、布地が摩擦で熱を帯びる。

 重力は突如としてその密度を増し、私の身体を冷たい床へと引きずり落とした。


「はぁ……っ、はぁっ、はぁ……」


 喉の奥が引き絞られ、呼吸のたびに冷たい石を飲み込んでいるような違和感が走る。

 酸素を求めて喘ぐほどに、胸の奥が物理的な質量を伴って圧迫されていた。

 顔面に張り付いていた、あの鋼の弾力を持つ笑顔が、剥落していく。


 剥がれたあとの皮膚が、自室の淀んだ空気に触れてチリチリと焼けるようだ。

 誰もいない、完全な空白。

 そこでようやく、私は自分の心臓が、乱れたドラムのように胸の内で暴れていることに気づく。


 視界の端で、今日着ていたドレスのレースが、不自然なほど鮮明に浮き上がって見えた。

 繊維の一本一本。その複雑な絡まり。

 それは、私が今日一日の間に編み上げてきた、嘘の網そのもののようだった。


 助かったのだ。

 あのまま、ベアトリクスたちの悪意の渦の中に留まっていれば。

 私の喉は、自らの心を削り出した毒針を、さらに吐き出し続けていたに違いない。


 レオン・ノワールクール。

 彼の不在が、今、この部屋の隅々にまで重力として沈殿している。

 彼がそこに現れた時、空気の粘度は確かに変わった。


 彼は何も言わなかった。

 ただ、その青い瞳が、私の仮面の隙間にある湿り気を捉えただけだ。

 その観測という行為だけで、彼は私の世界を静止させた。


 私の完璧なシナリオは、まだ破綻していない。

 父の威厳も、母の平穏も、弟妹たちの未来も、私の「悪役」という名の犠牲の上に繋ぎ止められている。

 何も失っていない。どこにも亀裂は入っていない。


 なのに。

 どうして、この胸の奥には、巨大な空洞が口を開けているのだろう。

 床に座り込んだまま、私はドレスの胸元を、握り潰すように掴んだ。


 指先に食い込む布地の抵抗。

 内臓が逆方向に捩じ切られるような、生理的な嫌悪。

 肺の底に溜まった、未消化の重い言葉が、喉を競り上がってくる。


「……なぜ、助けたの」


 掠れた声が、暗い部屋の床を這う。

 それは言葉というよりも、傷口から漏れ出した体液に近い響きだった。

「……どうして、何も言ってくれないのよ」


 私は、誰とも重なり合わないと決めたはずだ。

 誰の記憶にも残らない、砂漠に描かれた一時の紋様で終わるはずだった。

 なのに、あの男の視線だけが、私の魂の深部に刺青を彫り込んでいく。


 見透かされることへの戦慄と、見つめられることへの渇望。

 その二つの矛盾した感情が、私の血管の中で沸騰し、同時に凍りついている。

 脳が、互いに食い違う指令を出し続け、意識のピントが激しく明滅した。


『見つけないで』という剥き出しの防衛本能。

『私を見つけて』という、前世の底から響く、血を吐くような祈り。

 その二つの質量の衝突に、私は呼吸を忘れて耐えるしかなかった。


 前世。

 あの、鉄錆と消毒液の匂い《・・・・・・・・》が染み付いた、冷たい寝台。

 窓の外を流れる、誰のものでもない灰色の雲。


 私が消えても、世界は一グラムも軽くならない。

 その圧倒的な無価値感が、私の心臓を絶対零度まで冷却した。

 あの日、私を看取ったのは、壊れかけた時計の秒針の音だけだった。


 もう二度と、あの静かな窒息は味わいたくない。

 誰かに、私がここに実在することを、証明してほしい。

 だが、その願いに輪郭を与えてしまえば。


 私は、「悪役」としての質量を失ってしまう。

 殿下を、あの蜂蜜色の輝きへと導くための、暗い道標でいられなくなる。

 それは、私の愛する家族を、破滅の業火から救う唯一の手順の放棄だ。


 彼に、重心を預けてはいけない。

 あの青い瞳の引力に、一歩でも足を踏み入れれば。

 物語の均整は、取り返しのつかない形で崩落する。


「……私は、一人で、大丈夫」


 自分自身に呪いをかける。

 その言葉は、冷たい床に落ちて、乾いた音を立てて砕けた。

 私は、震える膝に力を込め、ゆっくりと身体を押し上げる。


 月光が、ナイフのように鋭く差し込む姿見の前。

 そこには、幽霊のような顔をした、見知らぬ少女が立っていた。

 私は、その無防備な両頬を、感覚が消えるほど強く叩いた。


