第19話 「親友」の仮面を被る悪意と、淀んだ盤面
磁器の触れ合う乾いた音が、微かな耳鳴りのように鼓膜の端を叩き続けていた。
王立学園の放課後。
サロンの空気は、何百枚もの薄い絹が重なり合ったような、重苦しい湿度を孕んでいる。
磨き上げられた大理石の床が、窓から差し込む斜光を鋭く撥ね返していた。
天井から吊るされた魔法灯の微かな振動が、空気の粒子を揺らしている。
その光の波に、高価な香水の粒子と、煮詰まった紅茶の重い香りが溶け込んでいた。
その豪奢な空間の片隅で、ステラ・メルヴィユは自身の呼吸の浅さを自覚していた。
椅子に深く腰掛けているはずなのに、背中が浮いているような、不確かな感覚。
ドレスの裾を握りしめる指先が、自分の意志とは無関係に、微かな震えを刻んでいる。
視線を上げれば、そこには見えない壁があった。
令嬢たちの笑い声が、彼女の周囲三メートルほどの手前で不自然に屈折し、逸れていく。
まるで、ステラが座る空間だけが、世界から疎外されているかのように。
男爵家の分家という、血筋の「薄さ」が、ここでは物理的な斥力となって彼女を押し返していた。
入学早々に投げつけられた、あの鋭利な刃の感触が、今も喉の奥に固まっている。
飲み込もうとするたびに、飲み込みきれない異物感が、嚥下を拒んでいた。
「――お待たせ、ステラ。少し、茶葉の機嫌を損ねてしまったわ」
甘い粘度を帯びた声が、硬直した空気を微かに切り裂いた。
鮮やかな赤毛を揺らしながら、マルグリット・セルヴァンがゆっくりと歩み寄ってくる。
彼女の移動に伴って、停滞していた空気が波紋のように広がり、ステラの肌を撫でた。
マルグリットが対面の席に腰を下ろす。
その動作には、重力に逆らうような軽やかさと、同時に床を支配する確かな質量があった。
彼女がカップを置くと、陶器と木材が触れ合う一瞬の衝撃が、テーブルを伝ってステラの指に届く。
「ありがとう、マルグリット……」
ステラは、ようやく肺の奥に溜まっていた熱い空気を吐き出した。
差し出された紅茶から立ち上る蒸気が、眼鏡の縁を微かに曇らせる。
カップを両手で包み込むと、陶器の熱が指先の皮膚を透過し、神経の奥へと染み込んできた。
少し離れた円卓から、密やかな囁きが風に乗って流れてくる。
それは、言葉というよりも、不快な周波数を帯びた羽音に近い。
「……ステラ様の机に毒痒草を忍ばせたのも、あの方ですわ」
「ええ、あんなに美しい微笑を浮かべながら、裏では何を……」
「証拠を隠すために特効薬を置くなんて、まるで……」
噂の「中心」には、常に一人の少女の名前が沈殿していた。
セレスティーヌ・ヴァルモン。
ステラは、その名を頭の中で反芻した瞬間、胃の底に氷の塊が置かれたような感覚に陥った。
マルグリットが、細く白い指でティーカップの取っ手をなぞる。
その爪が陶器を擦る、チ、という小さな音だけが、ステラの意識の中で異様に拡大された。
マルグリットは、翡翠色の瞳をステラの瞳の奥へと、深く、静かに潜り込ませる。
「あなたを守りたいの、ステラ。本当に」
その言葉は、温かい毛布のようにステラの肩を包み込んだ。
だが、その瞬間に、ステラの肌に走ったのは微かな悪寒だった。
マルグリットの手がステラの手を覆ったとき、その温かさは、生物的な熱というよりも、何かの内臓に触れたような、生々しすぎる感触として伝わってきた。
「あの方は、冷酷で……あなたが平民の血を引いていることを、生理的に嫌悪しているわ」
「……」
「だから、私が見張っていないと。あなたが、これ以上、壊されないように」
マルグリットの瞳の奥で、何かが瞬いた。
それは慈愛でも憤怒でもない。
まるで、複雑な数式を解き終えた後に浮かべる、冷徹な達成感のような光。
守りたい。本当に。……でも、それ以上に、自分が生き残らなければならない。セルヴァン侯爵家の最後の一矢として、私は何としても王都での地位を確保しなければならない。そのために、ステラという「聖女」の側にいることが、最も効率的な生存戦略なのだ。
ステラは頷こうとして、首の筋肉が不自然に緊張していることに気づいた。
『本当に、セレスティーヌ様がやったの?』
脳裏をよぎる疑念を、彼女は慌てて思考の暗がりに押し込める。
信じなければならない。
自分を孤独の淵から救い上げてくれた、この手のぬくもりだけは。
たとえ、そのぬくもりの底に、名前のない泥のような何かが混じっているとしても。
***
西棟の長い廊下を、私は独りで歩いていた。
一歩ごとに、硬いヒールが床を叩き、無機質な反響を天井へと突き上げる。
背後に残る自分の足音が、誰かの追跡者のように感じられ、振り返りたくなるのを抑えた。
ドレスのコルセットが、肺の膨らみを執拗に制限している。
吸い込める空気の量は、常に生命を維持するための最低限度に絞られていた。
図書室で、あの男――レオン・ノワールクールに投げかけられた言葉が、皮膚の表面でじりじりと焼けるような感覚を伴って、今も消えずに残っている。
『――昨日の顔の方がいい』
