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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第18話 知らないから、怖いのです

 深夜の温室で、あの銀灰色の髪と交錯してから数日が過ぎた。

 世界は沈黙を守っている。

 レオン・ノワールクールが私の秘密を誰かに漏らした気配はない。


 学園は、何事もなかったかのように、緩慢で退屈な時を刻み続けていた。

 アルベール殿下の氷のような視線も、ステラの震える肩も、マルグリットがばら撒く悪意の礫も。

 それらは形を変えることなく、日常という名の澱みの中に沈んでいる。


 だが、私の内側だけが、目に見えない速さで摩耗していた。

 沈黙とは、情報の不在ではない。

 それは、いつ爆発するか分からない「予感」という名の重圧だ。


 自室の扉を開けるたび、廊下の角を曲がるたび、私は無意識に呼吸を止める。

 視線の端に、不自然な光の反射を見つけるだけで、心臓の裏側が冷たい針で突かれたように跳ねる。

 彼が、あの深い青い瞳を持った「観察者」が、そこに立っているのではないか。


 疑心暗鬼という名の微熱が、皮膚の下を這い回っている。

 放課後の廊下。

 西棟の三階は、陽光が斜めに差し込み、古い木床に蜂蜜のような粘り気のある影を落としていた。


 ここは人通りが少ない。

 図書室へはもう行かない。温室にも、あの夜の残響が残る場所には近づかない。

 私は自分の行動範囲を、呼吸が届く最小限の円の中に閉じ込めていた。


 早く、自分の部屋へ。

 厚い木扉の向こう側、鍵という名の物理的な結界の内側へ。

 そう思って足を早めた時、視界の端が、不自然な「密度の変化」を捉えた。


 私の部屋の扉。

 その真ん前に、一つの人影が、空間に楔を打ち込むように立っていた。

 逃げ場のない、細い廊下の突き当たり。


 銀灰色の髪が、傾いた陽光を吸い込んで、冷たく、鈍い光を放っている。

 軍服を思わせる隙のない制服。

 肩のラインは重力に従わず、水平な緊張を保ったまま。


 レオン・ノワールクール。

 私の足が、コンクリートを流し込まれたように重くなり、床に縫い付けられた。

 一歩ごとに、床板が軋む。その音が、静寂の中で異常なほど大きく鼓膜を叩く。


 逃げられない。

 私の背後には、延々と続く無機質な廊下。

 彼の背後には、私が唯一、息を吐くことを許された安息の地。


 距離にして、あと五メートル。

 空気が、水の中のように重苦しく変質していく。

 吸い込むたびに、肺の奥が微かに痛む。冷たい、鉄の匂いが混じっている気がした。


 私は顔の筋肉を、指先で無理やり成形するように動かした。

「完璧な鋼の笑顔」。

 それは、感情を覆い隠すための仮面であり、私を支える唯一の装甲。


「……ごきげんよう、ノワールクール公爵様。わたくしに何か御用でしょうか」

 声は、思いのほか平坦に出た。

 だが、言葉を吐き出した瞬間に、喉の奥が砂を噛んだように渇いた。


 抱えていた本を、胸元で強く抱きしめる。

 ドレスの厚い生地越しに、指先が微かに痙攣しているのが伝わってくる。

 爪が装丁に食い込み、指先の血の気が引いて、爪の白い部分が月光のように浮き上がる。


 レオンは、ぴくりとも動かなかった。

 ただ、その深い青い瞳だけが、私の顔を、首筋を、そして震える指先を、冷徹になぞっていく。

 まるで、皮膚の下にある毛細血管の拍動まで読み取ろうとしているかのように。


 彼が見つめているのは、私の「笑顔」ではない。

 その下に隠された、今にも崩れ落ちそうな「怯え」そのものだ。

 透過されている。私は、彼の前で、物理的な質量を失って透明になっていく。


 沈黙が、廊下を満たしていた。

 それは、単なる無音ではない。

 彼が発する「存在」そのものが、空気の密度を異常に高め、呼吸を困難にしている。


 彼は、そこに立っているだけで、世界を支配していた。

 その沈黙は、私を追い詰める最も残酷な武器だった。


 私は、たまらず視線を落とした。

 彼の足元。磨き上げられた黒い革靴。

 そこには、一分の隙もない、硬質な意志が宿っているように見えた。


「……あなたは――私の知らない人」

 震える唇から、ようやくこぼれたのは、拒絶という名の悲鳴だった。

 言葉にした瞬間、自分の声が、自分の耳にさえ他人のもののように低く、かすれて届く。


 レオンの眉間が、わずかに、本当にわずかに、中央へ寄った。

 その微細な変化を、私の網膜は、スローモーションのように執拗に記録する。

「……知らないのに、なぜ怖がる?」


 低く、地熱を孕んだような声が降ってきた。

 その声の振動が、床を伝って、私の足の裏から背骨を駆け上がっていく。

 怖がっていること。それを指摘されただけで、心臓の鼓動が耳元で鐘のように鳴り響く。


 必死に、微笑みの角度を修正しようとした。

 けれど、頬の筋肉は私の意志を拒絶し、ただ不自然に強張るだけ。

 指先は、今や隠しようもないほど、目に見えて震え始めていた。


「……知らないから、怖いのです」

 それが、精一杯の虚勢だった。

 そして、認めたくなかった、どうしようもない真実。