 ――パァン、ッ。


 衝撃が脳を揺らし、網膜の奥で火花が散る。

 ジリジリとした痛みが、頬の皮膚を赤く染め上げ、意識を現実に繋ぎ止めた。

 私は、瞳の奥の熱を凍土へと埋め戻し、口角を理想的な角度に吊り上げる。


 非の打ち所のない、完璧な造花のような「セレスティーヌ」。

 鏡の中の彼女は、私の痛みを吸い込み、微かな光すら通さない冷徹な微笑みを湛えていた。


 カウントダウンの音は、もう止まらない。

 明日も、私はこの重い仮面(ペルソナ)を、皮膚の一部として纏い続ける。

 この胸を締め付ける、名前のない残留感を、抱えたままで。


 ***


 数日後。

 王立学園、サロン。

 そこには、砂糖を煮詰めたような甘ったるい香りと、高貴な家柄を誇示する布地の擦れる音が充満していた。


 魔法灯の光が、磨き抜かれた大理石の床に反射し、生徒たちの輪郭を眩暈がするほど白く飛ばしている。

 その絢爛な喧騒の片隅で、ステラ・メルヴィユは、小さなティーカップを両手で包み込んでいた。


 琥珀色の液体が、カップの中で微かに揺れる。

 男爵家の分家という、この場所では空気よりも軽い身分。

 彼女にとって、このサロンは常に、刃の林を素足で歩くような緊張を強いる場所だった。


 だが。

 ここ数日、ステラの周囲から、あの刺すような気配が消えていた。

 ベアトリクスたちの、獲物を見定めた蛇のような視線が、不自然なほどに彼女を回避していく。


「……ステラ、どうかしたの? お茶の香りが逃げてしまうわ」


 目の前で、マルグリット・セルヴァンが、蜂蜜のような甘い笑みを浮かべた。

 彼女がカップを置く、そのわずかな衝撃すら、洗練という名の計算に基づいている。


「あっ、ごめんなさい。……なんだか、最近、静かすぎて」


 ステラは、サロンの遠くで、自分を無視して談笑する令嬢たちを、盗み見るように確認した。

 直接的な罵倒も、わざとらしい肩の接触も、ない。

 それは平和というよりも、真空に近い静寂だった。


「ベアトリクス様たち、私に意地悪をしなくなったの。……もしかして、私を受け入れてくれたのかなって」


 ステラのその純粋な響きが、マルグリットの喉を、滑らかな笑いで震えさせた。

 マルグリットは、湿り気を帯びた瞳で、ステラを見つめる。


「ステラは本当に、透明な心を持っているのね。

 彼女たちが、あなたを同等として受け入れるなんて、太陽が西から昇るようなものよ。

 ……私が、彼女たちの耳元で、少しだけ釘を刺しておいたの」


「えっ? マルグリットが?」


「ええ。

 セルヴァン侯爵家の名において、『私の大切な親友に、これ以上濁った手を触れないで』とね。

 それに……」


 マルグリットが、テーブル越しに身を乗り出す。

 彼女が纏う香水の匂いが、ステラの鼻腔を重く、甘く、侵食した。


「彼女たちを裏で糸を引いていた人形師にも、相応の牽制を入れておいたわ。

 だから、彼女たちは今、主を失った操り人形のように沈黙しているのよ」


「黒幕……?」


 ステラが首を傾げると、マルグリットは演技に満ちた悲痛な表情を、その顔に貼り付けた。


「セレスティーヌ・ヴァルモン公爵令嬢よ。

 ベアトリクス様に命じて、あなたの教科書を泥で汚させたのも、全てあの方の指示だったの」


「セレスティーヌ様が……!?」


 ステラは、息を止めた。

 いつも、鏡のように冷たく、近寄りがたい輝きを放っていたあの令嬢。

 その名が語られるたび、ステラの背筋には、不快な悪寒が走る。


「あの方は、心の欠損した氷の彫刻。

 殿下があなたに向ける温かな眼差しを、あの方は許せないのよ。

 私がこうして、あなたを繭のように包んで守っていないと、すぐに壊されてしまうわ」


 マルグリットの声は、真綿のように柔らかく、ステラの思考を麻痺させていく。

 孤立という名の深海に沈んでいたステラにとって、差し伸べられたその手は、救いの蜘蛛の糸に見えた。


 しかし。

 ステラの胸の奥底で、チリリ、と。

 静電気のような微かな違和感が、意識の端を掠めた。


「……マルグリット」


「なあに、ステラ?」


「どうして、そんなにセレスティーヌ様のことに詳しいの?」