その記憶を呼び出すたびに、視界の端が熱で歪む。
彼に見透かされたのは、私の「嘘」だけではない。
「悪役」を演じることで、自分という存在が消滅していくことへの、根源的な恐怖だ。
だが、私は足を止めるわけにはいかない。
私は、私を嫌悪するすべての人々の視線を、その一挙手一投足で束ねる義務がある。
ステラ・メルヴィユという少女が光り輝くための、黒い背景として。
廊下の前方、光が滞留する場所に、数人の令嬢たちが塊となって立っていた。
彼女たちの視線が私を捉えた瞬間、空気の粘度が急激に増した。
重力が、私の肩に数キログラムの錘を載せたかのように、重く、沈み込む。
ベアトリクス・ド・ロワイヤルが、わざとらしく通路の中央へと踏み出した。
つい先日まで私の影に寄り添い、甘い言葉を囁いていた彼女の瞳に宿っているのは、純粋で無邪気な「正義」という名の憎悪。
(彼女は、わたくしがアルベール殿下から疎まれ、その社会的価値が暴落し始めたことを、誰よりも早く嗅ぎ取ったのだ。かつての「親友」という肩書きを、自分を汚す不名誉として必死に洗い落とそうとする、その浅ましくも鋭い生存本能。)
セレスティーヌの求心力の低下を敏感に察知し、いち早く「勝ち馬」へと乗り換えた彼女の掌返し。
それが、物理的な圧力となって、私の胸板を押し返してくる。
避けることは容易だった。
だが、私はあえて、彼女たちの中心へと直進した。
ぶつかる、という事象を、自ら迎えに行くように。
ガンッ、と。
肩と肩が衝突した衝撃が、鎖骨を伝って頭蓋の奥まで響いた。
一瞬、平衡感覚が揺らぎ、胃の内容物がせり上がるような不快感が込み上げる。
「あら、失礼。セレスティーヌ様。あまりに透明すぎて、気づきませんでしたわ」
ベアトリクスの扇が、パチンと小気味よい音を立てて閉じる。
彼女の背後に控える令嬢たちの間から、尖った嘲笑の礫が投げつけられた。
「平民に嫌がらせをするお暇があるなら、もう少し徳をお積みなればよろしいのに」
私は立ち止まり、ゆっくりと、首の関節を一つずつ動かすように彼女たちへ向き直った。
顔の筋肉を極限まで制御し、表情という名の仮面を生成する。
口角を数ミリだけ引き上げ、瞳からは一切の感情を放逐した。
鏡のように冷たく、すべてを撥ね返す完璧な微笑。
「……透明、ですって?」
私の声は、私自身の耳にも、遠い異国の鐘の音のように響いた。
その無機質な響きに、令嬢たちの嘲笑が、凍りついたように止まる。
廊下の温度が、一気に数度下がったかのような錯覚。
「わたくしが存在を主張せずとも、皆様が勝手にわたくしの名を囁き、広めてくださるのでしょう? まるで、冬の朝に這い出る害虫のように、勤勉に、卑しく」
「なっ……! なんて、なんて恐ろしいお人……!」
シャルロット・ド・ラ・フォンテーヌが、震える指で私を指差した。
その指先は、恐怖と怒りで白く、死人のように褪せている。
私は、彼女たちの震えを、心の中で冷徹に計測した。
『足りない。もっと、私を憎みなさい』
私が悪であるという確信が、彼女たちの正義を補強する。
彼女たちが私を激しく糾弾すればするほど、ステラへの同情は深まり、物語は収束へと向かう。
私は、さらに深く、暗い言葉の海へと潜っていく。
「不愉快だわ。わたくしの視界から消えて頂戴。下等な者の感情を、これ以上わたくしの肌に触れさせないで」
言い放つと同時に、私は彼女たちの脇をすり抜けた。
背中を向けても、私の足取りは乱さない。
背骨が一本の鋼鉄の棒になったかのように、私はその姿勢を維持し続けた。
背後に突き刺さる罵倒。
それは、目に見えない無数の針となって、私の背中の皮膚を突き破り、深部へと達する。
痛い、という感覚が、遅れて脳に届いた。
角を曲がり、人影が消えた瞬間。
私は、壁に片手を突き、崩れそうになる膝を辛うじて支えた。
大理石の壁は、冷酷なまでに冷たく、私の体温を貪欲に吸い取っていく。
喉が、ひりひりと焼けるように痛む。
言葉を紡ぐたびに、自分自身の内側が削り取られていく。
ドレスの襞を握りしめる私の右手に、力が入りすぎている。
爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが現実感を繋ぎ止めていた。
「……大丈夫。私は、完璧な悪役よ」
声に出した言葉が、空気に溶けて消える。
その震えを誰にも聞かせないために、私は再び、浅い呼吸を繰り返した。
ふと、廊下の向こうから。
静かな、だが逃れられない引力を伴った足音が聞こえてきた。
私の心臓が、肋骨を内側から叩く。
その規則正しいリズムは、私が先ほどベアトリクスたちに見せた、あの偽りの「強さ」を粉々に粉砕しようとしていた。
そこには、誰もいないはずの空間に。
たしかに、圧倒的な「重さ」を伴った何かが、近づいてきていた。
私は、自分の呼吸が完全に止まったことを知る。
次に目を上げたとき、そこに現れる存在が、私の「質量」をすべて奪い去ってしまう予感に、全身が粟立っていた。