 光の中に、埃の粒子が舞っている。

 それさえも、今の私には、肌を刺す無数の針のように感じられた。

 レオンは、私の答えを、咀嚼するように沈黙の中で受け止めていた。


 永遠にも思える時間が、二人の間を流れていく。

 廊下の突き当たりにある時計の針が、一秒を刻むたび、衝撃波が全身を揺らす。

 カチ、カチ、カチ。それは、私を追い詰める足音のように聞こえた。


 やがて、彼は深く、長く、ため息をついた。

 肺の中の空気をすべて入れ替えるような、重みのある呼吸。

 彼は私から視線を外すと、ゆっくりと、その巨躯を動かした。


 壁に預けていた重心を、反対側へ。

 私の部屋の扉から一歩、横にずれる。

 それは、獲物を見逃す捕食者の、気まぐれな譲歩のように見えた。


 通れ、と。

 言葉はなかったが、開かれた空間がそう告げていた。

 私は、逃げるように足を動かした。


 彼の横を通り抜ける瞬間、空気の温度が、一気に数度下がった気がした。

 石鹸のような、そして微かな煙草のような、彼の匂いが鼻腔をかすめる。

 その匂いさえも、今の私には、身体を縛る鎖のように感じられた。


 震える手で、鍵穴に鍵を差し込む。

 金属と金属が噛み合う、不快な摩擦音。

 一度、二度。指に力が入らず、鍵が滑る。


 背後で、彼の視線が、まだ私の背中に突き刺さっているのが分かる。

 まるで、物理的な質量を持って、肩甲骨のあたりを押し込んでいるかのような圧力。

 ようやく鍵が回り、私は部屋の中へと滑り込んだ。


 扉を閉め、内側から鍵をかける。

 ガチャン、という金属音が、私の世界を外側から切り離した。

 その音を合図にするように、私はその場に崩れ落ちた。


 冷たい床に、膝が打ちつけられる。

 鈍い痛みが走るが、それ以上に、全身の力が指先の末端から抜けていく。

 私は床に手をつき、荒い呼吸を繰り返した。


「はぁっ……、はぁ……っ」

 冷や汗が背中を伝い、肌着をじっとりと濡らしていく。

 喉が、ひりひりと焼けるように痛い。

 肺が、うまく空気を捉えきれずに、空回りしているような感覚。


 逃げられた。

 いや、見逃されたのだ。

 図書室のように、彼が立ち去るのを隠れて待てる状況ではなかった。


 彼は、私の唯一の逃げ場を、その身体で塞いでいた。

 私が「私」でいられる最後の境界線。

 そこに立って、彼は私に「答え」を強いたのだ。


 そして。

 その絶望的な恐怖の、さらに深い場所。

 汚泥の底に一滴だけ混じり込んだ、澄んだ水滴のような感情があった。


 誰も、私を見ていなかった。

 アルベール様も、ステラも、マルグリットも。

 彼らが見ていたのは、私が作り上げた「悪役」という名の虚像に過ぎない。


 なのに、あの男だけは。

 レオン・ノワールクールだけは、私の仮面の裏側にある、震える素顔を覗き込んだ。

 『彼だけが、私を見つけてくれた』。

 それは、私がずっと恐れていたこと。誰かに見つけることで、私が「私」でいられなくなること。しかし、彼の視線には、私を裁こうとする冷たさはなかった。ただ、静かに、私を見つめているだけだった。


 その事実に、私は吐き気を覚えるほどの嫌悪と、

 どうしようもない安堵を、同時に抱いていた。


 心臓の鼓動が、ゆっくりと、しかし確実に、本来のリズムを取り戻していく。

 だが、その一拍一拍が、今度は別の重みを伴って、私の身体を内側から叩いていた。


 彼は、もう去っただろうか。

 薄い扉一枚を隔てた廊下の、その静寂の密度を、私は今も肌で感じている。

 彼が立っていた場所だけ、空気がいつまでも冷え切っているような、そんな錯覚。


 窓から差し込む夕闇が、部屋の隅をじわじわと侵食していく。

 私は立ち上がることができず、ただ、閉ざされた扉の裏側で、

 自分の内側に新しく生まれた「重り」の正体を、測りかねていた。


 物語は、もう動き出してしまった。

 私がどれほど、その質量に耐えかねて、目を背けようとしても。

 世界は、あの銀灰色の光を反射して、私の輪郭を鮮明に描き出そうとしている。


 知らない人。

 そう呼んだはずの彼の存在が、今や私の部屋の空気に、

 抜けない染みのように、深く、濃く、溶け込んでいた。


 私は、自分の指先を見つめた。

 もう震えは止まっている。

 だが、そこには、扉の取っ手を握った時の、金属の冷たさと重みが、

 いつまでも消えない痕跡として、確かに残っていた。


 これから、どうすればいい。

 問いは、暗くなった部屋の中に、音もなく沈んでいった。

 不在となったはずの廊下から、なおも「重力」が押し寄せている。


 私は、重い身体を引きずるようにして、ベッドへと向かった。

 一歩ごとに、床が私の存在を確かめるように、深く、短く、軋んだ。


 今夜は、きっと眠れない。

 まぶたの裏に、あの青い瞳が、

 暗闇を射抜く光芒のように、焼き付いているから。


 次に会う時、私は、

 どんな顔をして、その重みに立ち向かえばいいのだろうか。


 答えは、夜の帳の向こう側で、

 ただ、沈黙という名の質量を増し続けていた。

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