 ステラは、自分の口から出た言葉の無機質さに、一瞬だけ戸惑う。


「毒痒草が机に入れられた時も、夜中に私の部屋の前にお薬が置かれていた時も。

 マルグリットは、それがセレスティーヌ様の仕業だって、すぐに予言するように言ったわよね。

 でも、誰も見ていなかったはずなのに、どうしてあの方が指示を出したって、断言できるの?」


 その問いが、サロンの空気に、一瞬の凍結をもたらした。

 マルグリットの、完璧な弧を描いていた唇が、ピクリと静止する。


 そして、彼女が微笑みを再起動させた瞬間。

 翡翠色の瞳の奥に、底知れない計算の光が、鱗のように光った。

 それは友情という名の熱ではなく、対象を解剖し、配置し直すための、冷酷な光。


『――本当に、セレスティーヌ様がやったの?』


 ステラの頭の中に、黒い染みのような疑念が広がっていく。


 セレスティーヌは、確かに氷のように冷たい。

 だが、夜の闇に紛れて、薬を届けるような湿った真似をするだろうか。

 もし彼女が、本気で私という塵を排除したいなら。

 公爵家という名の巨大な槌で、一思いに叩き潰せば済む話ではないか。


 そして何より。

 マルグリットというレンズを通したセレスティーヌは、あまりにも平坦で、色彩を欠いているように感じられた。


 ステラは、テーブルの下で自分の指を、白くなるまで握りしめた。

 布地の感触が、掌に現実を繋ぎ止める。


 だが、マルグリットは次の瞬間、慈愛に満ちた完璧な「親友」の顔を現像し。

 ステラの、冷え切った指先を、熱を帯びた手で包み込んだ。


「あなたを守りたいからよ、ステラ」


 その手の、不自然なほどの熱。

 それが、ステラの脳内に芽生えかけた鋭い切っ先を、甘く、ドロドロとしたもので塗り潰していく。


「私はセルヴァン侯爵家の娘。

 学園という名の情報網(ギルド)に、張り巡らされた糸は、全て私の指先に繋がっているわ。

 全ては、あなたという唯一の光を、あの公爵令嬢という影から守るため。

 ……私のこと、信じられない?」


 悲しげに揺れる、マルグリットの睫毛。

 ステラは、喉に詰まった不快な塊を、無理やり飲み込んだ。


「ううん、信じる! 疑ってごめんなさい、マルグリット」


『誰かを信じたい』。

 その飢餓感が、ステラの思考の回路を強制的に遮断した。


 差別の礫を浴び続けてきた彼女にとって、マルグリットという繭を失うことは、死と同義だった。

 たとえ、その温もりが、毒を含んだ甘い罠であったとしても。

 彼女は、その孤独への恐怖に屈し、直感という名の警鈴を自ら破壊した。


「ありがとう、マルグリット。私、あなたを信じるわ」


 ステラが、涙を浮かべて微笑む。

 その瞬間、マルグリットの喉の奥で、悦悦とした満足感が、かすかな振動となって鳴った。


 マルグリットの内部には、情動という名の臓器は存在しない。

 没落の泥を啜りながら、地位という名の梯子を登れと叩き込まれた、冷徹な生存機械。


 この無知な小娘は、劇薬として申し分ない。

 ステラの「純粋な被害者性」という名の刃を研ぎ澄まし。

 それを、セレスティーヌという名の心臓へ、最も効率的な角度で突き立てる。


 マルグリットは、ステラの柔らかな手を握りしめながら。

 心の底にある、凍りついた祭壇で、静かに笑っていた。


(本当に、扱いやすい素材。

 あなたのその「善性」が、セレスティーヌ・ヴァルモンを底なしの沼へと、一歩ずつ引きずり込んでいくのよ)


 サロンには、再び、均質な笑い声と、毒を含んだ甘い香りが、質量を持って降り積もっていく。


 ステラは、胸の奥で疼く小さな違和感に、重い蓋をした。

 そして、目の前の「光」を盲目的に信じることを選択した。


 その盲目という名の暴力が。

 やがて、セレスティーヌという一人の人間を、完全に透明にして消し去ってしまうことを。

 彼女は、最後の瞬間まで、知ることはなかった。


 物語は、それぞれの嘘と皮膚の下の悲鳴を、黒い糸で複雑に縫い合わせながら。

 決定的な断罪という名の、破滅の朝へと向かって、加速を始めていた。

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