第20話 レオンの介入、去る背中
大理石の廊下に、硬く、一定のリズムを刻む靴音が響く。
踵が石の表面を叩くたびに、微かな振動がふくらはぎを伝い、背骨を駆け上がっていく。
それは、静謐な水面に投げ込まれた石礫のように、周囲の空気を同心円状に震わせていた。
その音が近づくにつれ、廊下の温度が数度、急速に奪われていく。
肌表面の産毛が微かに逆立ち、不随意な粟立ちが腕を這う。
先ほどまで私に対して、義憤と嘲笑の声を上げていた令嬢たちの間に、目に見えない強烈な緊張が走った。
ベアトリクスが握りしめる扇の、細かな細工が施された骨が、微かに軋む。
彼女たちは、私を射抜こうとしていた視線を不自然に逸らした。
弾かれたように、重い重力に引かれるように、全員の顔が靴音の主――西棟の廊下の奥へと向けられる。
窓から差し込む午後の斜光が、宙に舞う細かな塵を金色に染め上げていた。
その光のカーテンを切り裂くようにして、一人の長身の青年が歩んでくる。
逆光が彼の輪郭を鋭く縁取り、表情を不在の暗闇へと沈めていた。
銀灰色の髪が、わずかな空気の揺れに従って、金属的な光沢を放ちながら揺れる。
軍服を思わせる漆黒の制服は、肩のラインから袖口に至るまで、一切の弛みを許さない。
生地が擦れる音すらも、計算された沈黙の一部であるかのようだった。
やがて、斜光の檻を抜けて、彼の顔が「現像」される。
氷の結晶を溶かし込んだような、底知れない青い瞳。
王国最年少の公爵、レオン・ノワールクール。
私の肩が、私自身の意志を無視して強張った。
肺の奥に溜まった空気が、出口を失って熱を帯び始める。
視界の端で、彼の制服の第二ボタン――銀の細工が施されたそれだけが、異常な鮮明さで網膜に焼き付いた。
彼がなぜ、今、ここにいるのか。
問いは喉の奥で、冷たい塊となって停滞する。
彼は図書室で、私の張り付けた仮面の下にある真実を、唯一観測した人間だ。
深夜の静寂の中、平民のための薬草をすり潰していた私の指先。
その緑色の汚れと、暗闇に紛れ込ませたはずの私の本意。
彼はそれを知りながら、誰にも告発せず、ただ不気味な沈黙を、堆積させている。
彼が一歩、踏み出す。
靴の底が床を捉え、体重が移動し、大理石がその荷重を押し返す。
その物理的なやり取りが繰り返されるたび、廊下に満ちていた甲高い非難の声は、物理的な質量によって押し潰されていく。
私を包囲していた令嬢たちの境界が、目に見えない圧力に押されるようにして、じりじりと後退する。
レオンは、私と彼女たちが対峙する空間の、ちょうど中心点へと迷いなく足を踏み入れた。
そして、静かに立ち止まる。
空気の振動が止まり、耳の奥にキーンという静かな、だが痛みを伴う共鳴が残った。
「……ノ、ノワールクール、公爵……様……」
ベアトリクスの唇が、ひび割れた陶器のような音を立てて動いた。
扇を握る指先が白く変色し、その震えがドレスの裾にまで伝播している。
先ほどまでの傲慢さは、霧散していた。
彼女の瞳に浮かんでいるのは、高位貴族への敬意ではなく、捕食者を前にした小動物の、原始的な生存本能に近い畏怖だった。
レオンは、ベアトリクスの震える声には一切の応答を返さなかった。
視線を向けることすら、贅沢であると言わんばかりの徹底した拒絶。
彼はただ、無機質な硝子玉のような瞳で、彼女たちを一瞥した。
その視線には、怒りも、軽蔑すらも混ざっていない。
ただ、そこに「何もない」ことを確認しただけの、純粋な空虚。
道端に転がる、名もなき石ころを視界の端で捉え、そのまま通り過ぎるような、絶対的な無関心。
だが、その『無』こそが、何よりも重い斥力として機能していた。
彼が纏う、血の通っていないような威圧感が、空間の粘度を増幅させる。
ベアトリクスとシャルロットは、顔面を蒼白にさせ、互いの肩を寄せるようにして身を縮めた。
これ以上、この空間の密度に耐えれば、自分たちの存在そのものが圧壊する。
そんな本能的な恐怖に急かされるように、彼女たちは視線を地面に落とした。
ドレスの裾を引き摺り、逃げるように廊下の奥へと去っていく。
硬いヒールの音が遠ざかり、大理石には再び、空洞のような静寂が舞い降りた。
残されたのは、私と、レオンの二人。
逃げ出したいという衝動が、足の裏から這い上がってくる。
私はそれを、数千回の反復練習によって染み付いた様式美で抑え込んだ。
表情筋をミリ単位で制御し、口角を完璧な中立点へと固定する。
眼球の動きを止め、彼という存在を「風景」の一部として処理しようと試みる。
「……ごきげんよう、ノワールクール公爵様」
ゆっくりと、右足を斜め後ろへと引く。
重心を垂直に、一定の速度で降ろしていく。
膝を折り、ドレスの布地が重なり合い、擦れ合う密やかな音が、私の耳元で鳴った。
非の打ち所のない、優雅なお辞儀。
首筋の角度、指先の揃え方、その全てが「公爵令嬢セレスティーヌ」という役を演じている。
私の胃の底には、いつの間にか冷たい鉛が沈殿していた。
「先ほどは、お見苦しいところを。……ですが、わたくしは少々急ぎの用がございます。これで失礼いたしますわ」
声から温度を抜き、事務的な記号として発音する。
立ち上がり、彼と視線を交差させないよう、わずかに顔を逸らして横を通り抜けようとした。
だが、彼が動く気配はない。
重力そのものがそこに固定されたかのように、彼は微動だにせず、私をじっと見下ろしていた。
私の網膜は、彼の制服の生地の、細かな織り目までを克明に記録し始める。
瞳孔の微かな収縮。呼吸によって上下する、彼の胸板の厚み。
私の観察眼は、生存のために彼の情報を必死に解析しようとするが、演算は常にエラーを吐き出した。
彼はただ、私の張り付けた表情の奥、その皮膚の下で明滅している悲鳴を、現像している。
このドレスの下で、私の指先が、制御不能な震えを起こしていることを。
喉が、極度の乾燥によって、一言も発せられないほどに収縮していることを。
彼は、見抜いている。
耳の奥で、再び不快な雑音が走り始める。
前世の、あの息苦しい病室の記憶。
誰からも顧みられず、ただ機械的な数値を刻み続けていた、私の「生」の成れの果て。
告発されるのだろうか。
「お前のその笑顔は、死体と同じだ」と。
「深夜に薬を調合していたあの手で、よくもそんな無垢な振りを」と、暴かれるのだろうか。
私の内側で、二つの感情が、鋭利な刃となって切り結んでいた。
助けてほしい、という渇望。
見つけないでほしい、という拒絶。
その矛盾が、胸腔を内側から食い破ろうとしていた。
レオンは、何も言わなかった。
ただ、彼が唇をわずかに――本当にわずか数ミリ――動かしたように見えた。
言葉が生まれる前の、前兆。
だが、彼は結局、その何かを飲み込み、一歩だけ横にずれて私に道を譲った。
その動作に伴って移動した空気の層が、私の頬を冷たく撫でた。
その沈黙は、どんな罵倒よりも私の身体に深く食い込み、そして。
不思議なほどに、救いのような静謐を伴っていた。
***
通り過ぎていく彼の背中を、私は視界の端で捉えていた。
硬い靴音が、廊下の先で、少しずつその質量を減らしていく。
彼の姿が、曲がり角の向こうへと完全に吸い込まれるまで、私は呼吸の仕方を忘れていた。
廊下に、真の欠落としての静寂が戻る。
私は壁に手をついた。
冷たい石の感触が掌に伝わり、それが自分の身体がまだここにあることを証明していた。
「……はぁっ……」
肺に溜まっていた熱い空気が、震える息となって吐き出される。
顔に張り付いていた仮面が、ボロボロと砂のように崩れ落ちていく感覚があった。
全身の力が抜け、膝が重力に従って崩れそうになるのを、壁の冷たさが支えている。
助かったのだ。
ベアトリクスたちに囲まれ、心を削りながら悪役を演じ続けなければならなかった、あの不毛な円舞曲。
彼がそこに立ち、その存在だけで空間を塗り替えたことで、私は解放された。
私の「誰も傷つけないための完璧な台本」は、今日も守られた。
彼に暴かれることもなく、告発されることもなく、日常は維持されたはずだ。
……なのに。
どうして、こんなにも胸の奥が、虚なのだ。
壁に手をついたまま、私はもう片方の手で、胸元のドレスの布を強く握りしめた。
絹の生地が、指の間でグシャリと悲鳴を上げる。
心臓が、冷え切った雑巾を絞られるように、鈍く痛む。
彼が何も言わずに立ち去ってしまったことに。
彼が私の嘘を見逃し、私をこの「安全な孤独」の中に置き去りにしたことに。
どうしようもないほどの、息が詰まるような寂寥を感じている自分がいた。
「……なぜ」
掠れた声が、乾いた唇から零れ落ちる。
「なぜ、助けたの。……どうして、何も言ってくれないの」
私は、誰とも深く関わらないと決めたはずだ。
誰の心にも残らず、誰の記憶からも消えていく、透明な記録者になると。
あの日、前世の記憶と共に目を覚ました瞬間、そう固く誓ったはずなのに。
あの氷のように冷たい瞳を持つ彼だけが、私の境界線を軽々と越えてくる。
矛盾している。
理性は、彼の沈黙に感謝すべきだと叫んでいる。
だが、本能は、この身体の奥底に眠る「私」は、彼の瞳の中に、自分の姿が鏡像として映ることを望んでいる。
相反する二つの意志が、私の内側で激しく衝突し、熱を生んでいた。
『見つけないで』。
そう願う防衛本能と、『私を見つけて』という、永劫に近い孤独の中で育ててきた叫び。
レオン・ノワールクールという、たった一人の「観測者」が、その天秤を狂わせていく。
「……ダメよ。私は、完璧な悪役令嬢でなければならないのに」
私は壁に額を押し当てた。
冷たい石の温度が、脳の過熱をわずかに中和していく。
彼にすがってはいけない。
もし、私が彼の沈黙に甘え、その視線の先に「居場所」を見出そうとしてしまえば。
この精巧に作り上げた喜劇は、決定的に崩壊する。
「……私は、一人で、大丈夫」
自分自身に呪文をかけるように呟き、私は再び顔を上げた。
瞳の奥の光を、再び冷たく凍らせる。
口角を、計算され尽くした角度で引き上げる。
そこに現れたのは、再び非の打ち所のない「セレスティーヌ・ヴァルモン」だった。
私は振り返ることなく、足早に自室へと向かって歩き出す。
靴音が、再び廊下に硬いリズムを刻み始めた。
しかし、背中に張り付いた彼の瞳の残滓は、拭えない。
どれだけ分厚い仮面を被ろうとも、その氷のような眼差しは、私の皮膚を透過し、心臓にまで届いている。
彼が去っていったあとの、あの空白のような背中が。
私の脳裏に、黒いインクを零したように焼き付いて、離れない。




